2023 年 71 巻 3 号 p. 943-947
家産分割,相続の主体となる様々な「息子」は12世紀頃以降においていかにカテゴライズされ,相対的に位置づけられたか.本報告は,Vijñāneśvara著Mitākṣarā(ca. 1056-1126),Haradattamiśra著Ujjvalā(ca. 1100-1300)という2作品のdharmanibandhaが伝える息子論(eg., putraprakaraṇa)から,このような議論が精緻化してゆく様相の一端を跡付ける.
putraprakaraṇaは,主要な息子とされる嫡出子(aurasa)と,養子(dattaka)や再婚女性の息子(paunarbhava)などとの相続上の関係性について情報を伝える.中世サンスクリット法律学における法益論や近現代南アジアにおける寡婦再婚問題などにも関連する重要主題の一つである.
主たる初期文献群(dharmasūtra, dharmaśāstra)は,微妙な相違はあるものの,一般に息子として12-13種類を数える.しかし,その数はMitākṣarāでは14種類,さらにUjjvalāでは15種類に至る.既往研究では,このような息子に関する議論について,諸資料に見られる相違点は「なにか」という点での貢献が行われてきた.本稿は,それらの相違点が「どのように」生じるのかに焦点を当てる.
具体的には,Mitākṣarā,Ujjvalāに見られる発達した議論の間にある唯一の相違点である “yatra kvacanotpādita”と呼ばれる息子種について,これがなぜ前者では言及されず,後者では第15位の息子として掲げられるようになったのかについて,その学的背景を探る.そして,これら両資料が想定していたであろう「結婚の正当性」との関係から,この差異を説明可能であることなどを指摘する.
南アジア広域で指導的地歩を築いたMitākṣarāと,最多の息子種を数えるらしいUjjvalāとの差異化の一端が示されることで,それ以降に著されたdharmanibandhaなどとの比較を行う上での基盤が得られたと期待する.