乳幼児教育者の専門性のあり方について,乳幼児期を人間形成的視点から分析することによって考察した。乳幼児期は子どもが自己形成を成立させていく時期であり,その進行状態に応じた教育(保育)が行われなければならない。
本来母親による保育は自らの子どもの成長・発達に応じた形で進められるがゆえに,中心的役割を演じるものであり,乳幼児教育者は母親の保育を補助することが主な役割であった。それは保育を構成する養育・保護・教育のうち,養育と保護がその中心であったからである。しかし,今や乳幼児教育者が真に母親の保育を指導できるだけの専門性を備えた乳幼児教育指導者になる必要がある。
乳幼児期の保育の重要性が増してきている現在,保育における教育の要素が重視されるようになってきた。教育は養育や保護と根本的に異なる要素をもっていて,子どもにストレスを与える。そうすることによって耐性の育成を成立させる。その結果,乳幼児教育者の役割の拡大化,さらに,乳幼児教育者における専門性のレベルアップが求められているのである。
I considered the way of the expertise of the early childhood educator by analyzing the early childhood from the point of character formation. In early childhood, human beings begin self-formation. Childcare must be done in accordance with the process of it.
Childcare by a mother should naturally be done in accordance with her child’s growth and development. Therefore, a mother is the main worker in her childcare. Early childhood educators help the mother’s childcare. Childcare consists of nurturing, protection and education. Conventionally nurturing and protection have been more emphasized than education in childcare. But now early childhood educators must become leaders in early childhood education with expertise enough to lead a mother’s childcare.
Now childcare in early childhood is considered more important than before. Education as one element in childcare is different from the other two elements (nurturing and protection). Education cultivates tolerance in children by giving the children some stress. Therefore, the role of early childhood educators becomes wider and the level-up of expertise of early childhood educators is more required than before.
「人間は教育によってのみ人間になることができる1)」というカント(I. Kant, 1724~1804)の言葉を否定する教育学者はいない。生理的早産として誕生した人間は,誕生と同時に教育(保育)が必要であり,それなしには生命の維持すらできない不完全な状態にある。保育が必要なのは,人間が個としての存在だけでは生きていけない種の特殊性に起因し,親や親に代わる保育者による保育が人間の成長・発達だけでなく生存そのものにも必要不可欠な要素になるからである。
人間の誕生後の不完全な状態を保護し,養育し,さらには,それが人間としての成長・発達を進めていく教育に受け継がれる一連のはたらきかけなしに,人間は存在することすらできないのである。このような一連のはたらきかけこそが保育なのである。保育は,養育・保護・教育という三つの要素から成立し,人間の乳幼児期に不可欠のはたらきかけなのである。
この時期の保育というはたらきかけによって成長・発達していく人間は,そのようなはたらきかけを認識することすらできない。それは,認識の主体になる自我そのものが成立していないからである。自我自身の成立過程においては,自己意識は存在しない。自我の自己に対する意識こそが自己意識であるがゆえに,この時期の成長・発達は,環境からの影響と生命体自身がもつ生理的能力の相互関係のうちに成立する無意識的自己形成によると定義することができる。
