初期仏典に伝えられる外道思想は, 六十二見と六師外道の教説とに大別できる. そして前者の六十二見関連の経典の一つとして, MN第102経の「五三経」が挙げられる. この経に伝えられる未来に関する見解を検討することで, 六十二見に関して新たな情報を指摘することが, 本稿の目的である. まず, 経の特色を一点述べておく. それは経の冒頭部に見られる, 未来の見解五種を三種に分ける分類法である. この分類に従えば, 死後有想論・無想論・非有想非無想論の三種が, 死後存在を説く論 (注釈によれば永続論) として一纏めになるので, 未来に関する見解は永続・断滅・現世涅槃に分けられることになる. 次に, 如来による各論論難の箇所からは次の様な点が判明する. まず, 本経では, 各論の内容の矛盾を, 他経の記述を引用したり前提とすることで指摘する. この手法には, 如来の超越性を他経の記述によってより確固たるものにするという意図が窺える. ただしその様な所謂「経典武装」は, あくまで矛盾の指摘に留まるものであり, 相手の主張の本質であるアートマン云々には言及しないものである. また, 相手の矛盾の指摘に自前の経典を用いるという手段は, ある意味肩透かしを受けた様な観がある. 以上の点から, 如来は相手と対等の立場で論じておらず, あくまで自らの土俵で自己の超越性を示していることが分かる. さらに説示の過程からは,仏教の所謂「常断中道」の立場を確認することができる. ただし本経の伝える内容は単なる常断中道に留まらない. というのも, 常断に属さない現世涅槃の主張もが俎上に上げられるからである. 経が一貫して超越を説くことを考慮に入れれば, 外道説に対する仏教の立場とは, 単に永続や断滅といった両極端に属さないのみならず, 両端以外のものにも属さない, 別次元のものであったと考える.