タチバナ(Citrus tachibana(Makino)Tanaka)は奈良時代以前から日本に存在していたと考えられる在来カンキツ種の1つで,東海から九州にかけての太平洋岸側の山中に複数のタチバナ自生地が存在する.従来,タチバナは1種とみなされてきたが,高精度DNAマーカーによる解析から,少なくとも3つの遺伝的に異なる系統が存在することが示されている.しかしこれまでの解析は各地域で採取された一部の個体を対象としており,種としてのタチバナ,および自生地の群落内の遺伝的多様性に関する知見に乏しかった.我々はタチバナの群落内の遺伝的多様性を把握し,将来の利用や保全に役立てる目的で,静岡県沼津市戸田に自生するタチバナに注目し,自生地内の全個体(井田地区24点,紙屋地区40点)を収集した.核とオルガネラの高精度DNAマーカー分析の結果,井田地区の22点と紙谷地区の38点はすべて既知のタチバナ-A型と遺伝子型が完全に一致した.また,井田および紙谷地区の由来不明のカンキツ個体各2点は遺伝子型からナツミカンと判定された.群落内にはタチバナ-Aの自殖もしくはナツミカンとの交雑個体は確認されず,タチバナ-Aを種子親とする交雑実生の獲得は困難であることが想定され,自然交雑実生のDNAマーカー分析でも同様の結果が示された.群落内に若木も確認されたことから,戸田タチバナ自生地では珠心胚実生を介して無性的に個体が維持されてきたと推定された.