日本看護科学会誌
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原著
1923年関東大震災の看護:災害サイクルから見た東京市における人々の健康問題と看護婦の活動
川原 由佳里
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2023 年 43 巻 p. 727-737

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Abstract

目的:1923年の関東大震災における看護を,災害サイクルから見た東京市における人々の健康問題と看護婦の活動に焦点をあてて記述,分析することである.

方法:歴史研究.関東大震災での東京市の人々の健康問題と看護婦の活動に関する史料を災害サイクルに沿って分析した.

結果:現地の看護婦は病者や要支援者を護り,避難した.外部からの救援も行われた.救護所では初期においては回復に適した療養環境,必要物品,看護がなく,患者の多くが治療を継続せずその場を立ち去った.臨時病院の開設は遅れ,失われた医療施設を補うまで時間がかかった.急性伝染病への対策は概ね成功したが,慢性病や障がい者の看護,貧困者への医療には課題が残った.

考察:治療が行われても療養環境が不適切で看護が行き届かず,回復が望めない場合もあった.この震災での看護には看護婦のマンパワー,教育訓練,組織基盤,諸機関との連携などが影響したことが示唆された.

Translated Abstract

Objective: The purpose of this study is to describe and analyze nursing care in the Great Kanto earthquake of 1923, focusing on health problems and nursing activities in the Tokyo city from the perspective of the disaster cycle.

Methods: Historical research design. Materials on health problems and nursing activities in the Tokyo city during the Great Kanto earthquake were analyzed based on the disaster cycle.

Result: Nurses evacuated disaster area while protecting the sick and those in need of assistance. External relief was also provided. In the early stages of acute treatment at the relief station, many patients were difficult to recover due to a lack of appropriate environment, supplies, and nursing care that they were so upset to leave the station. Temporary hospitals were slow to open to make up for lost medical facilities. Control of acute infectious diseases were generally successful, but challenges remained in caring for the chronically ill and disabled and in providing medical care for the poor.

Discussion: In some cases, even when treatment was available, recovery was not possible due to inadequate nursing care or the environment. It was suggested that the manpower, training, and organizations of nurses and cooperation with various organizations affected nursing care in this disaster.

Ⅰ. 研究の背景と目的

1923(大正12)年9月1日11時58分に発生した関東大震災は,首都圏に死者10万人,住居焼失者200万人を超える日本の地震災害史上最大の被害をもたらした.発生した火災は3日午前10時まで燃え続け,人々の生活基盤を破壊し,治安を悪化させ,社会不安を招いた.震災による人的被害は東京市で最も大きく,死者は6万8千人,負傷者数は約4万人であり,うち約8割が本所区深川区で生じた.医療施設の被害も甚大で,市内の施設206のうち132が被災し,病床数は震災前の8,214が2,802へと3分の1になった(中央防災会議,2009).

関東大震災に関する従来の研究の焦点は,医療に関しては発災直後から急性期までにあり,それ以後の人々の健康問題や医療について探求したものは見当たらない(鈴木,2004北原,2011).また看護に関しては,派出看護婦会が東京府・市,警視庁などに協力して活躍したこと,済生会が巡回看護を行ったことが断片的にとりあげられているが,それらの活動を当時の時代背景や社会状況,震災という非日常の状況のもと,理解を深めようとしたものはなかった(日本看護歴史学会編,2014).

今日では災害を時間軸でとらえ,各期における被災者のニーズの変化に対応し,健康や暮らしの視点から看護を展開することが求められている(竹下編,2022,pp. 46~48).この震災での人々の健康問題と看護婦の活動はどのようなものだったのか.この震災から一世紀を経た現在,地震被害や医療者の対応はかつてとは異なると考えられるが,過去の震災での経験を知ることは,災害が人々の健康や医療,看護に及ぼす影響についての理解を深めるものとなると考える.以上から,本研究では1923年の関東大震災における看護を,災害サイクルの観点から東京市における人々の健康問題と看護婦の活動に焦点をあてて記述,分析することを目的とした.特に東京市に焦点をあてたのは,人的被害が最も大きかった地域であり,その実態を明らかにすることは,都市部において大規模災害が発生した場合の人々への健康問題と看護師の活動を考えるうえで重要と考えたからである.

