人文地理学会大会 研究発表要旨
2010年 人文地理学会大会
選択された号の論文の64件中1~50を表示しています
特別発表
  • 川口 洋
    セッションID: 11
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     天然痘は,高熱を発し,水泡性の発疹が四肢に広がることを主症状とする感染症である。牛痘種痘法が導入されるまで有効な予防法がなかったため,江戸時代に生きた人々民衆も天然痘を生涯に1度は罹る致命率の高い病と認識していた。しかし,衛生統計が整備されるまでの期間における天然痘流行の実態,天然痘への対処法,牛痘種痘法の導入過程に関する研究は,全く未着手とみられる。他方,痘苗が日本にもたらされた嘉永2(1849)年は,持続的人口増加開始期に当たる。牛痘種痘法導入期の天然痘による疾病災害の実態解明は,持続的人口増加がいかなる状況下で始まったか,という課題に接近を図るためにも不可欠である。本報告では,19世紀中後期の多摩郡周辺における牛痘種痘法の導入過程と天然痘死亡率との関係について検討する。
  • 淡野 明彦
    セッションID: 12
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     1974年に刊行された浅香幸雄・山村順次共編による『観光地理学』は、日本における地理学サイドからの観光に関する研究の大きなエポックであった。これまでの観光研究の主体であった観光地の分布、観光客の流動形態という平板的な記載から脱皮させ、地理学の基本的な課題である地域形成や地域構造の解明へと進化させる研究へと発展させる大きな流れを提示した。この後、石井英也、白坂 蕃、淡野明彦、呉羽正昭は地域の全体構造と観光との関係を有機的にとらえ、観光地域の形成についての一般的な説明体系を明らかにした。欧米に遅れをとっていた日本の地理学における観光研究は、20世紀後半において質的に大きな発展をみた。以降の観光に関する新しい研究の動きをもとらえ、今後の地理学としての観光研究の課題を考察する。
  • 山崎 孝史
    セッションID: 21
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     近年の日本をめぐる国際関係および日本社会を鑑みれば、国際緊張の常態化と紛争の日常化というマクロ・ミクロ2つのスケールで展開する政治の動態的変化を指摘できる。発表者はそうした変化に対する地理学的アプローチとして、英米の政治地理学における「新しい地政学」および「場所の政治」の視角に着目してきた。しかし、日本の地理学においてそうした視角は未だ確立されていない。今日の政治地理学は、スティグマ化された伝統地政学がイメージさせるものとは異なり、現代社会の対立・紛争・権力関係一般に関わる多様なアプローチと事例研究で特徴づけられる極めてアクティブな研究分野である。本発表は「空間」、「場所」、そして「領域」という地理学の基本概念がいかに政治的な意味を持ちうるかを理論的かつ実証的に示すことによって、日本における政治地理学の復権を目指す。
  • 荒木 一視
    セッションID: 22
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     腹いっぱいうまいものを食えるということは,人類が人類になる以前からの願望であるとともに,これからもそうあり続けるだろう。今日の世界を見渡しても貧困や飢餓が解消されたわけではなく,多くの人々が腹いっぱい,満足のいくまで食えない状況は至る所にある。日本に暮らす私たちにとって,腹いっぱい食えないということは現実的ではない。しかし,大量生産された高カロリーの加工食品が氾濫し,誰がどのようにして作ったかも知らないままに日々の食材を消費する。さらに近年は食の安全や安心が脅かされる事件が頻発している。私たちははたして本当にうまいもの(良質食品)を満足のいくまで食べられているのだろうか。食べ物のことをどうこう言うのは卑近なことではある。しかしそれ故に人類の永遠のテーマでもある。このテーマに対して地理学はどのようなアプローチを展開できるだろうか。
一般研究発表
第1会場
  • 駒木野 智寛
    セッションID: 101
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    歴史地理分野 東北地方の縄文時代前期と中期の竪穴住居址の出入口の位置を推定し、16方位に区分し、最近30年間の最多風向と比較し考察した。
  • 川西 孝男
    セッションID: 102
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    本発表は,ドイツ・バイロイトをとりまく自然や思想文化と,当地に赴任した若きアレクサンダー・フンボルトとのかかわりに焦点を当てつつ,バイロイトのロマン主義が近代地理学,人文地理学さらには地球環境学に及ぼした影響について考察したものである。
  • 石田 曜
    セッションID: 103
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    明代遼東の軍事都市、廣寧における馬市の形成過程を通じて、都市及び地域の政治・軍事・経済的空間構造がどのような諸力によって構築されたかを解明する。
  • 山近 久美子, 渡辺 理絵, 波江 彰彦, 鈴木 涼子, 小林 茂
    セッションID: 104
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     発表者らは、2008年3月以降、アメリカ議会図書館において日本軍作製の外邦図を調査してきた。調査の過程で、ロシアやドイツが作製した中国の地形図も確認することができた。本発表では、ロシアやドイツ(プロイセン王国)による軍事測量地図と外邦図との比較を行う。
     日本の陸地測量部設立に影響を与えた、プロイセン王国軍による地図作製は、1700年以降実用的な地図が作製され始め、1875年の陸地測量部設置以降、地形図作製体制が整っていった。ロシアでは、1822年に軍事地形測量技師団が設立された。
     ロシアによる満州地域の測量は、日清戦争後の権益拡大とともに進んだ。ドイツも三国干渉後膠州湾を租借地とした。"Übersichtsblatt zur Karte von Ost-China 1:1000000" は1901年刊行で朝鮮半島や台湾も範囲に含まれる。"Marshrouten-karte der Prov.Mukuden.1904" はムクデン(現瀋陽)周辺の16,8000分1図で、調査行路沿いの集落、地形を記した初期外邦図の路上図と類似している。
    これらの分析から、1901年に日本作製地図を参考にしてドイツの100万分1東中国図が作製され、先行して本格的地図を作製していたロシアの4露里図を参考にして1904年以降ムクデン地区の地図作製を行ったと位置付けられる。 本研究は、1919年(大正8)に臨時第二測図部長の口羽武三郎がロシアの満蒙調査、ドイツの山東省20万分1地図、さらにイギリス、アメリカの秘密測量について言及していた中国における列強の測量状況の解明に貢献できるものである。
  • 鳴海 邦匡, 上田 長生
    セッションID: 105
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    近世前期大坂の淀川水系を中心とした河川整備事業について、同時代に作成された絵図の分析を中心に検討する。
  • 長谷川 奨悟
    セッションID: 106
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    本研究は近世京において刊行された名所地誌本を研究のテキストとする名所研究である。本発表では、19世紀初頭の京で刊行活躍した池田東籬の編纂した名所地誌本に表象される京名所の特徴について述べ、そこに示される編者の名所観について言及したい。
  • 渡邉 英明
    セッションID: 107
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    雁木通りは,街路に面した町屋が軒先を張り出すことで形成されたアーケード状の構造物で,新潟県を中心とする降雪地域で特徴的にみられるとされてきた。雁木通りをめぐっては,従来,無雪通路としての意義が強調されてきたが,玉井(1994) は,江戸の庇下空間のような商業機能が,降雪地帯の雁木通りでも同様に重要であった可能性を指摘している。雁木通りの商業機能は,今後検証を進めるべき論点といえよう。
    さて,雁木通りは江戸時代に起源を有することが指摘されながら,近世史料に基づいた本格的な分析は長くみられなかった。そのなかで,菅原(2007)は,越後・陸奥・出羽など各地の事例を比較しつつ,近世初期から近代に至る雁木通りの形成・展開過程を検討し,雁木通りの商業機能についても,八戸藩や秋田藩について,定期市認可に伴って建設された小見世通りが多いことを指摘した。ただし,定期市設営時の雁木下利用の実態については,なお不明な点が多い。本研究では,19世紀の三条町を事例として,雁木通りの形成状況と,定期市設営時における商業機能について検討することを目的とする。
    三条町は1616年の市橋氏入封とともに城下町として整備され,1623年の廃藩後は在方町として発展した。町並は信濃川と五十嵐川の合流点付近に形成され,五十嵐川に沿って東西に展開した。上町の東端は一ノ木戸村に接し,さらに,その先は田島村に通じていた。両村は1717年に高崎藩領に編入され,三条町(幕領)と支配違になった。これを契機として,一ノ木戸村,田島村では町屋建設が進められ,その規制を求める三条町との間で,幕末期に至るまで争論が繰り返された。一連の争論では,一ノ木戸村・田島村の町屋における「庇(=雁木)」が度々問題になった。その後,幕府裁定により,両村の庇は撤去が命じられたが,町屋造成と同時に庇(雁木)建設の動きがあった点は興味深い。
    三条町の雁木通り建設時期について,氏家(1998:480)は江戸時代中期としている。これに関して,1846年に八幡小路の五人組頭8名が町会所に提出した嘆願書に「八幡小路の儀は両側とも地狭に付き雪中は雪卸し積立て候故通行難儀仕り候に付,古来より本町並庇通行に御聞済に相成り居り候」という一節がみられる(三条市立図書館所蔵文書1458,1846年「道路拡張願上書」)。八幡小路や本町通り(上町~四の町)で,無雪通路として利用されていた雁木通りは,1846年段階で「古来」とされる時期に形成された。18世紀中期には,縁辺部の田島村で庇建設の動きがみられたが,三条町内の庇(=雁木通り)は,その頃には広く形成されていたことが推定できよう。なお,三条町内の雁木通り形成街区について,氏家(1998)は上町から四の町に至る本町通りとしたが,菅原(2007:7-8)は幕末期の絵画史料から,四の町の西端(五の町境)や本寺小路でも雁木通りが存在したことを指摘した。それに加え,上記嘆願書からは,八幡小路における雁木通り形成も知られる。
    三条六斎市における雁木下利用は,1828年の三条地震を記録した『懲震毖録』に窺える。三条地震は,未曽有の大災害として知られ,六斎市が開かれている最中に発生した。大地震に,家屋は一瞬で倒壊し,本寺小路で見世を広げていた野菜売りが庇の下敷きになったという。『懲震毖録』は,市見世が庇下に設置されたことを窺わせるのみであるが,1884年「官有地御拝借願小前書」および「官有地拝借孫庇地麁絵図面」(三条市立図書館所蔵文書648・2315)は,より詳細な出店形態を示す。これらは,孫庇の設置場所とその幅員,使用者,使用料を記録した史料である。孫庇は,雁木先からさらに小庇を道路側に張り出したもので,1928年の加茂六斎市の規定に現れる紙天と同様の機能を果たしたとみられる。三条六斎市では,孫庇の張り出しは,4尺5寸以内に規制されていた。孫庇は,町の両端に多く内側に少ない傾向を示し,大町では著しい集積がみられる。
    三条町では,少なくとも19世紀末期まで,雁木を伴う町屋建設が継続されていたとみられる。しかし,その後は三条町の雁木通りは衰滅に向かい,1930年代には既に衰退が進んでいたことが報告されている。また,氏家(1998:480)も,1960年代に実施した現地調査から,大正後期に衰退が始まり,昭和初期に消滅したと位置づけている。これに伴って,雁木下を利用した三条六斎市の出店形態も,変容を余儀なくされた。

