抄録
1 目的
本発表は、山間地域の典型である長野県下伊那郡のうちいわゆる遠山郷(旧南信濃村・旧上村)の中心集落である和田地区を中心に、歴史的文化的資源であり、数多くの分布がみられる神仏の存在を評価して「神様王国」を提案し、それが具体化したプロセスとその背景を示す。
2 方法
発表者らは、遠山郷の山村性に関する研究を進めてきた。その過程で多くの神仏が個々の村人により勧請されており、その資源に注目するとともに、地元での多くの聞き取り調査をふまえて神仏のデータベースをつくり、それらをもとに、地元に「神様王国」づくりの提案を行ってきた。
3 実践経過と背景
(1) これまで、遠山郷和田地区を中心に神仏調査を繰り返し行ってきた。その結果、多くの神仏は各個人が勧請し、自宅のみならず、路傍や田畑、そして山の中にまで祀られていること、それら神仏は地元に土着した水神や山神などの神仏と郷外から勧請してきた神仏とに分けられ、後者が圧倒的に多く、近くは山住、秋葉、富士浅間、遠くは金毘羅、愛宕、伏見、津島、三峰など、広範な地域の神々が勧請されたことがわかる。
(2) 後者の神々は、天保期以降から明治、大正期にかけて勧請されている。その背景には、江戸時代に入ると、中世土豪の遠山氏に代わり徳川家康がこの一帯を支配し、江戸の町づくりのための森林資源の確保と、武田残党の監視のために、他国との交流を断ち鎖国状態にしたことがあった。地元民は飢饉や疫病に悩んだが、なす術もなかった。それが江戸時代後半に入ると森林資源が枯渇し、鎖国状態がゆるみ、飯田と遠州方面を結ぶ秋葉道の利用が高まり、和田には自然発生的に宿が成立した。こうして多くの情報が流入し、宿で多少財をなした人々は他国への旅もできるようになり、各地から飢饉や疫病などに効果があるとされる神仏を勧請することになった。
(3) 以上のように、少し前まで地元の人々の生活の一部であった神仏を今日的な歴史的文化的資源として活用し、「神様王国」プランを描けるようになってきた。調査過程において神仏の来歴を多くの地元の人々から聞き取ることで、「神様王国」プランが次第に理解されるようになり、そして地元商工会の中に「神様王国建設実行委員会」が組織され動き始めた。
(4) このプランが地元に受容され、地元側がそれを活用し始めた背景には、平成の大合併により飯田市へ合併され、地元の意志表現の場を失い、行政依存への限界を実感したなかで、地元に自立的なムラづくりを目指そうとする状況が生じていたことがある。
【参考文献】
藤田佳久・高木秀和(2006):「南信州遠山郷の和田地区に「神様王国」をつくる基礎的研究」、187―206頁。
藤田佳久・高木秀和(2007):「遠山郷に「神様王国」をつくるプランについて」、113―131頁。
藤田佳久・高木秀和(2008):「南信州遠山郷に「神様王国」をつくるプランの実現へ」、107―124頁。
上記、いずれも愛知大学中部地方産業研究所の年報に収録。