人文地理学会大会 研究発表要旨
2011年 人文地理学会大会
セッションID: 403
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第4会場
美濃北西部の条里
条里プランの再検討と課題
*竹谷 勝也
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キーワード: 条里, 美濃, 大野郡, 安八郡
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抄録

1.研究の目的
 美濃国北西部には、不破・多芸・安八・池田・大野・本巣・席田・方県・厚見・山県の10郡1)に渡って条里地割が分布し、本巣郡の十四条~十九条、大野郡の五之里・六里などの条里地名が残存する。
 阿部栄之助2)は、里界が郡域を超えて同一畦畔上に設定されていること、旧村界と里界が高い割合で一致することを紹介した。これを端緒に、『岐阜県史3)』と水野時二4)の大著の刊行によって正方位大規模条里の典型として知られるようになったが、いずれも小縮尺地図上での研究であり、成果として示された地図も正確とは言い難いものであった。
 1987年に池田郡5)、続く1990年代には大垣市域6)において足利健亮らによって大縮尺地図を用いた復原研究が行われ、東大寺領大井荘の領域が明らかになるなど、大きな成果があった。しかし、どちらも1郡程度の小地域にかかる成果であって、一円に広がる正方位大規模条里についてはほとんど言及していない。当然ながら他郡の成果が不可欠なのである。
 本研究は、不破-席田の7郡について大縮尺地図上で地割の分布状況を確認し、先行の復原の可否を検討した上で、改めて正方位大規模条里の姿にせまることを目的とするものである。

2.大野郡の条里プランと河埼庄の復原
『県史』、水野ともに、それぞれ当地域の正方位大規模条里のグループ分けを試みているが、双方の見解が異なるのは大野郡である。大野郡は対象地域の中心を占め、残存状態も良いにもかかわらず、これまでに納得できる復原案が示されていなかった。
大野郡の条里呼称は水野説が定説であった。水野によると、牛洞が南北朝期に「八条郷」と呼ばれたことからここを8条として北から南へ数え、五之里・六里の地名から里は西から東へ数えたとする。また、坪地名から坪並は北西隅から東へ数え南に進む平行式に復原している。
 大野郡の坪付史料は、大永5年(1525)の勧修寺文書「鷲尾家領美濃国三ヶ所注文」のみである。当時大野郡は東西に分かれていて、ここにみえる上秋庄・河埼庄は大野東郡に属していた。水野は上秋庄の西限「大野西郡東堺鴈俣尾」が6里東縄に相当するとし、7里を東郡1里として東に数えるとした。
 水野案の問題は、総計473 町を数える河埼庄の領域に到底足りないことと、宝永年中以前、大野郡本庄村・加納村が安八郡に属していた事実を見落としていたことである。そのため、15条以南について、里の起点を加納・本庄両村東堺(=旧安八郡界)の畦畔と仮定し、里界を14条以北と同一の畦畔に設定してみたところ、条件を満たす河埼庄の領域が現れ、条里プランの復原も可能となった。

3.大規模条里中の安八郡条里プランと課題  各郡の条里プランを再度検討した結果、池田・席田2郡以外は修正案を示すことが出来たがここでは割愛する。全ての郡の条里分布図を地形図上に配置したところ、基本的に条界は同じ東西畦畔上に乗ることを確認した。また、大野・本巣両郡の北部では、畦畔が最大1町ずれることが判明し、水野のグループ分けが正しかったことも判明した。
 唯一、(足利説)安八郡のみ条界が他郡より1町南になることがわかった。郡南部の大井荘付近の坪地名に基づく足利の考察に誤りは認められない。
 しかし北部では、八条村(現神戸町)北の村境が足利案の条界より1町北であることなど、従来の『新修大垣市史』の復原案の方が適当とみえる。『新修市史』の復原案であれば、他郡とのずれも生じない。 現在のところ、これを解決できる材料がみあたらないため、今後の課題としておきたい。

<註>
1) 明治30年以前の郡名。
2) 阿部栄之助『濃飛両国通史 上』岐阜県教育会,1923。
3) 水野時二『条里制の歴史地理学的研究』大明堂,1971。
4) 『岐阜県史 通史編古代』,1971。
5) 足利健亮・金田章裕・田島公「美濃国池田郡の条里-「池田郡司五百木部惟茂解」の紹介と検討を中心に-」史林70-3,1987。
6) 大垣市教育委員会編『新版大垣市遺跡地図』,1994。
   同 『大垣市遺跡詳細分布調査報告書解説編』,1997。

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