    文献
    氏家 武『雁木通りの地理学的研究』古今書院,1998。
    菅原邦生『雁木通りの研究』住宅総合研究財団,2007。
    玉井哲雄「町割・屋敷割・町屋―近世都市空間成立過程に関する一考察―」(都市史研究会編『年報都市史研究2』山川出版社,1994)68-85頁。
  • 波江 彰彦, 廣川 和花
    セッションID: 108
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    1.はじめに
     日本では,1899年から1926年にかけて断続的にペストが流行した。特に大阪は,最も多くの患者(死者)がみられた地域である。大阪では2回の流行が起こり,第一次流行(1899~1900年)には161名の患者(死者146名,致死率90.7%)を,第二次流行(1905~1910年)には958名の患者(死者860名,致死率89.8%)を数えた。本報告では,このうち第一次流行を取り上げる。後述する患者データベースを用いて,近代大阪における第一次ペスト流行の特徴について検討したい。
     なお,廣川(2010)は,第一次流行に対する防疫行政などについて検討している。第二次流行については,坂口(2005)やSakaguchi et al.(2005)が分析を行っている。
    2.分析に用いた資料
     大阪におけるペスト流行に関しては,第一次・第二次ともに詳細な記録が刊行されている。そのうち,第一次流行のものは,大阪府臨時ペスト予防事務局(1902)『明治三二、三三年大阪府ペスト流行記事』(以下,『流行記事』とする)であり,また,ほぼ同内容のものとして臨時ペスト予防事務局蔵版(1902)『百斯篤殷鑑』がある。報告者らは,後者の資料を用いて患者データベースを作成した。このデータベースには,患者の氏名,性別,年齢,住所,職業,発病年月日,症状,死亡(全治)年月日などが含まれている。
    3.第一次流行の概要
     大阪の第一次ペスト流行は,3期に分けることができる。第1期は1899年11月~1900年1月で41名の患者,第2期は1900年4~6月で50名の患者,第3期は1900年9~12月で70名の患者がみられた。
     患者が示すペストの症状は,ペスト菌の感染の仕方によっていくつかのタイプに分かれる。リンパ腺ペスト(腺ペスト)は最も一般的な症状であり,ペストに感染した齧歯類から吸血したノミに噛まれた付近のリンパ腺が腫れる。ペスト菌が肺に回ると肺ペストを発病する。肺ペストは人から人へと感染する。ペスト菌が直接血液に入ると敗血症ペストとなり,最も致死的である。皮膚ペストは,皮膚にペスト菌が感染し膿疱や腫瘍ができるものである。
     こうしたことをふまえて,患者データベースを集計した結果をいくつか提示する。流行期別・患者住所別の患者数をみると,流行全体では西区の患者数が最も多いが,期別でみると,第1・2期で最多だった西区に代わり,第3期では南区の患者数が最多となっている。
     次に,流行期別・生死別・症状別の患者数をみると,3期を通じて腺ペスト患者が最も多いが,特徴的なのは,第1期における肺ペスト患者の多さと,第3期における敗血症ペストの多さである。このうち前者については,短期間に人から人への感染が生じた結果である。このことについては,次節で説明する。また,生死別にみると,全治した患者がみられるのは腺ペストのみであり,それ以外の症状の患者はすべて死亡している。
    4.流行第1期における患者分布とペスト感染経路
     次に,第一次ペスト流行における3つの波のうち,流行第1期における患者分布とペスト感染経路について検討する。
     ペスト患者とペスト斃鼠の分布図から読み取れるホットスポットは大まかに2箇所あり,第1は初発付近の西区堀江川下流両岸,第2は西区川北四貫島の金巾紡績会社周辺である。
     『流行記事』では,ペストの感染経路について詳細な分析を行っている。それによれば,第1のホットスポットについては,患者1が出入りしていた住宅付近で多くのペスト有菌鼠が発見されたことと関連づけている。他方,第2のホットスポットは,人から人への感染と推定されている。金巾紡績会社の従業員だった女性から始まり,1か月あまりのあいだに,彼女の家族,この家の患者を診察した医師とその家族,この医師を診察した医師とその家族,そのほか最初の女性と接触のあった同居人や従業員などが次々と肺ペストや腺ペストで死亡した。
    5.おわりに
     今回用いた患者データベースからは,患者の居住地・発見地の位置関係やペスト感染経路のかなり詳細な把握が可能である。今後は,「大阪地籍地図」上に各患者をプロットする作業を考えているが,第一次流行の患者住所は「屋敷番制度」で記載されており,「大阪地籍地図」の地番とリンクしない。この点については検討中である。また,GISを用いて,ペスト患者やペスト感染経路に関する空間分析を行うことも考えている。
  • 末田 智樹
    セッションID: 109
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    従来、昭和戦前期までにおける百貨店と言えば、三越を筆頭に松坂屋、大丸、高島屋、白木屋、松屋などの呉服系百貨店が前面に押し出され、本報告の主題であるターミナルデパートに関して大きく論じられることはなかった。されど、百貨店の店舗立地を礎とした昭和戦前期までの都市商業空間の形成にとって、昭和初期に登場したターミナルデパートは欠かせない役割を果たしていた。 そこで、昭和戦前期における大阪を主軸とした日本のターミナルデパートの成立過程について浮き彫りにすることで、この時期までにターミナルデパートを成立させた要因とは何であったのか。そして、ターミナルデパートの出現が、現代に繋がる大阪の都市商業空間の原型を完成させていたのかなどをつまびらかにした。  小林一三による阪急百貨店は、大阪北部の梅田にターミナルデパートとして昭和4(1929)年4月15日に開店し、雑貨・実用本位の商品構成を基本として、「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」の大方針のもとに、呉服系百貨店よりも明確に営業戦略として位置づけて経営を展開した。昭和7(1932)年10月8日の新聞広告には、この営業の大方針を掲げた阪急百貨店が如何にしてそれを実践できたのかが説明されている。「経費がかゝらないから」と載せたうえで、「一 広告費が少くてすむから。一 現金売を主としてゐるから。一 外売をしないから。一 遠方配達の経費も省けるから。一 阪急電車の副業であるから。一 家賃がいらないから。」といった6つの要因をあげている。これは小林自らが考案したもので、電鉄のターミナルと併設した立地展開の利点を重視した彼の百貨店構想が、ターミナルデパートとして実現したことを述べている。開業当初の阪急百貨店は、立地条件に基づく店舗展開と商品販売に成功することで、阪急電鉄の沿線客をターゲットとする沿線の市場開拓を狙った経営戦略を強力に推進できたのである。  昭和4年4月10日から建設に着手し、昭和5年12月18日に高島屋南海店が一部開設したのと同時に、同年12月1日に株主総会の承認をへて「株式会社高島屋」に変更した。これによって高島屋はより積極的に大衆消費者向けの百貨店経営へと踏み出すことになり、新店舗の南海店がターミナルデパートであっただけに、同社にとっても明暗をわける挑戦となり、オープン当時大変な話題を呼んだ。その点から考えても、大阪北部の梅田に世界で最初の阪急百貨店によるターミナル方式のデパートが誕生して間もなく、1年半ほど経過して大阪南部の難波にもターミナルデパートが姿を現し、その後高島屋よりさらに大阪南部の地域に大鉄百貨店と大軌百貨店が営業を開始し、阪急百貨店と同じ梅田に阪神百貨店(阪神マート)が生成したことで、昭和初期において大阪の北と南の地域にターミナルデパートをセンターとする現在を想像させる大都市商業空間の原型が完成していたのであった。  このように昭和戦前期までの全国におけるターミナルデパート化の状況では、小林率いる阪急百貨店が設立されて以降、大阪・東京の私鉄会社による百貨店経営や全国の新興百貨店の勃興へ大きな刺激を与え、彼こそが革新的経営者であった。東京では京浜デパートや東横百貨店の成立へと広がり、これまでの呉服系百貨店とは異なったターミナルデパートという百貨店スタイルが大いに波及し、福岡市の岩田屋や岡山市の天満屋など地方百貨店のターミナルデパート化にも多大なる影響を与えた。小林の発想から始まる昭和戦前期までのターミナルデパートの成立が、戦後期以降今日までの日本における独特の百貨店業態発展の肝心な要となったのである。
  • 阿部 志朗
    セッションID: 110
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     19世紀後半から島根県西部=石見(いわみ)地方では、粗陶器生産を中心とする 石見焼 と、赤瓦で有名な 石州瓦(せきしゆうがわら) という二つの窯業製品が興隆し、とくに石見焼の代表的製品である水甕(はんど)は、江戸時代末期以降、海運により日本海沿岸地域に広範に流通したことが報告されている(阿部 2008,2009)。本報告では、韓国鬱陵島における現地調査を中心に、そこで確認された日本産の窯業製品(陶器の甕と瓦)について、その特色をもとに、戦前における島根県西部の窯業製品の生産・流通との関連を考察する。  現地調査により、鬱陵島内最大の集落 道洞 をはじめ少なくとも6集落で、キムチ漬けなどに用いられる韓国製の甕=甕器(オンギ)とは明らかに異なり、島根県西部の「石見焼」の水甕(「石州甕」)と同様の特色を持つ甕の所在が確認できた。また、かつて日本人が最も多く住んでいた 道洞 で、日本製の瓦の家屋も確認できた。瓦はすべて甕と同じ茶色の釉薬が使われ光沢があり、瓦当の部分に窯印があることなどから大正期の島根県江津市周辺でつくられた石州瓦であることが分かった。  阿部のこれまでの報告と合わせ、韓国鬱陵島には島根県西部で戦前に生産されたと見られる石見系の水甕・石州瓦があること、鬱陵島にある石州瓦の窯印は北陸~北海道の日本海沿岸各地に現存する石見焼の水甕のものと同じ印があることなどが分かり、日本海海運による戦前の島根県西部の窯業製品の流通が、国内の日本海沿岸地域に加え、少なくとも韓国鬱陵島にも及んでいたことが明らかになった。
  • 中上 郁
    セッションID: 111
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     神戸外国人居留地(以下、神戸居留地)は1868(明治元)年、日米通商修好条約に基づき開港して以来、神戸の都心部として発展してきた。その後1899(明治32)年に日本政府は欧米諸国との条約改正を行い、神戸居留地をはじめとする全国の外国人居留地は解消され、日本政府の手に還ることとなった。この明治初期から始まる、約30年という期間は神戸居留地の形成史と言え、学術的な研究蓄積も多い。しかし同地の1899(明治32)年以降の歴史に関して言えば、その研究蓄積は非常に少ないのが現状である。本発表は神戸居留地が返還以降、日本側に受容されていく過程の中で、「抑圧されてきた日本人」という居留地時代のネガティヴな記憶が生産され、また同時に日本人というナショナルなアイデンティティが練り上げられていったことを論証する。外部から持ち込まれた都市空間が、その統治者が去った後も一種の遺産として、「被」統治者のアイデンティティに関わる影響力を発揮しているこうした状況は、他の植民地においてもみられるものであり、これらの観点から本発表では神戸居留地を植民地的遺産として論じる。
    1899(明治32)年に神戸居留地が日本政府に返還されてからは日本企業が、長らく欧米企業の天下であった同地に進出を始めた。特にその動きが顕著に表れたのが第一次大戦期である。1914年からの第一次世界大戦によって欧州を不況の波が襲い、多くの外商が神戸居留地からの撤退を余儀なくされた。その結果、同地に立地していた多くの商館を日本人が買収するに至ったのである。 当時期の新聞はこぞってこの現象を取り上げ、記事には「落ちぶれる外国商館」「日本人は那麼ことで何時までも辛棒して居る人間ではない」といった言葉が躍ることとなった。ここで特筆されるべきことは、過去欧米企業に苦しめられてきた日本人、という物語が幾度も繰り返されている事実である。こうした言説は、神戸居留地が返還される以前にはあまり目立たず、むしろこの第一次大戦期になって噴出してきた。
    そして神戸居留地が外国人の手を離れる決定的な事件として、永代借地権問題が挙げられる。昭和期になると多くの新聞記事が、居留地内の外商たちが、この永代借地権という権利を盾に税金滞納をしている現状を告発することとなった。同権利は日本政府が各国と締結した修交通商条約に基づいて神戸や横浜を開港した際、外国人が日本国内で土地を所有することを許さず、土地を無期限に「貸与」するという形をとったことから始まる。永代借地権を有する外国人の多くが、長年同権利を盾に日本の各諸税を拒否してきたこの問題は、多くの新聞記事において神戸居留地に関するネガティヴな記憶の生産を一層誘発することとなった。そこでの構図は過去に「抑圧されてきた日本人」が、今や一等国の仲間入りをしているにもかかわらず、欧米人が依然として居留地において我が物顔をしているというものである。やはりここでも劣位に置かれた日本人という構図に変化はなく、不平等な現状を打破すべしとの結論で締めくくられる。
    そして日本人が神戸居留地を獲得していく一つの契機として、1894(明治27)年に始まった日清戦争の物語が、第一次大戦以降に生産され始めたことが挙げられる。神戸出身の作家である陳舜臣は、昭和初期に「日清戦争に勝って、やっと認められ、不平等条約は撤廃され、明治三十二年七月にこの土地(神戸居留地)が日本に戻ったのだ」と学校の教師に教わった思い出を回顧している。歴史的事実から述べるならば、日清戦争の勝利と不平等条約改正との間に直接的な因果関係はない。それにもかかわらず「日清戦争勝利→不平等条約改正」という図式は、この発言だけでなく第一次大戦以降の新聞記事や観光ガイドにも散見される。この図式が構築された背景としては、まず上述の第一次大戦以降における日本企業の躍進という事実が存在する。この神戸居留地における欧米企業に対する、一定の優越性の起源として不平等条約の改正、すなわち神戸居留地の返還が見出された。そしてこの不平等条約改正を実現したのが、日清戦争の勝利とされたのだ。
    このように神戸居留地が返還されて以降、その受容のされ方はネガティヴな記憶の生産も相まって、極めて日本国家(日本人)としての意識やアイデンティティを喚起するものであった。神戸は諸外国に統治された事実こそないものの、居留地時代の記憶の中では過去に抑圧されてきた日本人が描かれる。そして新聞などのメディア上で、そうした過去から続く不平等な現実を打破する日本人像が生産されていく中で、日本人としてのアイデンティティが喚起されてきたといえよう。この流れの一つの結節点とも言えるのが、日清戦争と条約改正の物語であった。本発表ではこれらの点を中心に論じる。
  • 大石 太郎
    セッションID: 112
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     第二次世界大戦前における日本人の海外への移民については、地理学をはじめ多くの学問分野から関心が寄せられてきた。日本人の移住先は多方面にわたっており、環太平洋地域の全域に広がっているといっても過言ではない。環太平洋地域には第二次世界大戦前までに、人・物・金が移動する地域システムが形成されており、日本人の国際移動はそれを構成する重要な要素であった(米山・河原 2007: 18)。この立場に従えば、1892年以降、おもにニッケル鉱山の労働者として日本からの渡航者がみられるようになったニューカレドニアも、その地域システムの一部であったということになる。実際、ニューカレドニアには戦前期を通じて日本人が居住し、とくに日米開戦直前の数年間は人や金の往来が激しくなっていた。本報告では、ニューカレドニア公文書館が所蔵する在ヌメア日本領事館の記録に基づいて、第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人の実態を明らかにすることを目的とする。
    ニューカレドニアは、1774年にイギリスの探検家クックによって「発見」された。しかし、当時は領有には至らず、結局、1853年になってフランス領となることが確定し、流刑植民地として利用されるようになる。その後、1864年にジュール・ガルニエによってニッケルが発見されたことにより、急速に開発が進められた。19世紀後半、鉱山開発のための良質な労働力の確保を迫られた鉱業会社は日本に白羽の矢を立て、日本政府との交渉を模索する。
    ニューカレドニアの鉱業会社ル・ニッケルと日本外務省との間で合意に達し、契約移民として最初の移民が日本を旅立ったのは1892年のことであり、600名全員が熊本県出身の男性であった。以来、1918年までの間に5,500名あまりが契約移民としてニューカレドニアに渡航した。移民の出身県をみると、もっとも多くの移民を輩出したのが熊本県であり、2,049名を数えている。以下、沖縄県の821名、広島県687名、福岡県596名、福島県341名の順になり、全体としてみれば,一般に指摘されている傾向と同様に、西南日本からの移民が多数を占めているといえる。
    これらの移民は鉱業会社との契約に基づくものであり、たとえば5年間などの契約期間が終われば、帰国することもできた。実際、初回の移民はほとんどが帰国したようである。しかし、その後は現地にとどまる移民がみられるようになる。そして、首都ヌメアでは日本人の商店が軒を連ねるようになり、同時代の記録によると、外地とは思えぬ印象を訪問者に与えるほどであったという。第二次世界大戦直前には合弁により日系の鉱業会社が設立され、それにともなって日本との間で人の往来が活発になり始める。
    しかし、1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃を受けて、ド・ゴールの自由フランス側に立つニューカレドニア当局は日本人を一斉に逮捕し、順次オーストラリアへ強制送致した。終戦後に彼らは日本に強制送還され、ごくわずかな例外をのぞいてニューカレドニアに戻ることはなかった。日本人女性が極端に少ないなかで、現地の女性と結婚あるいは同棲した日本人男性も少なくなかったが、相手の女性とその間に生まれた子どもたちは、現地に残されることになった。こうして、戦前期ニューカレドニアにおける日本人移民社会は崩壊した。
     日本とニューカレドニアとの間の人の往来は第一次世界大戦以降、1920年代を通じて停滞していたが、1930年代に入ると再び活発になってくる。そのようななか、在ヌメア日本領事館は1940年3月に開設された。初代領事は黒田時太郎であり、続いて1941年3月に山下芳郎が2代目の領事として赴任している。ニューカレドニア公文書館には、日米開戦までの2年弱のあいだ存在した在ヌメア日本領事館の記録が所蔵されている(資料番号107W)。
    この記録にはさまざまなものが含まれるが、中心となるのは受信文書と送信文書である。これらの文書の送信元や送信先はおもにニューカレドニアの政庁や各国の在ヌメア領事館、鉱山会社などであり、そのほとんどはタイプライターを用いてフランス語で書かれている。そのほか、領事業務にかかわるものとして在留日本人から提出された文書やそれらの手数料の記録、領事館で必要とした物品等の購入にかかわる領収書類などが残されている。報告では、こうした資料に基づいて第二次世界大戦前のニューカレドニアと日本人社会に関する知見を提示する。
第2会場
  • 平川 雄一
    セッションID: 201
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     2007年1月に公表された国土交通省の「国土形成計画策定のための集落の状況に関する現況把握調査」(以下,国交省調査)の中間報告は,翌月2月に全国の新聞各紙に大きく掲載された。この「限界集落」という用語に多くの人々が衝撃を受けたことだろう。
     これを契機として全国各地で「限界集落」という表現に対し反発の声があがるなど,大きな波紋を呼んだ。また,2007年の国交省調査は「過疎地域等」と限定した調査であったことから,一部の県などでは独自に全市町村もしくは中山間地域を対象とした「限界集落」調査を実施したところもあった。
     その際,「限界集落」と呼称することに抵抗感や悲観的なイメージを抱かせることが危惧されため,「小規模」「高齢化」「小規模・高齢化」集落などと改めて用語が用いられた。
     本報告でとりあげる飯田下伊那(南信州)地域においても,「悲観的な「限界集落」から「生涯現役集落」へと発想を転換し,持続的な地域コミュニティづくりを構想する」ことをかかげ,長野県下伊那地方事務所によって高齢化調査が実施されている。
     この調査結果を受けて一部の地区では,集落のあり方や将来像を見つめ直し,集落コミュニティを再生・維持しようとすると動きが見られるようになった。
     そこで本報告では,長野県下伊那地方事務所が実施した高齢化集落調査結果をもとに飯田下伊那地域の高齢化集落の特徴を示すとともに,集落(コミュニティ)活動を実践する地区の実態を考察する。
  • 久島 桃代
    セッションID: 202
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    近年の日本の農山村の状況をみてみると,従来の国家主導型のものに代わって,地域間の関係性の構築を通じた地域の発展の可能性が模索されている。本報告で紹介する福島県会津地方にある昭和村では,こうした関係性が村民と都会からやって来た若い女性たちとの間で構築され,また地域の発展に繋がっている点でユニークな事例である。昭和村では村独自の物産である「からむし 織」の後継者(織姫)育成と交流人口の増加を目的に,1994年から「体験織姫制度事業」(以下「織姫制度」)が実施されている。現在までに88名の女性が織姫となっており,うち23名が昭和村に残って生活している。彼女たちは独自にからむし織を続けながら,新しく来た織姫たちに技術指導をしたり,村に設立された博物館の職員としてからむしの調査や普及活動に携わったり,さらには地元の男性と結婚し夫の家族と同居しながら何人もの子どもを育てている女性も数名いる。 本報告では日本におけるトランスローカルな動きを検討するため,この昭和村の織姫制度を取りあげその可能性と課題について検討したい。
  • 中村 拓, 今井 藍子, 寒川 万里菜, 平川 隆啓
    セッションID: 203
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    新宮市の中山間地域での聞き取りからI&Uターンに至る経緯・障害やその後の生活実態を明らかにする。
  • 中川 聡史
    セッションID: 204
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    兵庫県の農村地域(多可町加美区)において、人口移動に関する全世帯を対象としたアンケートをおこなった。今回は、調査結果のうち、Uターン、Iターンに関連する部分の報告をおこないたい。
  • 三原 昌巳
    セッションID: 205
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    「予防医学の時代」に健康増進や疾病予防を目的にした旅行(ヘルスツーリズム・医療ツーリズム)に関心が集まっている。その一つである、ここ数年で急成長した検診ツアーは、医療施設(主に病院)・旅行会社・宿泊施設(旅館やホテル)が提携することによって積極的な広報活動を行い、顧客を呼び込もうとする新しい試みである。
    このような動きは地理学的な観点からみると、患者の居住する地域つまり受療圏が非常に広範囲であることに加え、都市部の患者が地方へ受診に向かうという行動は従来の受療行動からすれば一般的ではないといえる。これまでの地理学では居住地と医療施設間の物理的移動に着目しながら地域医療における患者のアクセシビリティについて検討がなされてきたが、患者にとって地理的障壁はもはや存立しないのだろうか。予防医学の推進によって、医療施設までの距離や移動時間といった地理的要素は重要視されなくなったのか。こうした問題意識を踏まえ、本発表では福島県郡山市内の医療施設で実施されているPET(ペット)検診ツアーを事例にし、PET検診ツアー成立までの過程、検診ツアー参加者の特徴を述べると同時にその地理的特性を明らかにしたい。
    具体的な調査方法としては、現地調査を2010年6月~8月にかけて実施した。クリニック、受入れ旅館・観光協会、旅行会社3社などを対象に聞取り調査や資料収集を行った。