Ⅱ. 方法

歴史研究.国立公文書館,国立国会図書館,東京都立公文書館,公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所,明治村博物館他の所蔵史料及びアーカイブを用いた.上記の史料から,主に東京市における人々の健康問題と看護活動に関する内容を抽出し,当時の社会状況や医療・看護事情,この災害での各機関による活動状況等の文脈のもと解釈した.結果は災害サイクルの各期に沿って示した.災害サイクルは超急性期が発災から3日程度まで,急性期が3日から7日程度,亜急性期が7日から1か月程度,慢性期が1か月から3年程度とされ(竹下編,2022),本研究では活動が2つ以上の期にまたがる場合には,その活動が中心的に行われた時期に分類した.

研究結果の信頼性,妥当性を示すため出典を明示した.図書以外の史料もしくは所蔵館の指定で執筆要項に基づき表記できないものは(史料①~⑩)で示した.史料は所蔵館の規程に従い利用し,個人名は官公庁職員および医学史・看護史上,知られている人物以外は伏せた.また当時の名称である看護婦,産婆を用いた.なお大正12年当時,看護婦は病院よりも派出看護婦会に所属していた者のほうが多く,全体の約6割を占めたこと,看護婦免状だけでなく,産婆免状を併せもつ者も多かったことを付記しておく.

Ⅲ. 結果

以下,災害サイクルに沿って東京市における人々の健康問題と看護婦の活動を記述する.表1にこの震災での医療・看護に関する主要な出来事を時系列で示した.

