印度學佛教學研究
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梵文『法華経』にみえるasthāt/asthāsītの異読について
笠松 直
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2017 年 65 巻 3 号 p. 1156-1163

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抄録

Veda語ではRV以来,動詞sthāのアオリストは語根アオリストで作る(asthāt).パーリ語の偈文部分にも,歴史的な語根アオリストaṭṭhāが散見される(Sn 429; Jātaka I 188,12等).他方,パーリ語散文では一般にs- アオリスト形aṭṭhāsiを示し,その用例数は圧倒的である.

プラークリットでは一般に,過去形としてアオリスト形を用いる.sthāの場合,s-アオリスト形が担ったものであろう.Mahāvastuは偈文でも散文でもs- アオリスト形asthāsiを示す.『法華経』偈文にもこの語形が散見される.

散文部分で,『法華経』Kern-Nanjio 校訂本(KN)ないしWogihara-Tsuchida校訂本(WT)が一貫して “歴史的な” 語根アオリスト形を示す一方,中央アジア伝本がs-アオリスト形asthāsītを示すことは示唆的である.この一貫性が崩れるのは,Kashgar写本253b5 asthāt(= KN 263,15; WT 226,13)のみである.この箇所は提婆達多品に属する.この事象は,提婆達多品が他の箇所と言語層を異にし,新層に属することを傍証するものと考えることができる

恐らく原『法華経』はsthās- アオリストを用いる言語環境にあり,偈文においては韻律の制約もあって,各伝本共通に古風な語形を残したものであろう.中央アジア伝本が散文においてもs- アオリスト語形を維持した一方,ネパール系伝本はパーニニ(II 4,77)が教える古典サンスクリット的なアオリスト=語根アオリストで置き換えたものと解釈できる.

仏教梵語文献におけるアオリストについては,従来,語根アオリストとs- アオリストとの差異について注目されることは少なかったように思われる.この様な調査を個々の語に即して行えば,『法華経』成立史に係る知見を新たにする事例が見出される可能性があろう.

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© 2017 日本印度学仏教学会
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