    PETは、ポジトロン・エミッション・トモグラフィー(Positron Emission Tomography/陽電子放射断層撮影装置)の略語で、日本人の3大死因のトップを占めるがんの早期発見の切り札として、近年注目される検査方法の一つである。しかし、1台数億円と言われる高額なPET(またはPET-CT)機器に加え、検査薬の製造室や空調設備までを兼備しようとすると、大規模な医療施設でさえPETの導入はしづらいものであった。このため当初は全国的にもPETを導入する医療施設はわずかで、とくに人口の多い都市部において受診予約がとりにくい状況が続いていた。
    検診ツアーは、このような状況を察知した旅行会社によって企画された。廉価なツアー価格設定が可能な飛行機での移動が専らで、名古屋、羽田、大阪などの空港から出発し、目的地は北海道、九州・沖縄などであった。20万円前後の価格にもかかわらず、異例のヒット商品となったと言われる。しかし2006年以降、人気は下火になり、PETを導入した医療施設には倒産する所もみられた。
    郡山市内の対象クリニックでは、2004年4月からPET(PET-CTを含む)を導入し、保険適用診療と自由診療のがん検査を開始した。クリニック開設以来、PET検診の周知のため、県内外各地での市民公開講座による住民向けの啓蒙活動と、PET講習会による医療提供者側への普及活動を継続的に実施している。同時に、2005年から同県二本松市岳温泉の旅館・首都圏各地の旅行会社と提携し、検診パックツアーを提供している。
    岳温泉は、「湯治場」の歴史を持ち温泉地として繁栄してきたが、バブル崩壊後の宿泊客減少に歯止めがかからず2004年ごろから健康保養型温泉地への転換を図った。起伏に富む安達太良山系の自然環境を活かし、主に50代以上の中高年層を対象にしたヘルスツーリズムの取組みによって地域づくりを実施している。検診ツアー受入れ旅館では、地域のこのような取組みもツアー参加者に提供しており、旅行の付加価値を高めている。申込み窓口である旅行会社は首都圏を中心に数社あり、各顧客層に応じて商品の告知と勧誘を行っている。
    対象クリニックではPET検診ブームが終焉した後も自由診療による患者が多く来院しており、PET機器は高い稼働率を維持している。このうち、検診ツアー参加者をみると、東京・群馬を中心に埼玉・千葉・神奈川など首都圏に居住する50~70代が多いことが分かった。
    検診ツアー普及初期は遠方の医療施設も選択されたが、PET導入の医療施設が増加するに従って都市部でも受診しやすくなり、交通至便な医療施設が選択されるようになった。一方、郡山市は県内で交通の要所、また首都圏からのアクセスの良さを背景に、検診時・宿泊旅館での付加サービスや検診後のケアを充実させ顧客の定着を図った。検診後のケアでは、何らかの異常が発見された場合には再検査や治療などの再診を、異常が発見されなかった場合でも健康管理のために定期的な検診を行う。このため、旅行商品として売り出されたものの、継続的な通院を必然的に伴う医療サービスの特質ゆえ居住地近郊の医療施設での受診が選択されやすいことが分かった。
  • 天野 宏司, 西武鉄道 株式会社
    セッションID: 206
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    観光 鉄道事業者が実施する旅客誘致イベント(ウォーキング・ハイキング)への集客圏を把握するともに,その参加者の属性を分析する。
  • 橋田 光太郎
    セッションID: 207
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    分野:観光地理学・都市地理学 発表概要:2009年人文地理学会大会で発表した内容の継続的研究で,      門司港「レトロ」地区の観光地の形成過程を整理し,      現在進んでいるまちづくりを観光地化の視点から報告する。       特に,   第3期事業の長期プランである「門司港レトロ観光街づくりプラン」, 全国初の観光専用鉄道として「レトロ」地区で運行を始めたトロッコ列車      「潮風号」,      旧料亭「三宜楼」を巡る市民運動,      栄町銀天街で展開されている商店街の活性化      の動向などを中心に報告する。
  • 竹中 克行
    セッションID: 208
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    I.遺産都市タラゴナ
     タラゴナは,スペイン北東部カタルーニャ自治州の地中海に面する都市である.州都バルセロナの南西約85kmに位置し,人口は13万8千人(2008年),内陸側に近接するレウスともにカタルーニャ第2の都市圏をなしている.タラゴナには,フランコ体制期(1939~1975年)に開発された大規模石油化学コンビナートとともに,スペイン5指に入る国指定管理港湾があり,これらが地域の産業・雇用にとって重要な基盤を提供している.
     他方,郊外中心で進められた産業地区・住宅開発とは裏腹に,歴史地区にあたる面積約18haの上手地区は,長期にわたって行政の施策から置き去りにされ,著しい生活環境の悪化を経験した.本報告が注目するのは,1980年代に始まる歴史地区再生に向けた動き,なかでも歴史文化遺産に与えられた意味である.
     古代ローマの属州の都,タラコを起源とするタラゴナには,きわめて豊富な考古遺跡が残されている.とくに上手地区は,神殿・属州フォルム・競技場の3大要素がおりなす古代タラコの中枢部を継承する空間である.考古遺跡には,博物館ないしオープンスペースの一部を構成するものもあるが,現実には,大部分が地下に眠ったままか,後世の建造物の礎石や壁の一部をなしている.
     このような考古遺跡の特性は,遺産保護をめぐるタラゴナの都市政治に複雑な問題を提起している.報告では,(1)考古遺跡を中心とする歴史地区の遺産化,(2)遺産保護が生活環境整備に与える制約,という主に2つの側面から考察する.
    II.歴史地区の遺産化
     1993年に制定されたカタルーニャ文化遺産法のもとで,タラゴナは,市全域にわたって考古学遺産の指定を受けた.とくに上手地区に関しては,中世以降の建造物を含めて,全域が歴史的建造物群とされ,さらに,文化財の個別指定を受けている地区内の建造物は約100件にのぼる.国から文化政策に関する権限を移譲されたカタルーニャ自治州によって,独自の地域・歴史認識を背景にもつ遺産政策が始まったのはこの頃である.2000年,タラゴナ古代ローマ遺跡群はUNESCO世界遺産に登録され,上手地区だけでも,属州フォルム・競技場と市壁の3件が登録対象となった.
     現在のカタルーニャ自治州の遺産保護政策では,考古学遺産に指定されているエリア内で建物の建替え・大規模改修を行うさいには,開発者の負担で発掘調査を実施しなければならない.調査の結果,学術的・文化的価値のある遺跡が発見された場合は,開発者に対して保存の義務が課せられる.遺跡調査・保護にかかわる制度的要請ゆえに開発に一定のブレーキがかかるなかで,博物館,市民センター,文書館など,行政自らが上手地区の建物を活用する事例は着実に増えてきた.また,民間投資の面でも,デベロッパーが採算性を見込んだ不動産が,賃貸アパートメントなどの形で選択的に更新されている.考古遺跡の存在に注目し,これを一種の付加価値として積極的に活用する事業者も現れた.
    III.遺産保護と生活環境整備
     他方,1985年,都市計画マスタープランの下位計画に位置づけられる上手地区特別計画が策定され,減築とオープンスペース創出を基本とする,行政による地区の生活環境整備が始まった.注意すべきは,居住者向けの生活環境整備に対して,先述の遺産保護政策が,建造物取壊しなどをめぐって,しばしば矛盾する力を加えているという点である.古代遺跡に限らず,中世以降の建造物も含む歴史地区の建造環境全体を保護しようとする自治州の遺産保護政策が,市主体の都市計画への制約要因としてのしかかっているからである.
     とはいえ,遺産保護と生活環境整備を単純な対立関係でとらえることはできない.実際,生活環境の改善に主眼をおく都市計画においても,遺跡への眺望を重視した広場の改修や古代都市の構造に合わせたカラー舗装など,訪問者の視線を強く意識した事業は少なくない.また,それらの公共事業を引き金として,民間投資による都市空間の化粧直しも進んでいる.
     更新された賃貸アパートメントに住む若い専門職・教員,オープン工房に市民を集める職人・アーティスト,毎年台詞を変えながら大祭りの人気の出し物となっている「婦人と老人の踊り」など,上手地区の新しいダイナミズムを示す局面はけっして少なくない.そうした動きには,文化行政が創り出す大きな遺産の物語だけでなく,都市の顔たる歴史地区にさまざまな蓄積された価値を見いだす,よりミクロな市民の視点が深くかかわっている.
  • 梁 燕玉
    セッションID: 209
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    2008年のオリンピック開催を契機に、市内のいたるところで建設ラッシュが続く中国の首都北京では、数年前から超高層建築物が各所に建ち、現在も多数建設中である。その一方で、北京中心地には古くからの歴史的町並みがある。それがフートン(hu- tong、胡同)であり、日本の「○○街」に相当する。古き良き時代の北京の町並みを留めたこのフートンは、再開発が進むにつれて北京から姿を消しつつあるが、近年その文化的、観光的価値が高まりつつある。フートンの保護地区は、観光地として国内外からの観光客に人気があり、三輪車(自転車タクシー)でのフートンめぐりは、北京の観光名物となっている。  本研究は、北京の歴史的町並みフートンの観光活用について、その現状と課題を明らかにすることを目的とした。  元・明・清の3王朝の都であった北京の町並みは、「牛の毛の数ほどある」と形容されたフートンで形成されている。1949年の中国建国後は、人口増加により、元の時代の規定による幅員ではなく、縮小して方向も変わったフートンが形成された。フートンの数量は最も多かった1949年の3,073条から2005年には1,353条に減少した。四合院は、フートンに面して中庭を囲むように東西南北に棟が配置されている平屋の伝統的建物である。文化大革命によって本格的に個人住宅が没収され、住宅不足を解消するため、四合院の中庭にも簡易な住宅が建てられ、十数世帯が雑居するようになった。現在の四合院の大部分は、このような大雑院に変化したのである。2002年に什刹海地区が歴史文化保護区に指定されると、西城区政府は煙袋斜街の伝統的町並みを復活させるため、什刹海煙袋斜街の特色ある商店街建設計画をたてた。この計画の実施によって、整備以前の煙袋斜街には34軒(2001年)の店舗があったが、整備後は69軒(2009年)に倍増した。  建国後の経済発展に伴い、北京の人口は急増し四合院の中庭に簡易な住宅が建てられた。特に旧城の四合院は老朽化が激しく、居住人口の多さから環境悪化が著しい状態にある。このように、都市住民の生活水準が高くなるにつれて、北京の伝統的な四合院の機能は、現代社会の生活に対応できなくなった。そこで、1979年の改革開放政策以後、北京の再開発が本格的に行われるようになった。一方で、乱開発を防ぐための法律も制定された。また、住民の保存活動については、華新民らの保存活動を通して賛同する人が増え、住民の保護意識が高まるようになったのである。  什刹海地区の面積は5.8k_m2_であり、そこには大小2,000戸の四合院と90条のフートンがある。観光名所は国家級文物保護単位3カ所、市級文物保護単位11カ所、区級文物保護単位17カ所がある。  四合院の見学施設および宿泊施設の実態についてみると、観光客は、5月~9月の夏季に多く訪れる。四合院の建物とフートンの町並みは,文化財としての価値に加え,観光資源としても有効に活用されているのである。1998年からは観光客数が毎年30%増えている。そのため、フートンめぐり会社は2009年の18社に増え、経営形態は単なるフートンめぐりから宿泊施設やレストランなど多角経営を行うようになった。  什刹海地区の観光客の特性をアンケート調査結果(回答数202人、2008年9月筆者調査)より分析すると、女性の観光客は55%で男性よりやや多く、しかも10代と20代の若年齢層が68%を占める。また、地元北京市出身の観光客も全体の61%を占める。さらには、再来訪希望者が多いことや、来訪目的の内容から、什刹海地区のフートンの町並み景観や歴史・文化学習が観光客を魅了していることがわかる。つまり、什刹海地区は全体的に評価が高い観光地であるといえる。しかし、休憩所・トイレ・案内板などのサービス施設を充実させることや、四合院の建物の原形を保ち改築を少なくするなどの意見が出されている。このことは、フートンめぐり観光の発展にとって重要であると考える。  以上のことから、近年、残存する一部のフートンは文化財としての価値に加え、観光資源としても高く評価されるようになり、国内外から多数の観光客が訪れていることが実証された。しかし、フートンの観光活用を発展させるためには、地域住民の居住環境整備と観光開発の調和が課題であるといえる。