無意識的自己形成によって徐々に自我が生成するにしたがって,自己意識が成立してくる。自己意識の成立とともに,自我は自らの意志による活動ができるようになってくる。この後の成長・発達は,自我によってある程度方向づけられる。自我が自己活動を導くと同時に,徐々に明確な自己意識や他者意識をもつことによって,人間はその本質的特徴である「明確な自己意識をもつ社会的動物」へと成長・発達を遂げていくのである。三歳ごろまでに自己意識や自己活動の主体である自我が生成し,その後はその自我によって自己を形成するという意識的自己形成が成立してくる。意識的自己形成によって実現されていく成長・発達は,三歳ごろまでの自我の生成に加わった要素に影響された形で実現されていく。三歳ごろからは,一般に意識的自己形成と無意識的自己形成が並行して行われていくのである。以上のような構造で,「三つ子の魂百まで」が成立するのである。
無意識的自己形成は自我の生成を導き,意識的自己形成は自我による自己の形成を実現するわけであるから,三歳以降の人間形成は意識的自己形成だけでなく,意識的自己形成と無意識的自己形成の併存する形での成長・発達が実現していくのである。それゆえにこそ,人間は明確な自己意識が成立してからでも,自らの成長・発達は必ずしも自分の思い通りにならず,思いもしなかった能力が身に付くこともあれば,能力を付けようと努力してもなかなか修得できない能力もあらわれてくるのである。以上のような構造で人間の成長・発達の初期が成立してくるがゆえに,「三つ子の魂百まで」は全ての人間において成立する基本原理なのである。
本論文では,このような「三つ子の魂百まで」が意味することの重要性を認識したうえで,乳幼児教育指導者の専門性のレベルアップの必要性を明らかにしていきたい。つまり,保育士や幼稚園教諭,さらには保育教諭は単なる乳幼児教育者ではなく,十分な専門性を備えた乳幼児教育指導者でなければならない。また,乳幼児教育指導者は,いずれは乳幼児教育専門家としての立場を確立していくことが必要なのである。本研究は,このような乳幼児教育分野における教育指導者の専門性の確立のための研究の第一弾であり,人間形成的視点から見た乳幼児期の保育の意義について探究していきたい。
人間形成論は人間の成長・発達を単なる個人の子どもから大人までの限定的なものとして捉えるのではなく,生涯にわたる成長・発達,さらには,世代を超えた人間の種の発達をも問題にする理論である。歴史的研究は過去に遡ることによって人類の発達や文化の発展を探究するのであるが,人間形成論は歴史的研究を踏まえながらも,現在を起点にして未来に向けた人間のあり方について総合的に探究することを視野に入れたものでなければならない。
このような視点から,乳幼児期について考察する。
(1) 無意識的自己形成だけが行われている時期(乳児期)人間が生理的早産として誕生してきたとき,自己意識の主体である自我は成立していない。それゆえ,誕生と同時に自己意識は成立しない場合が多い。乳児期における人間は,生体を取り巻く環境からの影響(親による保育を含めて)を一方的に受け入れざるをえない状態にある。まさに,この時期の無意識的自己形成は環境からの影響に100%左右されるのであるが,ただこの無意識的自己形成は環境からの影響を生理的レベルで選択しているのである。それゆえ,同じ環境に置かれる乳児が異なった影響を成長・発達において受けることがありうるのである。まさに,これこそが無意識的自己形成といえる所以である。
自我が成立していないこの時期は,自我が生成する時期でもあるわけであるから,この時期(乳児期)における保育は生涯にわたる成長・発達に大きく影響することになる。とりわけ,この時期の保育は養育と保護が中心であり,子どもの生命の維持・発達に不可欠な保育である。養育と保護によって成長・発達に対して与える成果は,生体としての諸能力の発達と自我の生成としてあらわれてくる。
自我は後の意識的自己形成の主体であるため,大きな教育的意義をもつ。それゆえに,保育におけるもう一つの要素である教育について重視しなければならない。ただこの場合の教育は保育のなかの一部の要素としての教育であるがゆえに,英才教育,早期教育といわれるような本来後の成長・発達段階で行われるべき教育を乳児期において行うという意味ではなく,後の意識的自己形成を進めていく自我に対するはたらきかけが中心にならなければならない。
これこそ,今後目指すべき乳幼児教育専門家としての保育士や幼稚園教諭や保育教諭の使命でなければならない。単に母親の役割を代行するのではなく,教育専門家として後の意識的自己形成がより高い成果を生み出しうるような自我の生成にはたらきかけることが必要なのである。真の英才教育や早期教育は,個々の子どものもつ本性(無意識的自己形成の状態と意識的自己形成の生成の構造)に応じて行わねばならないが,その本性を十分に分析することもなしに,教育目標だけ定めて,それに向けて行う教育は教育の名に値しない。真の英才教育や早期教育は,この時期の成長・発達のあり方に関するさらなる研究を前提に進められなければならない。
今後求められる乳幼児教育が真の英才教育や早期教育につながるためには,従来の乳幼児教育において考えられていた養育と保護にウエイトを置いた保育ではなく,あくまで養育・保護・教育のバランスを保った保育のあり方を前提にしながらも,保育における教育の意義を明らかにしていかなければならない。