表1 

関東大震災での医療・看護に関する主要な出来事:1923年9月1日~1924年3月31日

月日 主な出来事
9月1日 発災 日赤・済生会・警視庁・軍関係施設での救護開始
9月2日 戒厳令 日赤支部・陸軍各師団から救護班派遣される.警視庁に慶應,伝染病研究所,東京帝国大学医学部から救援あり
9月3日 勅令397号 内閣総理大臣により臨時震災救護事務局衛生医療部設置.群馬県救護班来着
9月4日 近衛師団第三救護班,本所区被服廠跡で本格的な患者収容開始
9月10日 衛生医療部 地方の救護班のうち未発のものは出発を見合すよう打電
9月12日 警察庁 診療班100班配置の計画(1班医師2名書記・看護婦若干名),25日までに配置完了
9月13日 宮内省 巡回診療班数個班(1班医師3名産婆看護婦5名)
9月24日 衛生医療部 外来診療所設置に関する協議会(警視庁・東京府市・済生会等の関係者)
9月29日 済生会 病院8か所,診療所25か所建設予定(1診療所につき医員1名産婆1名看護婦・調剤員事務員等7名).診療所では巡回診療も行う
9月30日 陸軍 各師団救護班は30日までに帰還.東京56,神奈川24,千葉12,合計92か所
10月6日 郡部で伝染病患者が多数発生,市部病院と東大付属医院に収容
10月16日 衛生医療部 今後の医療機関の充実に関する協議.東京市3,150床,警視庁1,260床,協調会1,200床,済生会1,680床,赤十字社1,450床,南満州鉄道会社300床を設置経営する.開所済みは4か所2,200床
10月25日 衛生医療部 外来診療所を市内各所に66個計画.市30,済生会12,日赤14,三菱5,宮内省5.バラックの衛生改善委員4名を指名
11月17日 東京府 精神病者増加.松澤病院近辺300名,日本精神病救治会150名収容の病院設置の計画
11月17日 日赤 救護所14か所の経営を東京市に委託.市は東京府医師会に委託
11月20日 衛生医療部 診療の有料化に向けた協議.罹災開業医も漸次旧地に復帰診療に従事しつつあり
11月22日 東京市 施療病院(築地海軍軍医学校跡地)の借病舎建設予定
11月24日 警視庁 伝染病患者多数発生する見込みで臨時病院を建設したが11月18日収容力3,821床に対し,退院死亡は46,患者数は1,621にして2,200床の余裕あり
11月25日 内・警・日赤・済生会・府市の代表者会合.180の救護班は撤廃,外来診療所68か所設立を協議.市30,済生会13,日赤14,その他11(三菱5,宮内省5,愛国婦人会1)
12月10日 東京市 市経営の外来診療所44か所開所.3月末には閉鎖か委譲
1月15日 東京市 巡回種痘40斑編成(一斑医師1名看護婦2名書記1名の4名)で70万人に実施
1月15日 東京市 市内14か所の外来診療所は市当局を経て東京府医師会に委譲
1月22日 内務省 3月1日以降残置すべき総病床数は4,410床(普通3,310産院850乳児院250),4月以降2,674床(普通2,060産院434乳児院180),8月以降1,189床(普通950産院209乳児院30)
2月中 聖路加国際病院 天幕病院で診療中.焼け跡2,500坪に米国式木造仮病院建設2月中旬完成予定
2月5日 済生会 巡回看護婦班組織 細民の救済をなす
2月7日 済生会 臨時下谷病院を東京府医師会に引継ぐ.6か月間は実費診療と共同病院として運営
2月10日 協調会日赤共同設立の洲崎臨時伝染病院閉鎖
2月15日 東京市 臨時震災救護事務局30か所,日赤委託14か所の外来診療所は,16日より一斉に東京府医師会外来診療所として継続経営.資力のあるものは有料,施療券の交付(一人一日一科につき20銭の補助あり)により患者無料とする方針(市長が20銭を支払う)
2月16日 府医師会 芝病院を引継ぐ
2月28日 警視庁 小松川臨時病院閉鎖 伝染病220名収容
2月28日 東京市 復興事業として実費診療所10か所,施療病院1か所を新設する計画
3月26日 日赤 31日までに京橋・深川・浅草・本社産院大久保分院・本郷産院・乳児院・児童収容所・水道橋産院を閉鎖か委譲.本社病院の病床数328は620に増床しばらく現状維持

1. 超急性期(発災から3日程度まで)

1) 発災直後の避難行動

地震発生時,看護婦や産婆は,病者や要支援者を守り,活動した(表2参照).病家や産家にいた者は,家屋倒壊の危険から病人や妊産婦等を守り,火災が迫ると歩けない者や地震の前に死亡した者の遺体を担架や戸板で運び,背負って避難を開始した.病院は患者を建物の外に避難させた後,歩いて帰れる患者や職員を帰宅させ,再び残った患者を病院に戻し,押し寄せる大勢の患者の診療を続けた.火災が迫ると,同じく患者等を搬送し,陸上や川,岸づたいに避難をした.いずれも一度,避難した場所に延焼の危険が迫るなどして,別の場所に移動しながらの避難であった.