  • チャン ティ マイ ホア, 野間 晴雄
    セッションID: 210
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    コミュニティを基礎とするアプローチは,エコツーリズム計画においてたいへん有効かつ推奨される手法である。なぜならば,地域住民を観光活動に包摂すればするほど,より持続的なツーリズムが発展すると信じられているからである。沿岸地域におけるローカルな観光業にとっては,漁民の参加は不可欠である。本発表は,北海道釧路支庁厚岸町とベトナム北部クアンニン省のバンドンを事例に,沿海エコツーリズムの発達過程とその実践システムを比較検討し,漁民のライフスタイルを考慮してエコツアーを多様化し,かつ参加率を高めるためのいくつかの提案をしたい。
  • 山田 耕生
    セッションID: 211
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     本報告では、インドネシア農村地域における観光振興への取り組みの現状と課題について、スマトラ島南部のランプン州および同州ワナ村を事例に考察する。  インドネシアの全人口に占める外国人旅行者数の割合は2%と推測されており、他のアジア諸国と比較すると低い。これはインドネシアにおいて外国への旅行が可能な人々が一部の富裕層に限られているためである。しかし、ジャワ島とりわけジャカルタ首都圏では1990年代からの急速な経済発展に伴い、それらの地域からの中流階級以上による国内旅行は増加している。  一方で、2001年に地方分権を目標とした地方自治法が施行されると、国内旅行の増加を背景に、各州独自による観光計画の策定とそれによる地域振興への取り組みも模索されるようになった。
  • 池永 正人
    セッションID: 212
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     スイスの世界遺産ユングフラウ‐アレッチ‐ビエッチホルン(略称:JAB)は,2001年12月にアルプス山脈で初めて世界自然遺産に登録された。2007年には指定区域が拡大され,26自治体にまたがる面積824 k_m2_の領域となった。この領域の57%がヴァリス州(18自治体),43%がベルン州(8自治体)に属する。  JAB世界遺産は,現代の地球規模の気候変動,自然保護と観光開発のあり方などを考えるうえで,示唆に富んだものとして評価された。そこで本研究では,JAB世界遺産の自然保護と観光業の推進について,以下の内容を明らかにした。  1.世界自然遺産に登録された理由  2.保護と開発の経営計画  3.気候変動の観察地および観光資源としての価値  JAB世界遺産の魅力的な自然景観と文化景観は,多数の人々の積極的な参加によって保護されている。JAB世界遺産地域の発展において,最も重要視されているのが観光業の推進である。世界遺産の学術・芸術的価値に加え,観光資源としての価値を維持し一層高めるためには,伝統的なアルプ農業の営みによる土地の管理が不可欠である。このことは生態系を維持し,雪崩・洪水など自然災害の軽減に通じる。
第3会場
  • 横山 貴史
    セッションID: 301
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.研究課題  遠洋漁業を中心にかつて隆盛を極めた日本の漁業は200カイリ時代の突入に伴い大きく縮小し,現在,資源枯渇や沿岸環境の悪化といった大きな問題に直面している。近年の「資源管理型漁業」の推進という観点からも,日本の漁業において水産養殖業が担う役割は相対的に大きくなるであろう。 これまで沿岸漁業の救世主とされてきた養殖漁業も,輸入水産物との競合に加えて,生産性を追求した結果としての過密養殖や過剰投餌による区画漁場の生産性低下や環境悪化が問題点として指摘されている。1999年に公布された持続的養殖生産確保法(新養殖法)においても,過剰投餌による漁場環境の悪化,過密養殖による区画漁場の生産性低下の改善が目的としてあげられている。区画漁業権は地先の漁業協同組合(以下,漁協)に免許され,その権限は私権ではなく管理権限であることを考慮すれば,養殖漁場の行使にはなんらかの管理体制が敷かれることが前提とされる。このように,今日における養殖業の持続的発展のためには,漁協や漁家といった漁業地域を構成する主体が,漁場環境の保全と生産性の維持を図りながらいかに地域の共有財産である区画漁業権漁場を利用していくかが問題となっている。 養殖業における漁場利用の問題は主として1980年代に多く報告されている。この時期は海面養殖業の成長が頭打ちになる一方で,過密養殖へ至るプロセスや,過密養殖を食い止めるための各地における集団的漁場利用管理体制に関心が集まり,それらの実態が明らかにされた。さらに近年では,漁業経済学分野において,養殖業における漁協の主導性についての再評価がなされており,「漁協管理型養殖経営」のあり方が議論されている。 しかし,既往の研究では,養殖漁場の適正な利用や管理が機能している地域の事例が挙げられつつも,漁協の強力なリーダーシップが強調され漁業地域が画一的に扱われる反面,その構成員である個々の漁家のありかたについて目が向けられているとはいいがたい。換言すれば,個々の漁家が営む養殖業以外の多様な収入源を含めた経営形態や漁家間の相互連関をふまえて,漁場への養殖圧力を人為的に分散させるとともに経済性を両立させた経営形態になっているのかという点を明らかにする必要があると考える。 そこで,本研究では,上記のような問題点を考慮して,宮城県漁協石巻東部支所地域を事例として,漁家の経営形態や漁家間の関連性に着目して集団的養殖漁場利用体制の地域的維持基盤を明らかにする。 2.研究対象地域 本研究では,宮城県石巻市におけるカキ養殖業を対象魚種とする。カキ養殖は日本における無給餌養殖の代表例であり,現在は全国的に営まれている漁業種類である。宮城県は,広島県に次いで全国二位のカキ養殖生産県であり,宮城県石巻市が県内のカキ養殖生産量の大半を占めている。宮城県における養殖漁業は多くが小規模家族経営体で占められているのが特徴である。 研究対象地域は,宮城県漁業協同組合石巻東部支所の漁業地区である(宮城県では,2007年に県内31漁協の合併により,宮城県漁業協同組合が発足した。旧,石巻東部漁業協同組合。以下,石巻東部支所の管轄する地域を石巻東部地区と呼称する。)。石巻東部地区内には狐崎浜,福貴浦,鹿立浜,牧浜,竹浜の5集落が存在する。現在,石巻市内から石巻東部地区へは,牡鹿半島の山道を車で走り,約40分の距離にある。戦前は,集落ごとに漁業会が組織されていたが,1949年の水産漁協同組合法の施行に伴い,1950年に石巻市東部漁業協同組合として設立した。 2010年現在で,正組合員数は106名,準組合員は17名である。主たる漁業種類はカキ養殖業であり,そのほかにランプ網漁業,刺網漁業などが営まれている。近隣の漁業地区に比べて後継者世代が確保されていることも特徴である。    発表では,個々の漁家世帯のカキ養殖以外の収入源を含めた経営形態やカキ養殖生産の管理における漁家間の共同行為,カキ養殖業の具体的な生産方法,個別の漁家の事例などをふまえて,詳細な報告を行う。
  • 大石 貴之
    セッションID: 302
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    I はじめに
     近年,日本における緑茶の消費量はコーヒーや紅茶など,他飲料の消費量が増加したことによって減少傾向にある。また,1990年代から登場した,ペットボトル飲料に代表される緑茶飲料は,大手飲料メーカーが緑茶の原料となる荒茶を安く大量に仕入れることによって,高級茶の茶価を低下させることとなった。緑茶原料の生産者である荒茶の加工工場は,こうした茶価の低迷によって経営が厳しい状態となっており,消費部門や流通部門の動向は生産部門である茶産地に与える影響が大きい。
     茶業における生産部門と流通部門を対象とした既往の研究,特に茶の一次加工品である荒茶の流通について検討した研究では,荒茶を調達して最終製品である仕上げ茶を加工する茶商の重要性が指摘されている(坂口 1998)。その一方で,静岡県の高級茶産地を取り上げた深瀬(2008)は,荒茶のほとんどが農協で最終製品に加工されて小売店に供給され,茶商への出荷割合は相対的に少ないなど,必ずしも大手茶商の存在が重要でないと指摘している。また,茶商は経営規模や形態によって荒茶の調達先やその方法が異なり,茶商の存在が荒茶工場に対していかなる影響をもたらすのかを検討することは,緑茶流通の構造を明らかにする上で重要な課題である(木立 1985)。
    そこで,本報告では生産部門である荒茶工場を対象として,工場の経営形態によっていかなる荒茶製造・出荷が行われ,出荷先である茶商がいかなる販売行動を行っているのかを検討する。その上で,各荒茶工場が荒茶供給構造においてどのような役割を果たしているのかを明らかにする。
    II 鹿児島県南九州市知覧町における荒茶の生産・流通
     本報告の対象地域である鹿児島県南九州市知覧町は,1970年代から1980年代にかけて茶の栽培面積が増加し,茶が町内の基幹作物となっている。知覧町における荒茶の流通は,茶商に対する相対取引が多かったが,1990年代に知覧町の荒茶工場を管轄する知覧茶業センターが,各工場を巡回して荒茶を受け取って市場などに配送するシステムを確立してからは,市場出荷の割合が増加した。知覧町では,このほか相対取引によって荒茶が茶商へ供給される。
     2010年現在,知覧町における茶工場数は36で,自園で摘採される生葉を中心として荒茶加工を行う個人工場,複数の農家が共同で荒茶工場を設立して組合員の生葉によって荒茶加工を行う組合工場,個人が経営主となって,自園で摘採される生葉に加えて他農家から生葉を調達して荒茶加工を行う法人工場に分けられる。
     個人工場は9工場で,1番茶や2番茶などの高級茶のみを生産し,荒茶の出荷先は県内茶商であるという工場がほとんどである。また,仕上げ茶に製造して小売販売をする工場も多く,その多くが知覧町内の観光地にある土産店で販売したり,指宿,枕崎など近隣自治体の観光地にある土産店やホテル等に出荷したりしている。組合工場は9工場で,1番茶から秋冬番茶に至るまで,5期全てにおいて荒茶を製造しており,高級茶である1番茶や2番茶は一部の工場で茶商へ出荷する割合が多いものの,ほとんどが茶業センターを通じた市場出荷である。組合工場では,組合員の話し合いによって出荷先が決定されるために,リスクの大きい相対取引を選択する傾向が低い。法人工場は残りの18工場が該当し,所属する農家は工場に生葉を出荷すると共に,工場における荒茶製造にも参加している。出荷先は工場の生産規模によって異なり,比較的生産量の多い工場では市場出荷を中心に,茶商との相対取引も行っている。一方で,生産量の比較的少ない工場では茶商との相対取引による荒茶出荷が多いが,近年では市場への荒茶出荷量も増加傾向にある。
    III 鹿児島県の茶商にみる荒茶の調達と供給
     知覧町で生産される荒茶の28%にあたる1371tは,茶業センターを通じて鹿児島県茶市場に出荷される。鹿児島県茶市場では,買参権を持った鹿児島県内の茶商27社が参加して入札による取引が行われる。知覧町で生産される荒茶を多く取り扱う茶商は,鹿児島県内に4社立地しており,調達した荒茶のほとんどは静岡県を中心とした県外の茶商に対して荒茶の状態で供給している。このうち,知覧町内に立地するA社は,荒茶取扱量2000tのうち半数の1000tを鹿児島茶市場から,残り半数の1000tは知覧町を含む南九州市や枕崎市など近隣の約80工場から相対取引によって直接調達している。荒茶供給先は静岡県内の茶商が多く,仕上げ茶に製造後に小売店で販売したり,仏事用に利用されたりする。また,JAS法が改正された2004年以降,「知覧茶」の使用を希望する茶商が増加傾向にあり,直接調達した荒茶が多く供給されている。
  • 清水 克志
    セッションID: 303
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    _I_.はじめに  岩手県北部の農村地帯は、畑地の卓越や雑穀生産地帯であったことから、かつては、低生産地域と位置づけられてきた。ところが、現在では、冷涼な気候を活かした夏秋季の野菜主産地へと変貌した。本発表では、岩手県北部の野菜産地化の歴史的基盤について、戦前から昭和30年代にかけて日本一の出荷量を誇った「南部甘(かん)藍(らん)」(キャベツの意)生産の展開と、その主要な担い手であった産地仲買人の動向に着目しながら考察することを目的とする。

