2017 年 65 巻 3 号 p. 1256-1262
niścayaの語は通例「確定」「決定」等と訳され,分別との密接な関わりを有する.したがって,無分別なるものとして知覚を定義付けている以上,ダルマキールティにとって知覚がniścayaの機能をもつとは考えにくい.しかしながら,彼の著作Pramāṇavārttika(PV)の第3章において,知覚の作用を意味すると思しき(vi)niścayaの用例が見られ,それはディグナーガのPramāṇasamucaya(PS)1.9bに由来するものである.本研究では,PS 1.9bに対するダルマキールティの解釈について,PVと後の著作Pramāṇaviniścaya(PVin)とを比較しながら検討した.
その結果,少なくともPV 3.339においては,自己認識と同じものを指すことから,対象の確定(arthaviniścaya)が知覚の作用と見なされていることが確認され,PV 3.341および345で用いられる (vi)niścayaについても同様の可能性が考えられる.しかし,PVinにおいては,これらの用例は全てpratipatti,pratīti,vyavasthitiといった,知覚の認識作用を指すものとしてより穏当な語に置き換えられている.さらに,PV 3.347では,明らかに知覚の後に生じる確定知の作用を指すものとしてniścayaの語が用いられているが,PVinにおいて該当部分は省略されている.以上のことから,ダルマキールティはPVinにおいて,問題となるniścayaの用例を取り除き,確定知が関わらない形で議論を整理したと言うことができよう.
その一方で,PV 3.349に該当するPVinにおいて新たに加えられたkāryatas(結果から)という文言は,このような筆者の予想を妨げる可能性がある.確かに,これまで広く参照されてきたダルモーッタラやデーヴェーンドラブッディの解釈によれば,この句は,知覚とその結果である確定知との因果関係に基づいて理解されることになる.しかし,ジュニャーナシュリーバドラが示すように外的対象と知覚との因果関係によって解釈すれば,確定知との関わりは排除される.