(2) 徐々に意識的自己形成が行われ始める時期(第一次反抗期)自我の生成に伴って,自己意識が徐々に成立してくる。自己意識が成立することと並行して他者意識も成立してくる。自己意識の明確化に伴って,子どもは徐々に自分の考え(好み,行動…)をもつようになる。このような状態は保護者にとっては反抗期に見える。まさに第一次反抗期である。それまでは環境からの影響に対して生理的に反応するような自然の活動であったのが,子ども自身が自分の考えで行動したいという欲求があらわれてくるのである。第一次反抗期は自我の成立の兆候であり,意識的自己形成を含む自己活動の始まりであるということができる。
この点について,シュライエルマッハー(F. D. E. Schleiermacher, 1768~1834)は「人間は生の初めから完成を求めて発達を遂げていく十分な根拠を自らのなかにもっている存在である2)」として,人間の本質的な自己形成的素質を明らかにするとともに,「各人間は教育のなかで自らを教育しなければならない3)」という意識的自己形成の意義についても示唆している。子ども自身がもつ資質である無意識的自己形成と意識的自己形成を前提にした教育こそが行われなければならないことが,明確にされているのである。
それゆえにこそ,この時期の保育は子どもの主体性を尊重することが極めて重要な意義をもつ。遊びの重視はこのような基本的考え方から成立してくるのである。乳幼児期における自己活動のあらわれの中心的なものが,遊び活動においてであるからである。遊び活動は他者意識の成立に伴って,一人遊びから集団遊びへと発達してくる。集団遊びは子どもの自己意識や他者意識をさらに発達させ,そこに社会性が成立してくるのである。
遊び活動は自己活動であるがゆえに,そこには独自性が成立してくる。遊びの指導の問題点はルールを強調しすぎて子ども自身の主体性から生じる独自性を否定することである。遊びを導き出すためのルールはあくまで手段であり,本質は子ども自身の主体性であることを乳幼児教育指導者は認識しなければならない。
反抗期と感じるのは,それまで,子どもが親や保育士のいうままに活動していたことが,子ども自身の思うような活動をするようになったことに対して,親や保育士の立場から感じることである。しかし,子どもの成長・発達を進めるべき乳幼児教育指導者は,子どもの主体的自己活動(第一次反抗期と感じる自己活動)を成長・発達のあらわれとして喜んで受け入れなければならない。むしろそれ以降の子どもに対する指導は子どもの主体性をそれまで以上に尊重するように切り替えることが必要なのである。
自己活動が成立してくることは,意識的自己形成が成立することにつながる。遊び活動において目指すべきことは,子どもが自分なりの新たなルールを取り入れて遊び活動を行うようになることである。「遊びは子どもの発達の最高段階である。なぜなら,遊びという言葉そのものが意味するものは内面の自由な活動のあらわれであり,内面の必然性と必要性そのものから出てきた内面のあらわれである4)」と説明するフレーベル(F. W. A. Fröbel, 1782~1852)の考え方によれば,遊びとは他人が教えるべきものではなく,子どもの自発的・主体的な活動なのである。
以上のような意味において,第一次反抗期は乳幼児教育指導者にとって子どもの指導のあり方を決定する極めて重要な意義をもつ兆候であることを忘れてはならない。
(3) 意識的自己形成が前面にあらわれてくる時期(その背後で無意識的自己形成は継続している)第一次反抗期を契機に,子どもは主体的行動がますます顕著になってくる。遊び活動も集団遊びが盛んになり,その過程で,競争や喧嘩,さらには,いざこざが起こるようになってくる。これらは自己意識の明確化と比例して増加してくる。明確な自己意識をもつ社会的動物としての性質が成立してきたあらわれである。このように意識的自己形成が前面にあらわれるようになってくる人間の成長・発達において,子どもの意欲や「やる気」を尊重することの必要性を乳幼児教育者だけでなく,すべての教育者が感じるところである。
しかしながら,意識的自己形成が前面に出るようになってからも,無意識的自己形成は行われ続けていることを忘れてはならない。意識的自己形成を導くための興味・関心,「やる気」の尊重と同時に,無意識的自己形成を進めるための教育としての「繰り返し」や訓練をも行わなければならない。「繰り返し」や訓練は被教育者にとってストレスを与えることになる。その結果,児童中心主義教育信奉者たちは「繰り返し」や訓練を否定する。このような考え方は誤っている。
「繰り返し」や訓練は無意識的自己形成にとって必要であると同時に,ストレス耐性の育成にも有益なのである。自我が成立して以降,子どもは主体的にさまざまの要素のストレスに立ち向かっていかなければならない立場に置かれるようになる。つまり,成長・発達自体が子どもにとってストレスなのである。そのようなストレスを与えるのが教育の基本原理なのである。それゆえにこそ,ストレス耐性の育成が教育における不可欠の要素になってくるのである。
保育の三つの要素(養育・保護・教育)のうちのバランスのとり方は,子どもの成長・発達の状態(自己形成の状態)に応じる必要がある。それは,個々の子どものストレス耐性の成立にも格差が存在するからである。乳幼児教育指導者が「個々の子どもを知る」ということは,子どもの性格・能力と同時にストレス耐性を知ることが含まれなければならないのである。何に興味・関心をもつかを知ると同時に,どの程度の訓練や叱責に伴うストレスに耐えられるかを乳幼児教育指導者は十分認識しておかなければならないのである。