    _II_.「南部甘藍」の産地形成  岩手県においてキャベツは、冬季に貯蔵可能な野菜として、明治前期の導入当初から盛岡近郊の民間育種家を中心に積極的に受容され、明治30年代には「南部甘藍」が育成された。また大正期頃からは、盛岡近郊で生産されたキャベツが東京市場へ出荷され始め、都市需要の増大とともに、岩手県北部 の沼宮内駅や奥中山駅、平館駅の周辺地域へ産地が拡大した。とりわけ沼宮内駅を中心とする一帯では、産地仲買人が、農家に対して、種苗や肥料を提供し、青田買いによる買い取り方式が一般的であったが、農家にとっては、唯一とも言える換金作物であるだけでなく、お盆や秋祭りの前に現金収入を得られる等、様々なメリットがあった。結球が緊密で長距離輸送が可能な南部甘藍は、その特性を活かし、京浜市場をはじめ、関西、九州市場にまで移出された。
     しかしながら、連作障害によるゴマ病の発生や長野・群馬両県における軟らかく生食向きのキャベツ主産地の台頭によって、南部甘藍の産地は、昭和38年(1963)頃を境に急激に衰退した。

    _III_.青果販売会社による産地の再編  「南部甘藍」産地の衰退後の岩手県北部畑作地帯では、行政や系統農協が陸稲やビート等の安定作物の生産を加工作物を奨励された。そのような状況の中、当該地域の野菜産地の立て直しを推進したのは、かつての「南部甘藍」の産地仲買人らが設立した青果販売会社(I社)であった。
     I社では、キャベツの後継作物について、都市市場の取引業者と情報交換を図りながら、当時需要が急増し始めたレタスや短根ニンジンなどに着目し、栽培指導を実施しながら、その産地化を推進した。_I_社では、かつての「南部甘藍」産地を拠点として、集配場や予冷施設を充実させ、鉄道駅から遠く、従来野菜産地化が難しいとされた安代町(現、八幡平市)や葛巻町、軽米町、沢内村、川井村(現、宮古市)など、山間部にまで野菜産地を拡大させた。
     I社では1978年当時、3,000戸を超える農家との取引があったが、年間取引金額が500万円を超える農家層も現れる一方、取引金額が少ない農家にとっても、野菜生産による現金収入の獲得は、子弟の進学費用の捻出や冬季における男性の出稼ぎ労働期間の短縮を可能にする等、様々な恩恵をもたらした。

    _IV_.岩手県経済連と_I_社との合併以降  1970年代には、岩手県南部稲作地帯における減反政策の推進や東北自動車道の開通などと相俟って、系統農協においても野菜産地化の推進が強化されるようになった。このことを受け、1979年には、岩手県からの野菜販売ルートを一本化し野菜主産地化を図るべく、県の指導の下、岩手県経済連と_I_社との合併が成立した。合併後の岩手県経済連では、土壌診断や予冷設備の充実、商社の経営感覚を採り入れた販売戦略などで、野菜産地振興を推進することとなった。
     1980年代後半以降は、低利用牧野を活用し野菜産地の拡大を図る野菜販売高500億円達成運動、「いわて純情野菜」の銘柄での販売戦略等を展開し、キュウリ、トマト、ピーマン、ダイコン、キャベツ、ホウレンソウ、レタス、トウモロコシ等、多彩な品目を有する夏秋季の野菜主産地となってきた。中でも、岩手県北部の岩手町とその隣接地域は、春系キャベツである「いわて春みどり」やレタス、ダイコンなど土地利用型品目の大規模生産が行われ、岩手県内でも中核的な野菜産地となっている。

    _V_.結びにかえて  以上の分析により、岩手県北部における現在の野菜産地の形成には、戦前から昭和30年代にかけて展開した南部甘藍が、歴史的な基盤として重要な役割を果たしているといえる。また、その担い手としては、南部甘藍の時代以来、野菜出荷を主導してきた産地仲買人の存在が際立つが、彼らは、旧来から培った都市市場との人的ネットワークを活用したり、技術指導を通し、産地に栽培や荷造り等の新技術を導入する等、農政における園芸振興の低迷期ともいえる間隙を埋め、現在に続く野菜産地化への橋渡し役を果たす存在であったことが指摘できる。
  • 松尾 容孝
    セッションID: 304
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    1.研究の目的 日本最大の民有林業地帯であった奈良県吉野地方の川上村、その拡大地天川村、新興地(限界地)野迫川村を対象地に、現代における林業の衰退・縮小に伴う再編、山村地域の動態を検討した。 2.林業の衰退 (1) 潜在的対応策  林業の衰退への対応策として、林業経営、複数業種への就業、生産基盤の物理的改善(林道整備、育苗、作業用機械、生態系)、政策的支援などが考えられる(予稿集 図1)。 (2) 日本林業の衰退と吉野林業の地位 1970年代、杉立木代金は、全国平均で1m3あたり約19000円のであったが、2009年には約2500円と七分の一の価格に下がっている。需要材積も減少している。また、吉野材の杉は、2005年頃まで都道府県別で上位3番目ぐらいまでに位置する高級材であったが、2008年には9位、2009年には19位に下がっている。 現代は需要の停滞・縮小期で、立木価格が低下し、通常ではこれまでの植林投資を回収できない。林業地帯は再編・縮小期にあり、流通が規定する傾向がいっそう強くなっている。また、吉野では伐出労賃が高いため、相対的に林業諸条件が厳しく、不振の度が大きくなる。 3.吉野林業地帯の再編 (1) 吉野林業地帯における居住・就業実態の推移と林業への関与の状況 天川村と野迫川村のすべての世帯・人口について、1982年と2009年に職業や世帯構成等を調査し、生活・生産における林業への関与の状況を比較検討した。林業への関与は大幅に縮小し、廃村化を肇とする深刻な状況が振興している。野迫川村では、全就業機会事態が非常に限られた状況になっているし、天川村の西部地帯も深刻である。 (2) 先進地川上村:山林地主、山守、林業関連業者の動向、さぷり 育成林業山村としての構造的特色:山守、社会的分業、素材業、市売市場 は、山守の減少や林業関連業種の縮小が振興している。そのようななか、消費ニーズの開拓により既存の構造の脱構築をめざす山守が「さぷり」を立ち上げて活動中である。林業地帯として存続するために、従来の仕組みの一部を山守自身が解体・再編を目指している。 (3) 拡大地天川村:山守・林業関連業者の動向 育成林業による地域の組織化が微弱で、既存の構造の消極的受容にとどまり、ほとんどの山守や地元林業家は、個別に林業外での対応をはかっている。 (4) 限界地野迫川村  山林地主の構成が中核地や拡大地とは異なる、模倣的成長地であったが、模倣自体が困難な状況にある。森林資源を活用して従来紀伊半島に見られた森林産業が現代的に蘇る状況が皆無ではないが、新たな森林産業による地域形成にも長年を要するため、現在は縮小が進行していると言えよう。 4.吉野山村地域の動態 (1)日本山村の人口増減パターン 日本の山村地域における近代以後の人口の推移には3~4タイプがあり、紀伊半島や東海地方の外帯山村は、明治期以後昭和中期まで増加率が最も高く、逆に1955年前後以降減少率が最も高いタイプ。 (2)3か村における住民の職業と居住の動向  持続可能な再生産の閾値を上回る生活様式を築けるのか?住民の居住動向を通じて今後の地域像と現下の問題状況を検討する。詳細は当日に譲るが、次の点が指摘できる。 _丸1_村民の二箇所居住が3か村で顕在化している。農業の比重が低く日常的な土地管理を必要としない地域でこの傾向は強い。 _丸2_社会的分業は縮小し、生活は単純化している。 _丸3_天川村と野迫川村については、30年前と昨年、住民の職業と居住動向の全戸調査を行った。天川村では、資産保有世帯がキャンプ場を営み、資源利用の競合が生じ、一部世帯が個別に再生産を実現している。野迫川村では、就業機会に乏しく、3大字(4集落)以外の廃村化と地域資源の村外資本家による掌握が進行している。 _丸4_新たな存在価値と一体性志向がポジティブな地域動態にとって必要である。「さぷり」等の取り組みが新たな生活様式・地域像を構築するか否かは現時点では不明瞭である。 _丸5_離村住民の土地所有等や未利用地の増加は、充填した生活空間の形成を阻害する共通の地域問題になっている。教育・保健衛生の水準や知識・技術を用いた行動機会の可能性も今後の農山村の存続にとって重要性を高めよう。  
  • 井上 明日香
    セッションID: 305
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    この研究では,滋賀県内に位置する大学を対象として,その通学圏に影響を与える要素は何かということについて考察を行った。とりわけ,公共交通機関が通学に果たす役割を解明することを目的としている。どれぐらいの地域から学生が通学しているかというデータ上の制約があることから,通学可能範囲を各大学で割り出し,考察する。本研究における通学可能範囲とは,午前7時に自宅最寄駅を出発して,公共交通機関を使って大学に始業時間に到達できる範囲と定義した。この研究では,大学の最寄駅から大学までの所要時間,大学最寄駅の特性,自宅最寄駅を出発する時刻,大学の始業時間に焦点を当てて考察を行った。 滋賀県を対象として研究する理由は,滋賀県が京阪神大都市圏と中京大都市圏,両方の大都市圏が接していることにある。県の東西で通学可能範囲の広狭やどちらの大都市圏から学生を集めているかに差が見られるのではないかと考えられるためである。  研究対象大学は短期大学も含め,県内の大学12校を対象としている。多くが単科大学であり,学生数の少ない大学が卓越する。  大学の最寄駅から大学までの所要時間は短いほど,通学可能範囲も広がる。大学最寄駅から徒歩の場合とスクールバスを使う場合と比較を行った。バスを使えば,徒歩の場合と比べて短縮した時間だけ駅に遅く着いてもよい。実際に,大学までの距離を短くすることはできないので,複数の大学でスクールバスを導入するなどして学生の便宜が図られているが,通学可能範囲を広げるという効果があったことが確認できた。また,スクールバス自体が始業時間に合わせて運行されていることも通学可能範囲の拡大に大きな役目を持つ。  大学最寄駅に速達列車が停車するかどうかということで通学可能範囲に大きな影響は生じなかった。通学時間帯は運行本数も多く,乗換が行いやすいということがその理由として考えられる。速達列車の運行が少ない地域では,列車の運行本数自体も少なく,通学可能範囲を効果的に広げるには至っていない。逆に自宅最寄駅が速達列車の停車しない駅であっても周辺の駅で乗換をすることで,速達列車が停車する駅と同じくらいの時間で大学に到達できることがわかった。  自宅最寄駅を出発する時刻によって通学可能範囲に変化が生じるのか考察を行った。自宅最寄駅を午前6時と午前7時に出発する場合の比較を行った。時刻が早ければ早いほど通学可能範囲が広がるかのように思われた。実際は,午前6時台は公共交通機関の本数が午前7時台と比べて少ないこと,速達列車も少ないことから,特に自宅の位置が大都市圏縁辺部の場合はあまり通学可能範囲を広げる結果にはつながらなかった。  研究対象大学の約半数が始業時間を午前9時に設定している中で,長浜バイオ大学は,始業時間が研究対象大学の中では最も遅い午前9時30分に設定されている。本研究において,通学可能範囲を始業時間に間に合う範囲と定めているため,始業時間が大きな影響を与えるのではないかと思われた。最寄駅が同じで,駅からの所要時間にも大きく差がない滋賀文教短期大学は,午前9時5分に始業時間が定められている。両大学を比較すると,通学可能範囲は長浜バイオ大学の方が拡大している。長浜バイオ大学は遠くから通う学生に対する配慮して始業時間の設定していることが,後に聞き取り調査によって確認できた。同大学の大学案内には始業時間に間に合う一番遅い電車の時刻が掲載されている。県内の国立大学は始業時間を午前8時50分に設定しているため,通学可能範囲は比較的狭い。国立大学は私立大学に比べ,学生獲得に向けての取り組みが低調であるといえよう。  通学可能範囲を様々な観点から考察したが,通学可能範囲に最も大きな影響を与えたのは始業時間であった。滋賀県は,通学可能範囲さえ広がっていれば,京阪神大都市圏,中京大都市圏の両方から通学することが出来る。そのことが滋賀県にキャンパス新設などが相次ぐ一因とも考えられる。課題としては自動車通学を許可している大学があり,実情と合わない可能性が考えられること,電車の運行形態の変更など時代による状況変化の考察が出来なかったことがある。
  • 山神 達也
    セッションID: 306
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    はじめに:日本社会では少子高齢化が進展し,人口減少期に突入した。今後の人口減少社会をめぐっては様々な議論が展開されているが,そこでは,都市部から農村部までを含めた日本全体の居住地域体系の変化に関する議論は少ない。本研究では,2000年以降の京都府を対象として,自然増加と社会増加の関係に着目した類型化を通して,市区町村人口の変化の過程を明らかにしていく。都市部から農村部まで含む京都府を事例とすることで,日本全体の居住地域体系を検討する基礎としたい。本研究のデータは『住民基本台帳人口要覧』各年版から得た。

