2014 年 7 巻 p. 21-39
私は、現在公開され視聴可能な被爆ドキュメンタリーの多くを書き起こしてきた。もちろん毎年新たな作品が制作されており、すべてを検討できたわけではない。ただ詳細な書き起こし作業を通して、一定の「標準的な問題の伝え方」について検討することができると考えている。まだ映像の解読作業は続ける予定だが、本稿では、これまでの作業から見えてきたことについて論じておきたい。それは、ドキュメンタリーに働く力のようなものだ。言いかえれば、映像をこのように見るべきだと視聴する側を方向づける力とでも言えるだろう。その力は、具体的には「被爆者」や「被爆」をめぐる現実に作用するのである。被爆をめぐる現実に対して、常に象徴化し定型化された意味を与えることで安定した被爆問題への常識的な了解図式を確認しようとする 力と、それぞれの人間が体験した被爆をめぐる固有の意味へ常に迫ろうとする力──それはまた被爆問題への常識的な了解図式を相対化し、つくりかえようとする力でもあるのだが──、いわば、定型化する力と個別化する力という、相反する二つの力のせめぎあいのなかで、多くの被爆ドキュメンタリーが制作されてきたと言える。本稿では、そのせめぎあいをいくつかの作品を説き起こすことから例証し、そのうえで、被爆ドキュメンタリーの映像や言説を私たちがどのように了解し、反芻し、自らの“生きられた知”として吸収していけばいいのかを考えてみたい。