保育の専門家である保育士に求められているものは,時代の変化に応じて徐々に変化してきている。それは保育の構成要素である養育・保護・教育のうちのどの要素にウエイトが置かれるかによって異なる。このウエイトの置き方によって保育活動そのものが変化してくるのである。この点について考察する。
(1) 保育を構成する要素保育は誕生直後から,乳幼児期全般にわたって行われる教育活動の具体的形態である。保育の英語表記はchildcare であり,子どもの置かれている状態やその環境に応じてその成長・発達に必要なはたらきかけであるということができる。それゆえ,保育は養育と保護と教育から成立するということができるのである。生理的早産として誕生してくる人間にとって,「生きていく」こと自体を援助する必要性が第一の目的になるがゆえに,養育と保護が保育(childcare)の中心的はたらきかけになる。
しかしながら,この養育と保護の結果は乳幼児の成長・発達のうち表面的側面注1)にあらわれるがゆえに,母親による保育と保育士による保育の成果の相違があらわれにくいのである。さらにいうなら,母親による保育は子どもの誕生から継続して(さらには母胎内での生育をも含めて)行われているのに対して,保育士による保育は誕生後のある一定の期間をおいてから,母親による保育を受け継ぐ形で行われることが一般であることから,純粋に母親による保育と保育士による保育を比較することはできないのである。
さらに,子どもの生育状態から養育・保護・教育の必要性を判断することがそれまでの成長・発達のあり方に大きく左右される必要があるにもかかわらず,そのようなことに関する情報の量は親と保育士では大きく異なるのである。また,親は自らの子どもだけにかかわる育児として行う保育であるのに対して,保育士は複数の子どもに対する保育を同時並行的に行わなければならない点から,一人の子どもの成長・発達における母親と保育士の保育を比較すること自体に問題がある。
養育・保護・教育のうち,その成果が最も顕著にあらわれてくるのは,子どもの成長段階において異なる。乳幼児期においては,養育と保護が中心であり,教育の成果は子どものその後の成長・発達の時期においてはじめてあらわれてくるものである注2)。具体的にいうなら,乳幼児期の保育(のうちの教育)は乳幼児期にその成果があらわれてくるのではなく,その後の少年期・青年期に顕著な形であらわれてくるものなのである。それゆえ,その成果は少年期と青年期の教育だけに起因するのではなく,乳幼児期の保育(のうちの教育)の基礎があってはじめて少年期や青年期の教育が成果を上げることが可能になってくるのである。
それゆえにこそ,保育の意義を乳幼児期においてのみ評価するのではなく,その後の教育の基礎を作り上げる保育としての理解が必要であるとともに,保育士自身の意識も単に子どもがかわいいから保育士になるというような動機だけによって保育士になるのではなく,人間の教育において極めて重要な時期(乳幼児期)の保育に直接かかわれる「やりがい」のある専門職に就くという意識をもたなければならない。保育そのものの基本的意義を理解することによって,保育士としての専門性が成立してくるのである。
(2) 乳幼児に必要な保育の見極め乳幼児期における子どもの成長・発達の状態は,個々の子どもにおいて大きく異なる。親の保育は自らの子どもに対してのみ行われるものであるから,母性愛に導かれる本能的要素を大きくもつ保育になることは否めない注3)。
保育士は複数の乳幼児期の子どもの成長・発達に応じた保育を行わなければならない。そのためには,成長・発達の状態を見抜くことが保育士の子どもに対する第一歩でなければならない。このような意味において,保育士はいかなる理由で保育士になったとしても,保育士になってからは保育に関する専門職という意識をもつとともに,そのための努力を恒常的に続けるのが重要な職責である。専門職とは,ある領域・分野において専門的見識を培い,その見識に従って「他人の権利を代行できる職業注4)」でなければならない。他人の権利の代行という重い責務を果たすためには,個々の子どもにおいてその子ども自身が保育のうちのどの要素を必要としているのかを見極め,それを実践していける形で専門性が確立していなければならない。
保育士は子どもの成長・発達を進めていくという使命感を第一に認識し,その使命感に導かれた保育を実践していくための見識と能力をもつことは当然である。「子どもの成長・発達に何が必要か」を見抜く専門性に導かれた保育を常に実践できることが,専門職としての乳幼児教育指導者である保育士に求められるのである。
乳児期における子どもを知るのに最も適した存在は母親であることを否定できない。母親は最も長時間子どもとスキンシップをとることが可能な状態にある。この意味において,この時期の保育に対する保育士の役割は母親の保育を前提に行うことが第一である。母親との相互信頼関係を築き,適切なアドバイスを与えることが教育専門家としての保育士の務めなのである。