    人口変化の類型化:本研究では,市区町村人口の変化を類型化する際,自然・社会動態相関図を用いる。これは,自然増加を縦軸に,社会増加を横軸にとって地域人口の変化を直角座標で示すものである。人口の変化は8つに類型化され,A~Dは人口増加を,E~Hは人口減少を示す。また,B・Cは自然増加と純流入の両者による人口増加を示すのに対し,F・Gは自然減少と純流出の両者による人口減少を示す。加えて,人口変化の主因となるのは,C・D・G・Hは純移動であるのに対し,A・B・E・Fは自然増加となる。

    市区町村の人口変化の類型:はじめに,京都府全体の変化を確認する。2000~2009年度の10年間で,自然増加の6,394人に対して純流出が35,627人であり,類型はHになる。これを年度単位でみると,純流出は継続するものの,2005年度から自然減少を記録し始めた。それに伴い,類型は2004年度まではHだったが,2005年度以降はGに変化した。次に,京都府下の各市区町村の人口変化を類型化した。

    市区町村人口の変動過程:地域人口は,出生数が死亡数を上回れば自然増加となるが,これはその地域の年齢構成との密接に関連し,出産・子育て世帯比率が高いと自然増加を,高齢者比率が高いと自然減少を記録する傾向が強い。また,地域の年齢構成に差をもたらすのは,多くの場合,これまでの年齢選択的な人口移動が積み重なった結果である。このうち,若年層では就学・雇用機会との関連が,出産・子育て世帯では住宅事情との関連が強いことが知られている。
    以上を踏まえて,各市区町村の動向を検討する。人口の郊外分散のもとで高齢化した都心部では人口の自然減少が続いたが,マンション供給の増加に伴う純流入,すなわち人口の都心回帰現象によってDとなった。その周辺では,純流出を主因として人口減少を記録する地区が広がるが,これまでに宅地を求めて流入した人口によって高齢者比率は低く,自然増加を記録するHが多い。その中で,大学が多く立地する地区では,出生数が少ないために自然減少を記録してGとなる。また,京都と大阪を結ぶ鉄道沿線では,純流出が小さく,人口増加を記録するAがみられる。そして,都市開発の最前線として大幅な人口流入を記録した都市圏外縁部にCがある。一方,過疎化の進展の中で若年層の流出に伴い高齢化した市町村では,自然減少が大きく,かつ純流出も継続するFやGがある。その中で,地域の中心として一定の雇用を提供してきた福知山市や舞鶴市では,経済情勢の悪化に伴い人口の減少幅が拡大し,HからGに転じた。
    このような市区町村人口の変動過程は,戦後の動向の延長として理解できる部分が多い。具体的には,戦後の日本では都市人口が増大し,人口の郊外分散が進展したが,その延長として,都市開発の最前線が都心部から離れて存在する。また,都心部からその最前線までの間では,出産・子育て世帯が多数流入してきた郊外住宅地が広がり,高齢人口比率が低く,自然増加が継続している。次に,過疎化の進行する農村部では,若年層の流出が継続し,また高齢人口比率が高いことから,自然減少も記録している。一方,新たな動向として,人口の都心回帰現象がある。また,過疎地域に囲まれつつも人口を維持してきた中小都市で人口減少が大きくなった点も,地方経済の疲弊を示す事例として重要であろう。
    以上の結果を通し,地域人口の変化は,地域経済と住宅供給における歴史と現況,そしてそれらの結果としての年齢構成が相互に作用したものとして理解することができる。しかし,今後の人口減少社会でも同様の理解が可能なのか,それとも人口減少期特有の状況が出現するのか,注意深く見守る必要がある。また,高齢化のさらなる進展,世帯の多様化やそれに伴う居住地選択の多様化,所得格差の拡大などと地域人口との関連を検証する必要がある。地域人口をめぐる研究課題は多い。
  • 桐村 喬
    セッションID: 307
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに
     町丁目や字単位など,市区町村よりも空間的に小さい単位で集計された小地域統計は,よりミクロな視点からの定量的な分析のために不可欠な統計資料といえる。国勢調査結果に関して作成される小地域単位の人口統計は,最も一般的な小地域統計であり,多くの研究で利用されている。国勢調査結果に関する小地域人口統計の全国的な整備は,統計局によって1960年代から進められてきた一方で,それまでの小地域人口統計に関しては,自治体が個々に作成してきたと考えられるが,その作成状況についてはまだ十分に整理されていない。
     本発表の目的は,明治末期以降の日本の6大都市における,国勢調査を中心とする小地域人口統計の作成状況を整理し,基本的な空間単位の大きさと集計項目の詳細さに注目して,小地域人口統計の特徴を検討することである。本発表で分析の対象とする小地域人口統計は,国勢調査のような悉皆調査によってなされた人口調査に基づくものとする。悉皆調査による人口調査が本格的に実施され始めたのは明治末期であるため,対象とする時期を明治末期以降とし,対象とする地域は,6大都市(東京,横浜,名古屋,京都,大阪,神戸)に絞った。
     近年,欧米では,歴史地理学などへのGISの応用を図るHistorical GISのための研究基盤の構築が進んでいる(Gregory, 2005)。本発表は,日本における同様の取り組みの初期の段階にあたり,今後,小地域人口統計に関するデータ整備を進める予定である。
    II 6大都市における小地域人口統計とその特徴
    1.作成状況
     1920年の第1回国勢調査よりも前のものは,1909年の東京・神戸,1911年の京都のみである。東京では,1909年の「東京市市勢調査」に関する町丁目単位の統計表が作成されており,神戸や京都でも,それぞれの人口調査の結果をもとにした小地域人口統計が作成されている。1920年以降に関しては,ほとんどが国勢調査結果によるものであり,第2次世界大戦前後の時期を除く大半の国勢調査結果に関して作成を確認できた。その空白期を埋めるように,横浜および神戸を除く4都市で実施された「市民調査」に関する小地域人口統計が作成されている。
    2.基本空間単位と集計項目
     小地域人口統計で利用されている基本空間単位は,大きく分けて,町丁目・字単位と学区単位とに分けることができる。まず,町丁目・字単位が基本空間単位として利用されるものに関して,集計項目の詳細さから,総人口,男女別人口,世帯の種類別世帯数などの基本的な項目(基本項目)のみのものと,年齢階級や職業などの様々な項目(詳細項目)も含まれるものとに区別する。1909年の東京・神戸および1911年の京都に関しては,詳細項目で集計されているものの,戦前の町丁目・字単位の小地域人口統計の多くは,東京を除けば基本項目のものがほとんどである。1940年代の「市民調査」に関する小地域人口統計は,京都および大阪に関しては詳細項目,東京に関しては基本項目のみとなっている。戦後の町丁目・字単位の小地域人口統計は,1960年までは基本項目のみのものに限られ,詳細項目を備えた小地域人口統計が作成され始めるのは,統計局が「調査区別人口・世帯資料」を初めて作成した1965年以降である。一方,学区単位を基本空間単位とする小地域人口統計は,1970年以降に統計局が実施し始めた国勢統計区別集計を除けば,名古屋と京都に限られる。名古屋では,1960年の国勢調査結果に関して,町丁目・字単位のものよりも集計項目が詳細な学区単位での市独自の集計が行なわれ,それ以降,現在まで学区単位での集計がなされている。その一方で,名古屋に関しては,詳細項目による1960年以降の町丁目・字単位の小地域人口統計はあまり作成されていない。
    III おわりに
     これまでに確認した小地域人口統計の作成状況によれば,東京,京都,神戸の3都市については1900年代から,横浜および大阪については1920年から,名古屋については1930年から,第2次世界大戦中の若干の空白期を除いて,現在までの小地域人口統計を利用することができる。しかし,町丁目・字単位で集計され,集計項目が詳細であるものは,戦前においては東京以外の都市ではほとんどなく,戦後は1965年以降に限られる。また,京都においては最初期から,名古屋においては1960年から学区単位の集計がなされており,町丁目・字単位よりも詳細な集計項目が利用されている。これらを利用することで,集計項目の少ない町丁目・字単位の小地域人口統計を補完することができよう。
     今後は,小地域人口統計のさらなる収集を進めつつ,デジタルデータ化も行なう。また,統計データに対応するGISデータの整備も行ない,日本の6大都市における小地域人口統計のGISデータベースの構築を目指す。
  • 国府田 諭
    セッションID: 308
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    分野:交通、空間分析、GIS 日本では、自治体が「公共交通空白地域」を抽出して交通政策上の参考にする例が全国的に増えている。しかし抽出の基準が自治体によってバラバラであり、抽出手法が粗いものから詳細なものまで様々である。この現状に対し、新たな公共交通空白地域の抽出・分析手法を提案する。全国どの自治体でも使え、公共交通空白地域を数段階のレベルに分けて抽出でき。また詳細な定量分析にも用いることができる。ロンドン市交通局が開発した「PTAL」という公共交通アクセス分析の手法をもとに、独自に開発した「日本版PTAL指標」を用いた手法である。実際の活用例として奈良市における抽出・分析を示す。
  • 豊田 哲也
    セッションID: 309
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    平成15年住宅・土地統計調査のデータを用いて世帯あたり年間収入の分布を都道府県別に推定し、地域格差の要因を検討する。
  • 横山 智
    セッションID: 310
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    1.はじめに

     発表者は、東南アジアのナットウに興味を持ち、これまで研究報告が存在しなかったラオスのナットウを調査し、中国雲南省からの伝播ルートとタイからの伝播ルートが混在していることを明らかにした。しかし、先行研究では、タイのナットウ(トゥア・ナオ)は、ミャンマーのナットウ(ペポ)と同じグループと論じられている。
     そこで本研究では、2009年に実施した北タイとミャンマーの市場調査とナットウ製法調査をもとに、発酵の際に菌を供給する植物に着目して、ミャンマーおよび北タイのナットウの類似点と相違点を解明することを目的とする。

