2020 年 40 巻 1-2 号 p. 5-35
咬合の学説史は,咬合器の歴史をもって跡づけることができる.とくに下顎運動とりわけ関節顆頭の運動の学問的探求は,咬合の学説史の中核をなす.そこで,顆頭運動の研究と咬合器の顆路機構の変遷について検証する.この総説では,いったん後世の解釈を排し,原典にあたってその時代の視点から考察する.従来の学説史がどれほど原典から乖離していたかを明らかにする.まず,Bonwill が,客観的な観察データをもとに咬合の原理体系を追求し,ヒト顎関節と同様に左右二つの関節を持つ解剖学的咬合器(1864)を残した.Walker は咬合の原理性・法則性よりも,実測を優先させて,ヒト咬合の左右差や個体差を再現すべく,顆路傾斜が調節でき,作業側顆頭の前後運動も再現する生理学的咬合器を開発した(1897).Walker は研究の途上で,Luce の顆頭運動の精緻な実測(1889)研究を知ったが,それを超えて顆頭の運動形態と咬合面形態との関連性を明らかにした.Walker は顆頭間軸上に支点(wippunkt)を置くことによって作業側顆頭の前後調節ができるメカニズムを考案したが,これは今日,等閑視されている(このメカニズムは今日の顆頭間距離の調節にあたる).Gysi はWalker 咬合器を継承かつ改良して Wippunkt 咬合器(1908)を発表した.Wippunkt 咬合器は顆路傾斜度と作業側顆頭の前後調節が可能な咬合器で あったが,同年に発表されたベネット運動の論文により,これが再現できない問題を突き付けられた.苦節4 年,顆頭運動の計測の結果,Gysi はベネット運動が再現できるAdaptable 咬合器を開発し(1912),さらにその顆路調節機構を平均値に固定したGysi Symplex(1914)を世に送り出した. さて,Bennett は顆頭運動について「歯を接触させながら側方運動させた場合と,歯を接触させないで側方運動させた場合とでは顆頭の運動軌跡は異なり.しかも,歯を接触させながら側方運動させた場合は作業側顆頭は外側のみならず下方にも運動する」という事実を見出したが,これは補綴学会において無視され,今日なお単なる運動方向へのシフトという解釈が定着している.また,Gysi Adaptable 咬合器はアメリカでは評価が低く,殆どの文献がAdaptable 咬合器を誤ってWippunkt 咬合器と呼称し,日本でもその影響からWippunkt 咬合器の呼称で定着している.Gysi はその後,コンダイラー型でベネット機構を独立させ,作業側顆頭の前後規定は切歯ガイドに規定させるTRUBYTE 咬合器(1926)を開発した.TRUBYTE 咬合器はHanau university 咬合器やStuart 咬合器に影響を与えた.【顎咬合誌 40(1・2 ):5-35, 2020】