幼児期における子どもを知るためには,子どもの遊び活動に参加し,遊び活動そのものを通じて「子どもを知る」ことが必要である。子どもの成長・発達の現状を把握し,子どもの遊び活動に参加することによって,子ども自身との相互信頼と相互影響授受の関係を成立させることが必要である。自我の成立によって遊び活動が可能になった子どもに対するはたらきかけは,遊びを通じてのみ成立するのである。
乳幼児期における保育は,個々の子どもの成長・発達の状態を的確に把握することによってさまざまの対応が求められる。このような意味において,保育の各要素のうちどの要素が必要であるのかを判断するための子どもの状態の見極めこそ,乳幼児教育指導者に求められる専門性の第一要素である。
(3) 乳幼児に必要な保育の実践乳幼児期における子どもの言語習得は必ずしも完全なものではない。それゆえにこそ,乳幼児教育指導者は子どもの主体性のあらわれである遊び活動を注視し,そこから子どもに必要な保育を試みなければならない。乳幼児期の全体を通じて必要なのは,養育と保護である。その前提において教育を行わなければならない。
ここで問題なのは,養育と保護は子どもをストレスから守ることを第一の目的とするはたらきかけであるのに対して,教育は基本的に子どもにストレスを与えることを前提にしている。つまり,保育の要素うち,養育と保護は被教育者をストレスから守るという前提のもとに行われるはたらきかけであるのに対して,教育は被教育者にストレスを与えることを前提にしたはたらきかけなのである。それゆえ,乳幼児期において教育を拒否する子どももいれば,受け入れる子どももいる。ストレスを受け入れることができるのはそのストレスに耐えられるだけのストレス耐性が成立している場合である。この点を無視して,「楽しみながら学ぶ」という間違った考え方を主張する教育学者もいることは否定できない。
ストレスをストレスと感じないのはそのストレスに対応できるだけのストレス耐性が成立しているときのみである。乳幼児期における教育は,子どもの遊び活動を通じて,子ども自身のもつストレス耐性を把握し,そのストレス耐性限度内のストレスを与えつつ,養育と保護を行いながら,遊び活動を進めることによって実現していかなければならない。まさに乳幼児教育指導者の専門性の中心的要素は,このような「子どもを知る」ことを前提にして成立してくる専門性であり,長年の保育実践経験者において成立してくるものである。
しかしながら,ここに一つの問題点がある。長年の保育経験は必要不可欠なのであるが,社会の変化に伴って,子ども自体が変化していくのも事実である。経験は過去の経験であり,現在の子どもにその経験がぴったり当てはまるかどうかの判断が重要なのである。乳幼児に必要な保育実践は経験を作り上げつつ,子どもの変化をも認識できる柔軟性をもたなければならない。これこそが乳幼児教育指導者に求められる専門性なのである。
母親の保育における優位性は動かすことができない。そのような優位性を前提にして保育士の保育が行われなければならない。その根拠について考察する。
(1) 乳児期におけるスキンシップ生理的早産として誕生してくる人間にとって,母親による育児が子宮内での育児との連続性をもつものでなければならない。とりわけ,乳幼児期における母子間のスキンシップは人間関係におけるスキンシップにおいて最も大きな影響力をもつことは否めない。母子間のスキンシップは母性愛をもつ母親の自然な欲求のあらわれであるとともに,子どもの側からはあらゆる生理的欲求(食欲・安全・安定…)のあらわれである。母子双方からの相互欲求であるために,そのようなスキンシップによって母子関係の基本が成立するといっても言い過ぎではない。
母親の保育における優位性はこのような母子関係そのものから起因するものであるが,あらゆることを知的判断しようとする現代社会においては,このような母子関係そのものを母親自身がいかなることについても理性的に判断する傾向があらわれてきている。理性的に自らの母性愛を吟味することによって,母性愛が極めて本能的・非合理的側面をもつことに気づくようになる。母性愛は子どもの成長・発達のために機能する愛であり,それによって母親自身が得るところはない。むしろ母親自身が自らの欲求を無視した形で成立してくる愛であるがゆえに,母親以外の人間が母親と同等の母性愛をもつようになれば,その人間は生きていくことはできなくなる注5)。母親以外の人間がもてるアガペーは,自然の愛であるエロースやフィリアを意識的に自制して教育愛という形でのみ成立するのである。
社会の近代化が進み,個人の権利や欲求を理性的に判断するような時代になれば,母性愛そのものが成立しにくくなってくる。その結果,極端な場合,実の子どもに対する虐待(育児虐待)があらわれてくるのである。現代社会においては,とりわけ,先進諸国において既にこのような傾向が徐々にあらわれつつある。
保育士による保育という考え方自体が理性的に育児を考察することによって成立してくるのであるが,母性愛そのものをもつことにおいて保育士が実の母親に代わることはできない。保育士だけでなく教育にかかわる専門職といわれる職業に従事する者は,母性愛ではなく意図的に教育愛をもとうと努力しているのである。教師の専門性のうち教育愛をもつという専門性はかなり高度の専門性であるということができる。さまざまの教育技術における専門性は努力と訓練によって徐々に成立してくるものであるが,教育愛をもつことができるという専門性は人間の本質にかかわる要素が含まれてくる。このような意味において,教師に向く向かないという人間としての本質が問題にされるのである。
