福岡県八女地方は, 茶の産地として知られているが, 全国の茶総生産量に占める近年のそのシェアは僅少である. しかし, その東部の山間地では高級茶玉露の産地が形成されている. 八女茶の歴史は, 必ずしも浅いものではなく, 近世の当地方は既に茶の一産地となっていた. ところが, 当地方の茶生産の中心が粗製茶(釜炒り茶)であったために, 緑茶が茶の生産・消費の中心になっていく幕末から近代, とくに明治期の段階で, 八女地方は静岡・鹿児島などの産地に大きく水をあけられる形となってしまった. 一方で, 明治後期から大正期にかけて粗製茶から高級茶への製法転換が一部の製茶家によって達成され, 八女地方東部に玉露産地が形成されていった. 本稿では, こういった八女地方における茶業の近代化プロセスを構造的かつ活き活きと把捉するため, このプロセスにおいてキーとなった人々(エージェント)に注目した. 資料・史料としてまず, 明治期の『郡村是』をはじめ, 『府県統計書』, 『農事調査』, その他の産業史料などをもとに, 明治期の八女茶業の展開を追跡調査した. さらに, 現地での複数の古老への聴き取り調査を行なった上で, 環境・資源(山茶), 組織(茶業組合), 人間(製茶家・官僚)などの相互関連にも目を向けて, 当地の茶業の展開を考察した. こうして, 近代の八女茶の生産状況のみを追跡するのではなく, 明治政府の産業近代化イデオロギーの伝播とエージェントたち(官僚・製茶家等)の働きをnational, regional, localなレヴェルで把握した. そのために, 社会学者Giddensの「構造化理論」に依拠したGregoryの新しい歴史地理学の方法を参考にした. 結果的に見て, 八女地方の茶業の近代化は, 自然環境の制約と明治政府の産業近代化イデオロギーの浸透のもとで, エージェントの作用を受けつつ展開していった.