ブータンは,19の言語を擁する多言語社会である.急速に進む近代化のなか,首都ティンプーには全国の民族地区から大量の国内移民が流入し,その割合は85%に達しようとしている.本研究が対象とするティンプーの下町市場,ホンコン・マーケットでは,ホストコミュニティの言語であるゾンカ語ではなく,民族語が高い割合で使用されている.本研究では,ホンコン・マーケットにおける民族語の使用とティンプー市内のそのほかの市場における特徴的な言語使用を,市場の地域性と商人と客の関係性,およびティンプーにおける民族移民の言語社会化とそれに伴う移動から明らかにした.その結果,第1に,ティンプーでは,ホスト側の商人が客に歩み寄り,客の民族語を習得している実態が明らかになった.ただしそれは,厳密には民族移民の多くにとっても第一言語ではない,広域民族語(リンガフランカ)であった.市場には市場の論理があり,ホスト社会と移民の歩み寄りが商人と客のどちらの言語でもない第3の媒介言語を生み出したのである.第2に,ホンコン・マーケットも含め,ティンプーの異なる市場における特徴的な言語状況は,そこに集まる移民の言語社会化段階を反映したものであることが明らかになった.自身が社会化過程のその段階にあるという自己認識,およびその市場と,その市場が位置する地域に対する商人と客の認識が言語使用として具現化したのである.