ここで母性愛そのものについて考察する。
(2) 本能的愛としての母性愛母性愛とは本能的愛であり,とりわけ,生理的早産として誕生する人間という種においては極めて大きな意義をもつということができる。誕生と同時に行われる親による育児が種の保存そのものを成立させる基礎条件であり,それを成り立たせる基本こそが母性愛なのである。母性愛は無私の愛(アガペー)であり,無条件に自らの子どもを愛することを成立させる愛である。一般の人間が社会的動物としての基礎条件を成り立たせるための相互愛(フィリア)は,ギブ・アンド・テイクの愛であるのに対して,母性愛は無条件に親子関係において生じる愛である。子どもがいかに反抗的になっても,自分にとって不都合な状態にあっても,子どもに対する母性愛は成立する母親の本能としての愛の側面をもつのである。
このような愛を保育士はもつことができない。保育士は職業であり,そうなりたいと思ってなるものであるがゆえに,そこに生理的な母性愛は成立しない。職業に対するやりがいは達成感から生じてくるものであり,保育活動とその成果との関係によって成立してくる。まさにそれはフィリアによって成立する注6)。
生理的早産として誕生してくる人間においては,カントのいうように,「人間は教育を必要とする唯一の被造物である5)」がゆえに,その教育を成り立たせる基本的条件である教育愛としての機能をもつ母性愛が人間には備わっているのである注7)。人間における母性愛が生理的早産という状態を成長・発達につなげていくことを可能にするだけでなく,人間としての特別な能力の育成にかかわることを可能にするのである。人間の成長・発達には教育が必要であるということを示すカントの言葉は,同時に人間の成長・発達には教育愛が必要であることをも示している。子どもとのコミュニケーションを前提に行われる教育は,乳幼児期においては言語によるコミュニケーションによって成立するのではなく,スキンシップをはじめとする生理的レベルでのコミュニケーションによって成立する。それゆえにこそ,乳幼児教育における母性愛の意義は大きいのである注8)。
乳幼児教育指導者はこのような母性愛とは異なる教育愛をもって母親の育児を補助する保育を行うだけでなく,後の教育につながる意図的な保育を行わなければならない。つまり,現状の乳幼児に必要な保育は,将来における乳幼児の成長・発達につながるものでなければならず,それを見越した保育を行うことが乳幼児教育指導者の専門性の基礎になるのである。
(3) 母親の保育の特殊性母親の育児を成り立たせる保育は,親子関係から子どもに必要と感じられる要素を親は本能的に直感し,対応することによって成立する。母親による保育は計画的に行われるものではなく,子どものその時の状態に応じて反応する形で行われるものである。その結果として,子どもに必要な保育のバランスが成立してくるのである。保育のバランスとは,保育を構成する養育・保護・教育を子どもの必要性に応じて適宜与えることによって育児を行っていくところに成立してくる。母親による保育は子どもの必要性を察知することから始まり,察知することによって実践することは一つながりの実践として定着しているものであり,計画的に進められる教育活動とは本質的に異なる。
一対一の教育的関係であるがゆえに,被教育者である子どもの状態に必要な保育を行うという対応が原則になるのである。母親の保育は基本的に受動的であり,それを成り立たせるのは子どもの状態観察と子どもの変化に対する対応なのである。母親の保育は子どもの状態に応じた保育であり,将来のための保育ではない注9)。それこそが母性愛に導かれた保育なのである。母性愛はアガペーであり,子どもの成長・発達のための愛である。
ただ母親は教育の専門家ではない。それゆえに,その後の成長・発達とのかかわりにおける保育のバランスに関する見識をもたない場合が多い。つまり,母親の保育は乳幼児期そのものにおける必要性を満たすという意味において乳幼児教育指導者の保育に勝るのであるが,その後の成長・発達における必要性につながる保育という点については乳幼児教育指導者の専門的見識の方が勝らなければならないのである。
保育士は乳幼児期の子どもの保育を常に将来の子どもの成長・発達とのかかわりにおいて行わなければならない。そうすることによって,子どもの現状において必要な母親の保育の不足する側面を補うことが必要なのである。
生理的早産として誕生してくる人間という種にとって,母親による育児は保育の基本であり,乳幼児教育指導者はその母親による保育を補うものという理解が普通であった。教育専門家の専門性は,教育権保有者(親や国家)の教育権を代行し,被教育者(子どもや生徒)の学習権を保障するところに成立する。それゆえ,教育専門家は教育権保有者にも学習権保有者にもその専門性に関して信頼と尊敬の念をもって迎えられなければならない。このようなあるべき姿が現状までどのように考えられてきたかについて考察することにする。
