比較文学
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論文
James Joyce and Kobayashi Hideo
和田 桂子
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1989 年 31 巻 p. 310-297

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抄録

 昭和初期、ジェイムズ・ジョイスが注目を集め、いわゆるジョイス・ブームが起こった。小林秀雄は決してそのブームに乗った本人ではなかった。ばかりか、彼はこれに苦々しい懐疑を抱き続けていた。本稿は、小林の否定の眼を通して見たジョイス・ブームに焦点をあて、それによって昭和初期という時代の一面を照らし出そうという意図を持っている。

 昭和初期は科学歓迎の時代と呼んでもよい。プロレタリア文学がマルクス主義唯物論という科学的客観的立脚点を保持していたとすれば、対する芸術派の方も、ことさらに自らの科学性を主張していた。その中で、ジョイスはまさに科学的文芸の最先端として扱われていたのであった。

 しかし小林にとっては、「意識の流れ」の「科学性」などは問題外であった。彼にはむしろ『ユリシーズ』に表われる「作家の顔」こそが重要であった。現代という捉えどころのない時代を描き、現代人という無性格な人物を描こうとする時、その作品は書く対象のリアリティーの不足による「デカダンス」に陥る、と小林は言う。それを救うのが「思想」であり「倫理」だというのである。ジョイスの「倫理」が、すなわちニヒリスティックな「作家の顔」が『ユリシーズ』を救っている、と小林は見た。

 『ユリシーズ』に見られる「無暗矢鱈に振り廻」された「衒學的な洒落」を取り除いて、小林はジョイスの「作家の顔」を見定めようとした。しかしジョイスにとって「作家の顔」とは、まさに「無暗矢鱈に振り廻」された「衒學的な洒落」そのものではなかっただろうか。つまり、言葉あそびによってジョイスは、現代という摑みどころのない時代の多層的な「リアリティー」を描こうとしたのである。『ユリシーズ』において言葉あそびはもはや技法ではなく、小林いうところの「作家の顔」の具象化されたものであったといってよい。

「ジョイスについては、『ユリシーズ』の佛譯を通じてわずかに知るのみ」という小林が、科学的技法なるものに浮かれる当時のジョイシアン達を否定し、浮薄なジョイス•ブームに懐疑を抱いたのは、彼の文学的直感が卓越したものであったことを物語っている。しかし小林にさえ見ることのかなわなかったものは、ジョイスにとっての、あるいは現代にとっての言葉の位置であった。そしてそれは小林の限界というよりも、おそらくは、言葉そのものの潜在力にまで注意を向け得なかった昭和初期という時代の限界であったといえるかもしれない。

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© 1989 日本比較文学会
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