    2.販売されているナットウの種類
     北タイで製造されるナットウは、(1)粒状、(2)ひき割り状、(3)乾燥センベイ状の3種類に大別することができる。ただし、日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウは、現地の市場で見かけることはほとんどない。北タイでは、タイ・ヤーイと称されるシャン人(ミャンマーのシャン州出身)の村では見ることができるが、それ以外の市場では、「ひき割り状」か「乾燥センベイ状」しか売られていない。
     一方、ミャンマーで製造されているナットウは、多様性に富んでいる。北タイに多い「ひき割り状」と「乾燥センベイ状」以外に、シャン州のムセーの市場では、油で揚げて甘い味付けをしたもの、豆板醤のようなソースをからめたもの、そして乾燥したものなど、「粒状」を加工したナットウが多く売られていた。さらに「ひき割り状」を一度乾燥させた後に蒸かして円筒状に形を整えた珍しいナットウも売られていた。しかし、日本の「納豆」のような糸引きナットウは、2009年の調査で訪れたシャン州内の市場では少なかった。ところが、バモーより北のカチン州に入ると、シャン州で見られたような加工された「粒状」ナットウよりも、糸が引く日本の「納豆」と同じ「粒状」ナットウの比率が高くなり、カチン州都のミッチーナ市場では、強い糸が引く「粒状」ナットウがほとんどであった。

    3.ナットウの製法と地域的特徴
     北タイとミャンマーのナットウの製法は基本的に同じである。大豆を水に浸した後、柔らかくなるまで煮て、その後、プラスチックバックや竹カゴに入れて数日間発酵させれば、「粒上」のナットウができあがる。なお、どの地域でも発酵のために種菌を入れることはない。その後、粒を崩し、塩や唐辛子などの香辛料を混ぜて「ひき割り状」のナットウとし、さらに「乾燥センベイ状」の場合は、形を整えて天日干しする。この製造工程のなかで、地域的な差異が見られるのが、菌の供給源となる植物の利用である。
     シダ類(未同定)とクワ科イチジク属は、ヒマラヤ地域で製造されているナットウの「キネマ」でも利用されていることが報告されており、カチン州との類似性が見られた。またシダ類は、シャン州でも利用されているため、ヒマラヤ地域の「キネマ」とミャンマー全域の「ペポ」との類似性も見いだすことができよう。そして、チークの葉およびフタバガキ科ショレア属の利用という視点からは、シャン州と北タイに類似性があることが判明した。
     本研究の結果は、以下のようにまとめることができる。北タイとミャンマーのシャン州で大規模に「乾燥センベイ状」ナットウを生産している世帯では、発酵容器に竹カゴは用いられず、肥料袋のようなプラスチックバックに煮た大豆を数日間保存するだけであり、菌の供給源となる植物も入れない。
     形状と糸引きの強弱に関しては、シダ類やイチジク属を用いているヒマラヤ地域とカチン州は「粒状」が多く、糸引きも強い傾向がある。チークやショレア属の葉を用いるシャン州や北タイは、多くが「乾燥センベイ状」で、粒状の場合でも糸引きが弱いことが明らかになった。

    4.おわりに
     本研究では、これまでの議論とは視点を変えて、菌を供給する植物に焦点をあて、植物利用からナットウ製法の地域区分を実施することを試みた。それの結果、これまで全く議論されていなかった、ミャンマーとタイでの類似点と相違点、そしてミャンマー内での類似点と相違点を解明できた。これらの結果をもとに、未だ達成できていない中国側での植物利用調査を進めることが出来れば、東南アジアのナットウが中国からの伝播かどうかを議論する際の重要な手がかりになると思われる。
  • 謝 陽
    セッションID: 311
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    戦後から1980年代漆の生産は政治経済環境による動揺が大きかった。それは1980年代以降の偽者問題の続出につながったのではないかと考える。政府機関の資料の記述とデータに基づき、漆生産量の変化を明らかにする。戦後生漆の偽物問題をめぐって、林権の変化、自然環境への破壊、農民の行動から考察を行い、聞き取った農民の語りと照らしながら、国家レベル、地域レベル、個人レベルから漆生産の動態を解説する。
  • 渡邉 敬逸
    セッションID: 312
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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    _I_目的:本発表の目的は,新潟県小千谷市で行われる闘牛,牛の角突きを事例として,その牛の成長過程と取組作成における人々の合意形成のプロセスに注目し、牛の強さがいかにして決められるかを,人と牛との関係から明らかにすることにある。

    _II_牛の角突きにおける牛の勝敗:一般的に日本の闘牛は,どちらかの牛が頭を離して逃走したら負け,として勝敗を明確につける。しかし,牛の角突きは,慣習的に勝敗をつけずに,全取組を「引き分け」とする。すなわち,人力によって対戦中の両牛を無理やり引き離すことにより,文字通りに「引き分け」として,牛の勝敗を公にしない。
    では,牛の角突きは,牛間の勝敗を問わず,ただ牛を突き合わせるだけの行事かというと,もちろんそうではない。牛の角突きが開催されるたびに取組表が作成され,取組毎に番付が付される。そして,番付上位に位置する牛ほど「強い」という認識は,会場に集まる人々に共有されており,明確な格付けこそされないまでも,常に番付上位に位置するような牛は「横綱牛」とさえ称される。
     つまり,牛の角突きは「引き分け」を慣習としているが,それは決して牛個体間の強弱に基づく勝敗を否定するものではない。取組によっては,一方の牛が戦意を喪失して逃走し,勝敗が衆目に明らかになる場合もある。また,結果としての勝敗だけではなく,その内容も強く問われる。決して最後まで逃走しなくても,手も足も出なかったり,技が単調だったりすると,その牛への評価は芳しくないどころか,負け,と評されることもある。そして,なによりも牛持ち(牛の所有者)は,決して「引き分け」であることを前提に牛を飼っているわけではない。すなわち,牛の角突きには,明瞭ではないものの,勝敗という概念が存在し,それは牛の角突きに関わる者達に概ね共有されている。特に,牛持ち達は勝敗へのこだわりを強く持っており,これは自らの牛への思い入れの裏返しとも言える。

    _III_牛の成長過程と人々の評価:個々の取組を見れば,牛の勝敗は,牛の健康状態,気性,体重,年齢(経験),そして牛同士の相性という牛個体間の生態的特性の違いによるところが大きい。ただし,牛達の成長過程を概観すれば分かるように,必ずしも生態的に優れた特性を持つ牛が勝ちを重ねれば,「強い」と認められ,順調に番付上位に上り詰め,「横綱牛」と称されるようになるわけではない。
     まず,牛には概ねその年齢階層に沿った役割があり,これに沿わない限り,ただ勝ちを重ねるだけの取組だけでは許されなくなる。すなわち,3歳~5歳は概ね同齢の牛との組み合わせによる「力比べ」,6歳~10歳は同齢の牛に加えて中~上位牛との組み合わせを中心とする「力試し」,そして10歳以降は「力試し」に臨む牛の挑戦を受け「横綱牛」の門番を務めるような役回りを受けつつ「横綱牛」の座を伺うこととなる。特に,自らよりも「強い」牛を相手としなければならない6歳~10歳の過ごし方は,その後の牛の成長過程に大きく影響すると言われている。
     次に,人の牛や牛持ちに対する評価が,牛の勝敗や強さとは別に,牛の成長過程に強く影響を及ぼす。こうした牛やその牛持ちへの評価は,関係者の間で共有されることで,牛の成長過程に強く影響を及ぼすと考えられる。また,人々の話の中に牛の「格」なるものが引き合いに出されているように,牛の角突きでは,人の牛に対する評価として,勝敗を超越した牛の「格」に言及されることがある。特に「格」は「横綱牛」と称される。つまり、牛の角突きにおいては,単純な牛の勝負という結果に加えて,人々の様々な角度からの評価によって,牛の強さが形作られている。
     特に,牛に対する人々の影響は,取組作成のプロセスに色濃く表れる。「取組審議会」は牛の角突きを主催する小千谷闘牛振興協議会における取組作成の専門部会である。牛持ち達は同会に,次回開催時の希望相手を伝えることが出来るものの,その組み合わせは取組審議会に出席する「取組審議員」に一任されており,彼らの合意をみなければ,取組が決定されない。その取組作成プロセス,つまり彼らの牛や牛持ちに対する何気ない評価に,牛の角突きにおける牛の強さを理解するヒントがあると考えられる。