(1) 従来の状態先にも明らかにしたように,「三つ子の魂百まで」ということわざが存在していながら,乳幼児教育の重要性は実際の教育現場においてはほとんど顧みられてこなかった。男女共同参画社会推進のための一方策として保育所(零歳児保育園)の充実が第一の目的であった。保育士の役割は母親の保育を補足,ないしは,代替することが主なる目的であるが,そのための専門性は,形の上からも実質的にも保証されるものではなかった。
母親は実の子に対しては母性愛と子宮内での胎教によって既に保育の実践を行ってきたという事実がある。このような意味において,保育における母親の保育士に対する優位性は本質的な要素であるといわざるをえない。さらに,乳幼児期における教育成果は乳幼児期にあらわれてくるのではなく,子どもの後の成長・発達段階においてあらわれてくるという事実が,乳幼児教育そのものを軽視する一般的傾向を生み出してきたのである。
その結果,保育士をはじめとする乳幼児教育者の専門性は特に大きく取り上げられてこなかった。つまり,乳幼児教育者における専門性が問題にされること自体少なく,本来乳幼児教育指導者であるべき乳幼児教育者という捉え方自体が世間一般で行われてこなかったのである。しかしながら,少子化傾向の改善見込みが立たない現状から,乳幼児期の教育そのものの充実を求めることが,乳幼児教育指導者としての専門性の確立,及び待遇改善と並行してあらわれてきている。乳幼児期の教育の重要性は教育学的には認められてきているにもかかわらず,現実に行われている教育実践的意味において乳幼児期の教育そのものは吟味・検討されてこなかったのである。実の母親によって行われる保育に少しでも近づけることができる乳幼児教育者の資質能力が問題にされ続けてきたのである。実の母親を超えた保育は基本的に考えられてこなかった。それは保育の中心とされるものが,養育と保護であり,教育については,その後の段階の教育に任せるという考え方がとられてきたからである。しかしながら,後の教育が成果を上げることができるのは,この時期における保育が適切な形で実現することによってはじめて可能になることなのである。このような点について従来ほとんど問題にされてこなかったのが現実である。
(2) 今後求められる状態乳幼児教育の重要性は,子どもの成長・発達の基礎の部分が乳幼児期に成立することによってあらわれてくる。それこそが無意識的自己形成なのである。先にも明らかにしたように,乳幼児期において人間は自我が生成し(無意識的自己形成),さらに,意識的自己形成が成立し始める。つまり,乳幼児期は人間としての成長・発達の構造が成立してくる時期であり,それは後の成長・発達と一貫性をもったものでなければならない。それこそ人間形成的視点から見た人間の乳幼児期なのである。
乳幼児期の子どもの成長・発達がその後の成長・発達とつながっていくのは,子どもの自己形成の構造によってのみ捉えることができる。乳幼児期の無意識的自己形成と意識的自己形成の状態の把握,さらにその自己形成自体の変化の状態を明確にすることこそが,その後の子どもの成長・発達に対する教育のあり方を決定するのである。このような乳幼児期の捉え方をする乳幼児教育指導者こそが,乳幼児教育専門家でなければならない。
乳幼児教育指導者は乳幼児期を乳幼児期だけで捉えるのではなく,人間の成長・発達全体のなかの最初期という重要な意義をもつ時期における教育(保育)のあり方を研究していかなければならないのである。つまり,乳幼児教育指導者は乳幼児期における保育が後(少年期以降)の教育の基礎になるという明確な認識をもって,保育実践に携わらなければならない。乳幼児期の教育研究は現状のように保育実践に追われている状態では不可能な研究である。それは,従来その研究の必要性が求められてこなかったために,ほとんど手づかずの状態であるからである。
乳幼児教育指導者は,指導者であると同時に研究者でなければならない。教育指導者のうち最も実践研究の必要性が大きいのが乳幼児教育指導者であるにもかかわらず,多忙さゆえに最も研究をしていないのも乳幼児教育者なのである。それは乳幼児期の保育は実の母親の保育が一番という暗黙の了解が存在しているからである。しかも,この了解こそが乳幼児期の教育の軽視に起因していることを,我々は明確に認識しなければならない。
(3) 母親の優位性を成り立たせる要素母親の乳幼児教育者に対する優位性は母性愛と子宮内での胎教の二つである。それぞれについて考察する。
1) 母性愛先にも考察したように,母性愛とは誕生と同時に育児をしたいという欲求を成立させる本能的愛である。とりわけ,生理的早産として誕生してくる人間において母性愛は,母親の育児を成立させる重要な要素であるということができる。生まれたばかりの赤ん坊を「かわいい,愛おしい」と感じさせる本能的愛である母性愛があるがゆえに,育児が成立するのである。また本能的愛であるがゆえに,母性愛は一般の人間が本来もちえないアガペーを基礎にすることができるのである。母親は子どもを産み,育てるという基本的活動を行うことができるのが,母性愛によっているということができる。人間における母性愛は明確な自己意識をもつがゆえに,より顕著にあらわれてくるのである。その顕著さのゆえに,「よりよい育児」を目指す場合もあれば,育児に悩む場合も,育児を放棄する場合すら生じてくるのである。それゆえにこそ,合理的に物事を考える傾向のある現代社会においては,母性愛が成立しにくい状況があることは否めない注10)。人間における母性愛は,完全な本能的愛ではなく,そこに理性的要素が絡んでいる。ちなみに先進諸国における少子化傾向は,母性愛を理性的に制御する結果生じてくる一般的傾向である。
