抄録
神戸外国人居留地(以下、神戸居留地)は1868(明治元)年、日米通商修好条約に基づき開港して以来、神戸の都心部として発展してきた。その後1899(明治32)年に日本政府は欧米諸国との条約改正を行い、神戸居留地をはじめとする全国の外国人居留地は解消され、日本政府の手に還ることとなった。この明治初期から始まる、約30年という期間は神戸居留地の形成史と言え、学術的な研究蓄積も多い。しかし同地の1899(明治32)年以降の歴史に関して言えば、その研究蓄積は非常に少ないのが現状である。本発表は神戸居留地が返還以降、日本側に受容されていく過程の中で、「抑圧されてきた日本人」という居留地時代のネガティヴな記憶が生産され、また同時に日本人というナショナルなアイデンティティが練り上げられていったことを論証する。外部から持ち込まれた都市空間が、その統治者が去った後も一種の遺産として、「被」統治者のアイデンティティに関わる影響力を発揮しているこうした状況は、他の植民地においてもみられるものであり、これらの観点から本発表では神戸居留地を植民地的遺産として論じる。
1899(明治32)年に神戸居留地が日本政府に返還されてからは日本企業が、長らく欧米企業の天下であった同地に進出を始めた。特にその動きが顕著に表れたのが第一次大戦期である。1914年からの第一次世界大戦によって欧州を不況の波が襲い、多くの外商が神戸居留地からの撤退を余儀なくされた。その結果、同地に立地していた多くの商館を日本人が買収するに至ったのである。
当時期の新聞はこぞってこの現象を取り上げ、記事には「落ちぶれる外国商館」「日本人は那麼ことで何時までも辛棒して居る人間ではない」といった言葉が躍ることとなった。ここで特筆されるべきことは、過去欧米企業に苦しめられてきた日本人、という物語が幾度も繰り返されている事実である。こうした言説は、神戸居留地が返還される以前にはあまり目立たず、むしろこの第一次大戦期になって噴出してきた。
そして神戸居留地が外国人の手を離れる決定的な事件として、永代借地権問題が挙げられる。昭和期になると多くの新聞記事が、居留地内の外商たちが、この永代借地権という権利を盾に税金滞納をしている現状を告発することとなった。同権利は日本政府が各国と締結した修交通商条約に基づいて神戸や横浜を開港した際、外国人が日本国内で土地を所有することを許さず、土地を無期限に「貸与」するという形をとったことから始まる。永代借地権を有する外国人の多くが、長年同権利を盾に日本の各諸税を拒否してきたこの問題は、多くの新聞記事において神戸居留地に関するネガティヴな記憶の生産を一層誘発することとなった。そこでの構図は過去に「抑圧されてきた日本人」が、今や一等国の仲間入りをしているにもかかわらず、欧米人が依然として居留地において我が物顔をしているというものである。やはりここでも劣位に置かれた日本人という構図に変化はなく、不平等な現状を打破すべしとの結論で締めくくられる。
そして日本人が神戸居留地を獲得していく一つの契機として、1894(明治27)年に始まった日清戦争の物語が、第一次大戦以降に生産され始めたことが挙げられる。神戸出身の作家である陳舜臣は、昭和初期に「日清戦争に勝って、やっと認められ、不平等条約は撤廃され、明治三十二年七月にこの土地(神戸居留地)が日本に戻ったのだ」と学校の教師に教わった思い出を回顧している。歴史的事実から述べるならば、日清戦争の勝利と不平等条約改正との間に直接的な因果関係はない。それにもかかわらず「日清戦争勝利→不平等条約改正」という図式は、この発言だけでなく第一次大戦以降の新聞記事や観光ガイドにも散見される。この図式が構築された背景としては、まず上述の第一次大戦以降における日本企業の躍進という事実が存在する。この神戸居留地における欧米企業に対する、一定の優越性の起源として不平等条約の改正、すなわち神戸居留地の返還が見出された。そしてこの不平等条約改正を実現したのが、日清戦争の勝利とされたのだ。
このように神戸居留地が返還されて以降、その受容のされ方はネガティヴな記憶の生産も相まって、極めて日本国家(日本人)としての意識やアイデンティティを喚起するものであった。神戸は諸外国に統治された事実こそないものの、居留地時代の記憶の中では過去に抑圧されてきた日本人が描かれる。そして新聞などのメディア上で、そうした過去から続く不平等な現実を打破する日本人像が生産されていく中で、日本人としてのアイデンティティが喚起されてきたといえよう。この流れの一つの結節点とも言えるのが、日清戦争と条約改正の物語であった。本発表ではこれらの点を中心に論じる。