    _IV_発表内容:本発表では、まず、現在までの牛の角突きの取組表から、牛の番付移動を抽出し,一般的な牛の成長過程を検討する。次に,取組審議会における人々の実践と取組の合意プロセスに注目し,いかにして牛の角突きにおける牛の強さが形作られるかについて述べたい。
第4会場
  • 米浜 健人
    セッションID: 401
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    地方都市中心市街地・商店街活性化において問題となる「動かない商店主」の実情把握を目的とした、土地登記情報を用いた商店街の土地保有状況の調査。
  • 近藤 暁夫
    セッションID: 402
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
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     企業・事業所による、消費者へ向けた様々な購買行動促進のための働きかけの中で、屋外広告は、消費者の事業所への来訪時の誘導のための情報伝達媒体として、需給接合の最終段階に用いられている。屋外広告による直接的な消費者の誘導範囲は、事業所の重要な営業範囲とみなすことができるとともに、それら宣伝活動が範囲内の消費者の購買活動に対して一定の影響を与えていることが期待できる。
     本報告は、中京大都市圏で営業する小売店と対個人サービス事業所による屋外広告の広告圏の形状を分析し、消費者に対する企業・事業所の宣伝活動の実態を明らかにすることで、大都市圏における商業活動の空間的な一側面を明らかにしようとする試みである。
     分析に用いるデータは、2004年1月~4月に中京大都市圏で実施した屋外広告の実態調査で収集した約2万件の屋外広告と約7千件の広告主(事業所)を基礎とする。その中から、小売業と対個人サービス業(飲食業と不動産業を含む)の事業所で、10件以上の広告の掲出が確認でき、かつ調査地域の末端に位置しておらず広告の掲出範囲を事業所を中心に面的に把握できる116件の広告主と、それらが掲出している屋外広告を分析の対象として抽出した。
     広告圏の形状は、事業所ごとに掲出している屋外広告の立地点を結んだ凸包と、凸包の外接円を作成し、両者の面積比を求めて検討した。同様に、広告の分布重心と事業所との距離を測定し、両者の位置関係を検討した(第1図)。その上で、屋外広告の形状や広告上に記載している情報に着目し、広告圏の広さや形状、掲出している屋外広告の属性、広告主の業種の関係を検討した。
     屋外広告を結んだ凸包(広告圏)の範囲は、平均して30㎢近いが、業種による面積の大きなばらつきがみられる(第1表)。広告圏の凸包比は、正六角形(凸包が正六角形の場合、凸包比は約0.83になる)の半分以下に留まり、面としての歪みは小さくない。ただし、広告の分布重心と事業所の立地点は比較的近く、広告の分布は基本的に事業所を中心とした求心的な構造を示している。
     野立看板や壁面広告など大型の広告を多く掲出する広告主は凸包比や凸包面積が大きく、電柱広告広告や街灯柱広告など小型の広告を多く用いる広告主は、広告の掲出総数が多い(第2表)。大型の屋外広告は、距離や時間に関する情報を掲載して、広範な範囲からの事業所への誘導に、小型の屋外広告は、集中的に展開させて導線の構築や消費者への印象付けを狙うなど、屋外広告は形状の大小によって役割を分担されつつ活用される。
     業種別の広告展開には、業種ごとに特有の傾向が確認でき、これは、それぞれの営業内容や商圏の性質との関係を示唆する。小売業は、凸包の面積に比べて掲出広告数が少なく、広範な範囲に誘導用の屋外広告を分散させている。医療施設には、事業所を中心とした狭い範囲に住所などの位置情報を掲載した広告を集中して展開させる、宣伝を重視した広告展開がみられる。宿泊サービス業と不動産業は、ともに広範な広告圏をもつが、宿泊サービス業の広告展開は、広告に住所を掲示せず、大型の屋外広告を展開させるなど、より事業所への誘導を重視した傾向がみられる。娯楽サービス業も広告への住所の提示が少なく、直接的な事業所への誘導を志向した広告展開といえる。飲食業は、凸包の面積、凸包比が極端に小さく、広告の分布中心から事業所が離れている。広告を面的に広範に展開させることは少なく、事業所直近部での誘導に特化した線状の広告展開に特徴がある。
     このように、事業所から消費者に対して宣伝や誘導が行われる空間的範囲は、必ずしも同心円状や六角形状の範囲でなされてはいない。この背景には、人口の偏りなどのほか、それぞれの企業・事業所の主体的意識的な宣伝戦略の存在が考えられる。これらの企業・事業所単位あるいは業種単位でみられる広告宣伝の内容の相違とその空間的な歪みは、企業・事業所の主体的で意図的な消費者への働きかけが、消費者の購買行動やその積み重ねによる商圏の形成プロセスに一定の役割を果たしうることを示唆する。今後、消費者の広告への実際の反応の測定など、更なる実証的追究が求められる。
  • 山下 宗利
    セッションID: 403
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    1990年代中頃以降、トロント都心周辺部ではコンドミニアムが急増している。本研究は土地利用の変化とトロント市の施策を基にコンドミニアムの建設の現状を明らかにしたい。
  • 川田 力
    セッションID: 404
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     日本の多くの地方中小都市においては、市街地中心部に旧来から立地する中心商業地区の衰退が著しい。これに対して、ドイツでは地方中小都市においても中心商業地区の商業機能が維持されている例が多い。この要因としては、小規模小売店の保護に閉店法が一定の役割を果たしてきたとされるが、近年では規制緩和により営業時間の延長が進み、小規模小売店保護に対する閉店法の役割は縮小してきている。一方、ドイツにおいては地方自治体が都市計画に対する実質的権限をかなりの程度有しており、これを利用した都市マネジメントが、商業地区の浮沈に大きな影響力を持っているといえる。そこで、本研究では、ドイツ南西部に位置するハイデルベルク市を対象として、近年の中心商業地区の変容について検討した。ハイデルベルク市は、1997年に全市域にわたる商業振興構想を策定した。この構想では、都心を頂点とする商業中心地の階層構造を重視し、上位中心都市にふさわしい商業の質の確保を目指して市内の小売業を強化する方針がとられた。具体的には、商品を都心型商品と非都心型商品に区分し、都心型商品を販売する小売店の新規進出を市街地核に限定することにより、商業機能の郊外化を抑制することとされた。また、市域全体で約4万5000平米の売場面積の拡大が提案され、商品の質を向上させることにより、中心市街地の魅力をより向上させることが計画された。2006年のハイデルベルク市の商業調査によると、1997~2006年に市域全体で店舗数はわずかに減少したものの売場面積は約1万3500平米拡大し、販売額も7.7%増加した。こうしたことから、ハイデルベルク市の商業機能は維持されてきたとみることができる。しかし、当該期間のハイデルベルク市の購買力の伸びは22.0%であったと算出されていることから、ハイデルベルク市の小売吸引力の低下が指摘されている。また、ハイデルベルク市民の市内購買率は、最寄品、買回品ともに約80%に留まっており、ドイツ国内の同規模都市に比して市内購買率が低いことも指摘されている。ハイデルベルク市の中心商業地区は、ハウプト・シュトラーセ周辺とビスマルク広場を中心とした地区で構成される。中心商業地区はハイデルベルク市全体の中でみると、店舗数・売場面積・販売額ともに市内の約3割を占めている。核店舗としては百貨店がビスマルク広場およびハウプト・シュトラーセに各1店立地しているが、店舗の約80%が100平米以下となっている。ハイデルベルク市中心商業地区においては食料品販売店の構成比が15.4%と市内他商業地区に比して大幅に低いことや、衣料品店の販売額が地区内販売額の58.8%を占めていることなどに、買回品を中心として、市全域および市外から集客可能な店舗が集積するAランク商業地区の特徴が確認できる。近年における中心商業地区の最も大きな変化は、1997~2006年に販売額が-17.8%と大幅に減少したことであり、ハイデルベルク市全体で当該期間に販売額が増加したのと対照的である。2006年時点での空店舗は約5%となっているが、それらは地区内東部の副次的街路沿いに集中しており、ハウプト・シュトラーセ、および、ビスマルクプラッツでは空店舗がみられない。しかしながら、テナントの更新は頻繁に行われており、中小都市としては格段に高いとされるテナント料に見合う収益を上げられない店舗の撤退と、高い知名度に吸引された新規出店が繰り返されている。こうした結果、近年、支店率の上昇が顕著で、ハウプト・シュトラーセにおいては、支店率が68.1%(2009)に達している。ハイデルベルク市においては、中心商業地区における販売額の減少という事態を受け、2008年以降、商業振興策の見直しが進められている。これは、1997年の商業振興構想で掲げた売場面積の拡大を市内のどの地区で実現するかについて再検討を伴う課題と位置づけられる。これまで、売場面積の拡大については4地区が候補地とされてきた。当初は都市構造的見地からネッカー川北部地区が有力視されていたが、その後、ハイデルベルク駅南地区における大型再開発プロジェクト「バーンシュタット」の実施が確定したため、ここに高次商業機能を併設する案が最有力化した。しかしながら、2006年の商業調査の結果が明らかになると、中心商業地区の強化が中心的政策課題となった。ハイデルベルク市では、住民参加のワークショップを開催するなどして、中心商業地区強化のための具体的計画立案を進めており、現時点ではハウプト・シュトラーセの中央部付近に大型の衣料品専門店を誘致する計画の実現可能性が模索されている。
  • 西原 純
    セッションID: 405
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    行政分野を希望 平成の市町村合併で誕生した新自治体のうち、約1/4の自治体で採用した分庁方式は、市長部局を複数の庁舎で分け合う方式である。この分庁方式の合併自治体では、職員の情報共有と合意形成が難しく、業務が非効率だと言われている。 本報告では、導入されたITの活用度とともに、複数の庁舎にまたがる職員の情報交換と移動を実際をアンケート調査によって調査した。その結果、重要な情報の交換ほど、ITでなく対面方式がとられ、実際の職員移動が多く必要であることがわかった。
  • 大西 直樹, 香川 雄一
    セッションID: 406
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    レジ袋などの容器包装廃棄物は,廃棄物最終処分量の約60.1%を占めるため,その処理や削減が緊急の課題になっている.現在,全国各地の自治体や企業・団体ではレジ袋を削減するために,レジ袋の有料化や,積極的に消費者に「お買い物袋持参」を促すための運動を行っている.しかし,同じような運動を行っていても,その効果は地域や店舗によって異なってくる.  そこで本研究では,「お買い物袋持参率」の差異に影響を及ぼしているものは何かを明らかにすることと,今後お買い物袋持参を促すのに有効な条件を導き出すことを目的とする.本研究の意義は,今後全国的にますます求められている,商品購入時におけるお買い物袋の持参を促す運動の参考となることである.  (株) 平和堂は,食品販売のほか衣料や雑貨などの販売も行っている総合スーパーにあたるが,算出している持参率は,食品売場のみのデータである.持参率には,食品レジにおいて,お買い物袋を持ってきた客をカウントするのではなく,レジ袋を辞退した客をカウントし,割合を示している.  2001年度当初は各店舗によって持参率にばらつきが見られるが,年度が経つにつれて店舗間のばらつきは小さくなってきている.また,ほとんどの店舗は年度が経つにつれて持参率を上げていることが分かる.しかし,店舗によっては持参率に約2倍近くの差異があり,まったく同じ持参運動を行っている企業内でも持参率にかなりの差が生じることが伺えられる.  自治体別制度の違いと持参率との関係性を調べるために,自治体別の持参率を算出した.自治体別持参率平均は,その自治体に所在している店舗の持参率を平均するのではなく,店舗の客数・持参件数を加重平均することで算出している.(株) 平和堂の店舗が立地している13市5町の自治体別持参率を算出した結果,店舗間ほど持参率に差異は生じていないが,自治体別に約10%も差異があることがわかった.  滋賀県内13市13町(2008年12月時点)の「ごみ収集」制度の現状を把握し,相関分析により関係性を調べた.  分別数は7種類~21種類と自治体によって大きく異なっていることがわかる.主に,ビン・缶類によって分別数に差が生じている.自治体別ごみ収集制度と持参率の相関分析の結果,相関比の検定より,「持参率」と「ごみの分別数」の間に相関がみられた.ごみの分別数が多くなるほどお買い物袋持参率が減少する(5%有意)ことが分かった.  消費者がお買い物袋を持参するか否かという判断と行動に繋がる要因に,店舗の規模や所在地の地理的立地要因といった店舗独自の特徴が大きく関係していると考えられる.したがって,滋賀県内に所在する全70店舗の店舗規模や地理的立地条件を把握し,相関分析によって持参率との関係性を調べる.各店舗の地理的立地条件を把握するため,土地利用状況を数値化し,割合表示できるメッシュ法を用いた土地利用図を作成した.  全店舗の作業をした結果,(株) 平和堂の立地特徴を5つに分類することができた.工場地帯に隣接している店舗では持参率が低く,商業用地が多く分布している箇所にある店舗では,持参率が高いという傾向をつかむことができた.相関比の検定結果より,「持参率」と「工業地帯割合」「住宅地割合」「商業・業務用地割合」の間に強い相関がみられた.このことから,工業地帯割合が増加すると持参率が減少し,住宅地割合と商業・業務用地割合が増加すると持参率が増加する(1%有意)ことがわかった.また,「持参率」と「農地割合」の間に相関がみられる.農地割合が増加すると持参率が減少する(5%有意)ことがわかった.その他の土地利用割合との間には,有意な相関は見られなかった.  滋賀県内 (株) 平和堂各店舗の商圏を設定することで,その商圏内の人口構成を把握することができる.各店舗商圏内の人口構成の違いを把握し,相関分析によって持参率の差異との関係性を調べる.  小地域データを扱うことができる「統計GIS」を利用し,人口構成の把握を行った.  相関比の検定結果より,滋賀県内の小地域統計データによる各店舗商圏内の人口構成とお買い物袋持参率との間には,有意な相関は見られなかった.そこで,2005年度のお買い物袋持参率の標準偏差をだし,持参率の上位10店舗と下位10店舗を抽出し,統計データの平均値と比較分析を行った.  レジ袋有料化が全国的に取り組まれてきているが,消費者にとってお買い物袋を持参せざるを得ない運動より,消費者が自主的に取り組める運動が今後の地球環境のためになると考える.本研究の成果を踏まえ,行政・事業者・市民の3者によりお買い物袋をさらに持参しやすい環境を整える事が期待される.
  • ソン ミンホ
    セッションID: 407
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    政策研究において理論的な支柱であるソーシャル・ネットワーク(Social Network : 以下SN)論は,従来の研究では, SNの構造,機能,分析手法,個人の視点からの活動継続要因などの解明が中心となっていた.しかし,事業の運営組織におけるSNの形成や変化並びに政策の継続的な実施との関係に焦点をあてた研究は十分でなかったと言える. ところで,現在,持続可能な社会の構築のために地球規模で様々な政策が展開されている中,特に,国際連合は,2005年から2014年までの10年間を,UNDESD(UN Decade of Education for Sustainable Development:以下UNDESD)の実施期間に定め,そのもとで数多くの地域がESD(Education for sustainable development : 以下ESD)活動に積極的に取り組んでいる.途中の2009年にはボン宣言がだされ,ESD活動をさらに推進するためにはSNを含むネットワークの強固な構築や活用の重要性が強調されている. そこで本研究では,上記のSN論の不十分さを補う目的として,北九州市でESD活動の中心的な役割を果たしている北九州ESD協議会を対象に発足段階から現在に至るまでの同協議会の構成団体に属し活動に関わる個人間のSNの形成や変化を整理し,SNとESD事業の継続性の関係を明らかにしたい.
  • 前田 洋介
    セッションID: 408
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
     近年,NPOやボランティア団体は,「公」の新たな担い手として期待されている。特にローカル・レベルでは,NPOやボランティア団体への自治体の関心が高まるなか,福祉や防災をはじめ,様々な分野において,NPOやボランティア団体による公的課題への取り組みが目立つようになってきている。また,NPOやボランティア団体は,「地域(社会)」の再生の文脈のなかでも注目されている。地域福祉や安心・安全などの観点から,「地域」を,社会的紐帯に根ざした相互扶助が機能する場として,また,「地域」の課題を自律的に解決する場として再構築することが議論されるなか,従来「地域」を担ってきた地縁組織と並び,NPOやボランティア団体はその新たな担い手としても期待されている。
     NPOやボランティア団体の公的な役割や「地域」との関係については,これまで政策や理論レベルで多くの議論が展開されてきた。しかし,行政や企業とは異なる固有の社会的機能や特徴を持つNPOやボランティア団体が,独自のネットワークを形成しながら公的課題に取り組むことが一般的な現象となりつつあるなか,そうした活動の展開過程や意義について,具体的な事例を通じた実証的検討もまた必要である。特にNPOやボランティア団体と「地域」との関係をめぐっては,ややもすれば,これまで「地域」は抽象的な地理的・社会的単位として扱われていたといえるだろう。しかし,ひとえに「地域」の担い手と言っても,たとえば,NPOやボランティア団体と地縁組織とでは,メンバー間の紐帯の地理的・社会的特徴は異なるものである。NPOやボランティア団体が「地域」において存在感を高める背景を探るには,こうした「地域」内のミクロな社会関係や,「地域」の文脈にも目を向けていく必要があるだろう。
     以上の問題意識をもとに,本報告では,近年活動が活発化している,名古屋市におけるNPOやボランティア団体を中心とした防災への取り組みを事例とし,活動の展開過程と「地域」における意義を,特に「地域」内外に築かれている主体間の関係に着目して検討する。さらに,活動が支えられる背景について,メンバーへのインタビュー調査をもとに,特にこうした活動における社会関係の地理的・社会的特徴に着目して考察する。また,このような活動が体現する「地域」の意味についても考えていく。
  • 溝口 晃之
    セッションID: 409
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    2013年4月からの高等学校学習指導要領「地理A」で防災という用語が登場することになった。これまでも筆者は勤務校の自然条件に応じて、水害や地震などの自然災害を扱ってきた。その反省から、防災教育は教室の内の授業だけでは不十分であり、家庭や地域社会など、教室の外における活動も重要であると感じている。また、防災ではなく、減災の観点を重視し、公助よりも共助、共助よりも自助の意識を醸成させることは重要であると考える。ここでは、勤務校が濃尾平野の西部に位置するという自然環境を考慮し、災害の跡地や防災関連施設に出向き災害を疑似体験させることを通して、正しい防災意識をもった市民を育成する防災教育の在り方を考える。
  • 齋藤 清嗣
    セッションID: 410
    発行日: 2010年
    公開日: 2011/02/01
    会議録・要旨集 フリー
    高校地理の授業において、身近な地域のAEDの配置状況の調査を行った。 この活動を通して、生徒たちは「探究的な学習」を展開できた。
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