ここにおいて,客観的立場からの教育愛に基づいた保育の必要性があらわれてくるのである。母親の母性愛を尊重しつつも,客観的にそれを導ける乳幼児教育指導者の専門性から生じる教育愛が必要になってくるのである。母親の母性愛が乳幼児期の子どもの自己形成に与える影響を考慮し,子どもの正常な自己形成を進めていける状態を作り,維持することにより,子どもの自己形成と同時に母親の母性愛をも導ける(子どもに対するのと同様に母親に対する)教育愛を教育専門家である乳幼児教育指導者はもたなければならないのである。これこそ,母親の優位性を前提にした乳幼児教育指導者の専門性の構造なのである。
2) 子宮内での胎教受精卵として子宮内で10か月余り成長・発達を遂げてきた新生児にとって母親は絶対的存在である。それは子宮内において成立する成長・発達(無意識的自己形成)は母胎内での影響を通じて実現してくるものであるがゆえに,まさに胎教の成果なのである。それゆえ,出生後の成長・発達も,その成果の延長としてあらわれてくるといわざるをえないのである。胎教の延長上に行われる育児は,スキンシップを基礎にしつつ成立する。しかしながら,胎教の行われ方自体は母親が意識するものではなく,生理的レベルでの影響の授受であり,胎児自身も生理的発達を遂げて新生児になるに過ぎない。しかも,胎児から新生児への成長・発達自体は無意識的自己形成の過程ということができる。このような無意識的自己形成の状態を客観的に把握し,母親と新生児にはたらきかけることこそ,乳幼児教育指導者の使命なのである。胎教は誕生後の育児に連続することによって,その成果が新生児の発育としてあらわれてくる。乳幼児教育指導者はこのような胎児から新生児への成長・発達の過程を,その後の成長・発達へと続けるための保育を行わなければならないのである。
保育は誕生後の子どもの成長・発達を進めるものであるというよりも,子宮内での胎児としての成長・発達の延長上の新生児としての成長・発達を実現していかなければならない。それは,さらに,少年期以降の教育へとつなげることによって人間形成の過程を実現していかなければならないのである。
それゆえにこそ,乳幼児教育指導者は母親の優位性を前提にした保育実践を行わなければならないのである。
以上のように,乳幼児教育指導者の行うべき保育は,母親の保育を前提にし,そのうえで子どもの現状を十分に分析・把握することから実践されなければならない。子どもに合った保育とは,子どもの成長・発達に応じた保育であり,それは個々の子どもの自己形成の状態に応じて異なるものでなければならない。
乳幼児教育指導者は自らが指導する子どものそれまでの自己形成の状態を把握するために,母親から十分な育児状況の説明を受け,母親自身の置かれている状態や母親自身の性格等についてもできる限り情報を集め,総合的に子どもの自己形成の状態を知る努力が必要である。一人一人の子どもは固有の自己形成を行って成長・発達を遂げてきているという事実を重く受け止め,それに合った保育のあり方を探究することが専門職としての乳幼児教育指導者の立場でなければならない。さらに,母親からの情報をフルに活用した乳幼児教育実践を通じて,個々の子どもの自己形成に直接かかわることが,乳幼児教育指導者の経験として蓄積されていかなければならない。
それゆえにこそ,個々の子どもの自己形成へのかかわり方は乳幼児保育実践体験を通じて多様な類型化が可能になってくる。このような類型化と個々の子どもの実際の自己形成の状態把握がなされていかなければならない。ここに乳幼児教育指導者としての専門性が成立してくるのである。
個々の子どもの成長・発達にとっては,母親による保育の優位性は基本的に否定できない。しかしながら,母親の保育を超えた優位性としてあらわれてくる乳幼児教育指導者の専門性は,複数の子どもの育児にかかわることによって成立する育児の類型化である。いかなる子どもであっても,その保育実践における成果を上げることができるとともに,母親の育児だけではなしえなかった要素である社会性の育成に乳幼児教育指導者はかかわることができることこそが,乳幼児教育指導者の保育の優位性なのである。
子どもにおける社会性の発達は集団遊びによる部分が極めて大きな意義をもつ。集団遊びにおける保育の意義は,その後の人間としての成長・発達に大きくかかわる点にある。遊びという子どもの自己活動はその後の人間としての成長・発達に大きく影響する。それは精神的発達だけでなく身体的発達にも影響する耐性の育成につながる。
以上のように,乳幼児教育指導者の専門性の基礎は,指導する子どもの成長・発達を客観的に把握すると同時に,それまでの保育実践から得た経験を基にして,子どもに最適の保育を進めていくところに成立してくるのである。さらに,子どもの社会性の発達を導く集団遊びによる指導は母親にはできない要素を多く含むということができる。
乳幼児教育指導者の保育は母親の保育を前提にするという基本原則を認めたうえで,子どもの後の成長・発達につながる重要な乳幼児教育指導者としての専門性が,母親による保育を子どもの後の成長・発達に有効に機能するものとして成立させるものでなければならないのである。