1973 年 16 巻 p. 178-159
岡本かの子は、日本近代文学史上どの系列にも属さない特異な作家であるため、他の作家の影響、ことに外国文学の影響は全然受けていないように思われがちである。しかし、彼女の経歴を見ても明らかなように、かの子と外国文学との結びつきは意外に強く、丹念に読み比べてみると、なんらかの関連性が窺われるものがかなりある。そして、かの子の場合、外国文学とは東洋と西欧の二者の文学であり、前者は主として、インドの仏教説話、後者は、英仏独伊露北欧諸国の文学と哲学である。かの子は、このような文学を自己の栄養として、「煩悩即菩提」の大乗仏教の哲理に裏打ちされた独自の「生命」の文学を開花させた。
従って、この論文では、西欧文学の翻案物として、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に触発されて書いたという『夏の夜の夢』と、D・H・ロレンスの『狐』と関連があると思われる『狐』の二作、仏教説話からの翻案物として『阿難と呪術師の娘』および『鬼子母の愛』をとりあげて、かの子の創作心理の一端を考察してみた。
すなわち、『夏の夜の夢』は、たえまなく愛の歓びと苦しみに引き裂かれた歳月のあと、ようやく到達したかの子の愛の理想像を、夏の夜の妖精の姿を藉りて描き出したものであり、『狐』は、一種の哲学的、社会的視野をもつ、西欧的で清教徒的なロレンスの作品に対して、仏教的な無法、非有の思想に貫かれた非常に東洋的な愛のすがたを描いている。また、仏教説話を飜案した二作品は、『阿難と呪術師の娘』は男女の愛、『鬼子母の愛』は母子の愛を描いたものであって、両者とも煩悩と罪を媒介として悟りに入る愛の浄化過程、換言すれば弁証法的認識の変化によってより高度な新しい愛に生まれ変わる過程が描かれているということができる。(早稲田大学)