印度學佛教學研究
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『マヌ法典』註釈における知行併合論
吉水 清孝
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2013 年 61 巻 3 号 p. 1085-1092

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抄録

知行併合(jnanakarmasamuccaya)論とは,輪廻を脱して解脱するためには,梵我一如の知のみならず,ヴェーダが定める祭式をはじめとする行が必要であるとするヴェーダーンタの立場であるが,『マヌ法典』の註釈家のうち,8世紀頃のBharuciと,9世紀のMedhatithiも,林住期と遊行期の生活規範を定めた第6章の註釈の中で,知行併合を唱えている.Medhatithiは,祭式が特定の果報をもたらすのとは別に,解脱の達成にも資することを立証しようとして,Satapathabrahmana 10.2.6.13を引用し,また「結合の別異性」(samyogaprthaktva)という解釈定理がこれには適用可能であり,祭主が自他の区別にこだわっているか自他を平等に見ることができるかに応じて,同じ祭式が有限な果報をもたらしもするし,ブラフマンとの合一に導くとも言えるとした.しかしMedhatithiによれば,祭式が解脱の達成に資する真の理由は,それがヴェーダ学習と子供の養育とともに,Taittiriyasamhita 6.3.10.5に説かれた「生得的負債」(rna)の返済手段となるからである.ヴェーダ学習により共同体の過去を継承し,祭式により共同体の現在の絆を強め,子供の養育により共同体の未来を確保することが人の果たすべき義務である.Medhatithiは,主人の横暴さに嫌気がさして奉公を辞めたがっている召使の姿を思い描いて人生を瞑想するよう勧める.ただし召使はけなげにも先に主人から得ていた幾ばくかのお金の分を働いて返そうと決意すると言い,家長としての義務遂行の必要性を強調している.さらにMedhatithiは,「瞑想に熟達した遊行者は,自分の善業を好ましい者たちに,悪業を好ましくない者たちに転移する」と述べる第79詩節を,「好ましい経験を得たことを自分の善業のせいに,好ましからざる経験を被ったことを自分の悪業のせいに帰すべきこと」を述べると読み替えて,修行の一環としての忍耐の重要さを説くものとした.しかしこのような解釈は,A. Wezlerが論じているように,後代の『マヌ法典』註釈家Kullukaによって,規範を恣意的に解釈していると批判された.Medhatithiによるこの解釈は彼の独創ではなく,Bharuciを継承している.また知行併合論者を自任するヴェーダーンタ学派のBhaskaraは第79詩節本来の趣旨を擁護して,RgvedaとMahabharataから,行為の結果を他人が被ることを認める詩節を引用する.知行併合論は世俗社会での義務を重視する思想家に広く受け入れられていたが,因果応報を厳密に自業自得で捉えるかどうかは見解が分かれていた.

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© 2013 日本印度学仏教学会
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