人文地理学会大会 研究発表要旨
2008年 人文地理学会大会
セッションID: 409
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第4会場
奄美出身者の再移住とネットワークの広がり
―神戸と倉敷における同郷団体の事例をもとに―
*中西 雄二
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抄録

_I_ はじめに
 同郷者集団研究の成果をまとめた松本・丸木(1994)は、人びとが都市移住する際に都市と村落の結節機能を果たすものとして同郷団体を捉えた。だが、地方出郷者の移住過程や同郷団体の形成過程は、単に都市(移住地)と村落(出身地)の2つの要素のみによって規定されたり、影響されたりするものではない。従来の「都市の中のムラ」として同郷団体や地方出郷者の生活を捉える研究に対し、多様なネットワークのなかで暮らす都市生活者という地方出郷者の姿を明示する研究成果も提示されてきた。また、都市移住後のさらなる再移住を含む移動性に富んだ国内移民としての要素や、地域を越えた広範な同郷者ネットワークの存在も近年では無視できない。
 以上の視座を踏まえて、本発表では1960年代以降に倉敷への奄美出身者、特に沖永良部出身者の移住過程を同郷団体の事例から考察していく。あわせて、神戸をはじめとする地域を越えた同郷者ネットワークの空間的拡大について検討していく。

_II_ 倉敷への奄美出身者の移住
 奄美諸島から日本「本土」への大規模な人口移動は1900年頃から認められる。1920年代には阪神地方や京浜地方への工場労働者としての移住が増大し、各地で同郷団体の設立も盛んに行なわれていった。なかでも神戸は三菱・川崎財閥に関連する工場へ同郷者の紹介で縁故就職するものが多く、奄美出身者の集住が最も顕著な地域の1つとなる(中西2007)。
 一方、倉敷へ多数の奄美出身者が移住するようになったのは比較的遅く、1960年代の水島地区における大規模な工場地帯の造成以降である。その直接的な契機となったのは、1961年に設置され、1965年に操業を開始した川崎製鉄水島製鉄所の新設であった。川崎製鉄の新たな基幹工場の労働人員として、既存工場のあった神戸の人員が配置転換され、そのなかにかなりの数の奄美出身者が含まれていたのである(西村2006)。川崎製鉄は水島への進出時、岡山県と倉敷市と結んだ協定のなかで社宅など労働者住宅建設への協力を取り付けているが、実際に造成された住宅地に奄美出身者の多住がみられるようになっていく。

_III_ 岡山沖洲会の設立と活動
 同郷者の増大に伴い、倉敷において岡山沖洲会が1971年に設立された。「沖洲会」とは奄美諸島のなかの沖永良部島出身者の同郷団体という意味で、これは倉敷在住奄美出身者の大半が沖永良部島出身であるということによる。会の設立には神戸から転勤してきた川崎製鉄社員が中核として関わった。
 岡山沖洲会の設立当時について、同会の創立30周年記念誌では「水島の殆どの郷人は川鉄の転勤者が多く、建設当初から来られた人達の苦労はとても筆舌では書き尽くせないぐらいで、新興都市に共通する活気はあるが、住むにはあまりにもわびしく不便で、知り合いとてもなく、特に都会から移ってきた者にとり、実に耐えがたい」(岡山沖洲会2001)状況であったと記述されている。ここから新たな移住地での孤独を解消する必要から設立に至ったことがうかがえる。また同時に「都会から移ってきた者」という表現からは、既に都市生活者となっている奄美出身者の一面と、その自己認識を表しているといえよう。
 戦前期や奄美諸島のアメリカ軍政期に設立された同郷団体は、ホスト社会から受けた偏見や他者化の経験が極めて重要な外的要因としてその活動に作用した。これは出身地の奄美諸島が国民国家・日本における境界地であることに起因するものであった。しかし、高度経済成長期に設立された岡山沖洲会では設立当時から象徴的な文化活動が中心で、親睦団体としての側面が強く打ち出された。

_IV_ 地域を越えた同郷者ネットワーク
 現在、日本各地に沖永良部出身者の同郷団体である沖洲会は、岡山沖洲会を含め10団体(千葉・東京・愛知・大阪・尼崎・神戸・岡山・鹿児島・奄美・沖縄)が活動している。このうち、千葉と愛知は岡山同様に川崎製鉄関連工場の配置転換に直接的な影響を受けて設立に至った団体である。これら10団体は1999年に全国沖洲会連絡協議会を構成し、相互の情報交換や連携を行なっている。岡山沖洲会は設立の経緯から、神戸沖洲会との交流が特に盛んになされている。また、全国の沖洲会と沖永良部島の2町との交流も盛んで、行政側が積極的に全国の沖洲会との交流を重要な事業の1つとして捉えている。

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