比較文学
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論文
The Japanese Woman as a Representation of the Nation:
Lafcadio Hearn’s Ironic Colonialism
ソーントン不破 直子
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1996 年 38 巻 p. 248-232

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抄録

 ポスト植民地主義文芸批評は、文学に表象された植民者と被植民者が、男性と女性の二項対立の構図となっていることが多い、と指摘している。これはミシェル•フーコーが、西欧が歴史的に「女体のヒステリー化」を推進してきた、とする論と呼応する。すなわち女性は非理性的•ヒステリー的で自分を制御できないので、理性的な男性の支配が必要であるとした論理が、そのまま植民地支配の正当化に適用され、被植民者は女性のように非理性的で自分を統治できないから、男性的理性をもった西欧の教化と保護(実は支配)が必要なのだ、とするものだった。

 ラフカディオ•ハーンは、その生い立ちの影響もあって、帝国主義•植民地主義に強い反感を抱いていた。来日当座の印象記『日本瞥見記』においては、西欧の男性にもてあそばれ捨てられた日本女性が日本の社会からも疎外されているのを見て、ハーンは西欧と日本から二重に植民地支配された彼女に誠心から同情している。だがハーンの晚年は、日本自体が植民者としての野望を東アジアに向けはじめた時代でもあり、ハーンは日本を植民者と被植民者の両面から理解しなければならなかった。それでも最晚年の著作『日本 一つの試論』においては、「祖先と男性に服従するように作られた」日本女性の「自己犠牲」の精神こそが、日本人の美と道徳性の基となってきたとし、日本女性を国家の道徳的表象ととらえている。そして、西欧的近代社会は(日本も含めて)、自己中心の侵略と競争をやめ、この日本女性の道徳的理性を範とすべきだと言う。つまり、フーコーの論の「ヒステリー化された女体」とは正反対の精神性を、日本女性に見たのである。

 だがハーンは日本女性の「自己犠牲」は強要されたものであるという実態には全くふれず、西欧に自分の意見を示す道具として日本女性を使ったのである。その点においては、ハーンは皮肉にも、あれほど称賛した日本女性を「植民地支配」したと言ってよいだろう。

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© 1996 日本比較文学会
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