表2 

超急性期:現地の医療施設の被災状況と避難行動

■本郷区(現在の文京区の東部)
順天堂医院 1日14時院長指示で患者約300名,医員看護婦等含め約600名,担架70余で避難.避難したお茶の水女子高等師範学校も火災迫り,熱風と火の粉が吹き付ける中,患者をかばって上野へ.白衣姿で担送する看護婦を見て,人が道を開けてくれた.17時上野精養件到着.2日目全員院長(佐藤進)宅に,5日までに患者を赤坂分院に収容.
■神田区(現在の千代田区の一部)
瀬川小児病院 神田駿河台.病床数22.外来患者と自宅の近い看護婦は自由行動の指示.患児は背負うか担送で避難.お茶の水女子高等師範学校を経て15~16時上野精養軒に到着.翌2日10時上野に火災迫り,重症者を大学病院,軽症者を埼玉県牛村病院に収容した.感染症の児は汚物に気を配りながら避難.重症児は避難途中,死亡.
濱田産科婦人科病院 神田区駿河台袋町.院長濱田玄達.1日正午には火災発生.院長ともにお茶の水女子高等師範学校,次いで上野美術学校に避難.2日上野火災により各自上野の高台,日暮里に避難.途中不忍池,美術学校,日暮里までの線路脇等で人垣をつくり分娩介助.産婦に若竹を握らせ,瓶ビールで手を洗い,木綿糸で結紮,爪で切断.産湯なく血液をぬぐうだけの原始的なお産.
■日本橋区(現在の中央区北部)
濱田病院 日本橋区矢ノ倉町の産科病院.木下正中院長の指示で1日20時,入院患者27名を2艘の船に乗せて大川での避難を試みるが,大小無数の船で進めず,四方から降る火の粉を消火しつつ,2日明け方近く土洲橋の川岸に到着,3日午後には重症者を本郷の院長邸に収容.その後,産婆看護婦は院長宅に身を寄せ,各方面で救護に協力.
桜井病院 日本橋区矢ノ倉町の産科病院.1日18時の院長は各自自由行動を指示.看護婦は患者と各方面に避難,1日夜遅く本郷の副院長宅に到達し患者を収容する者,上野に到達し美術学校に収容する者,翌2日4時に宮城前に到達し救護所に引き渡す者など.上野は2日火災迫り,日暮里・駒込に避難.近県まで患者の家族を探しに行った者も.
■京橋区(現在の中央区南部)
市立施療病院 築地4丁目,東京市唯一の無料診療の病院.一旦院外に避難した入院患者133名と外来患者53名を津波に備えて病室に戻し,17時一旦患者と職員を帰宅させる.20時には病院や近隣の海軍施設が延焼,火薬の爆発が始まる.無人の舟を使い,一般避難者と患者を3回にわけ浜離宮に輸送.看護婦54名全員無事,軽傷のみ.2日目朝から芝公園で救護.
聖路加国際病院 発災後,患者のうち家族の迎えのあるものは帰宅させた.日が暮れてから火災発生,病院も焼失.新しい建物の建設中の場所で,エプロンや布団を水に浸しては患者を濡らし,降りかかる火の粉から守る.残りの患者と夜遅く宮城前に.2日目昼に炊き出しのおかゆで食事.3日目80~100名の患者看護婦は青山学院の寮に収容.救療活動開始.
■浅草区(現在の台東区東部)
吉原病院 警視庁の娼妓病院.院長の指揮下,235名の入院患者を避難させ,さらに猛火により絶望視されていた31名を黒煙のなかから救出した見習い看護婦,翌朝,吉原公園内瓢箪池で遺体となって発見された.警視庁内彌生神社に合祀された.
■本所区(現墨田区)
本所病院 本所区江東橋.東京市の伝染病院.患者約180名看護婦70名.病院玄関に詰め掛けた避難者や傷病者に対応中火災迫る.17時全員避難指示,重傷者と遺体を担送し,水道の鉄管を渡るなどして小松川方面に避難,夕方亀戸到着.2日火災迫り,南葛飾病院に患者収容求めるが断られ,小松川の放水路堤下に軍隊から借りた3張のテントに患者収容.くず粉と鍋を購入し病人食調理.5日院長来着,6日15時トラックで患者を駒込病院に.
江東病院 本所区二葉町,瀬川小児病院長の病院.医員看護婦は患者34,5名と横網町安田邸に避難.その後自由行動との副院長指示.火災と旋風で副院長及び看護婦患者はほぼ全員死亡.病院に医療材料を取りに戻り,途中熱風で視力を失い,川に飛び込み一夜を過ごし生き延びた者,個人の判断で別方向に避難し,途中背負っていた老婆の死亡に気づくが,府下砂町まで行き家人に引き渡した者も.

避難に関しては,院長の指示により病院単位で行動し,患者を他の病院等に収容した場合もあったが,個人で患者を連れて避難した者,自由行動を指示された者は,患者を警察や救護所に引き渡すか,遠くの家族や親せきに引き渡すまで,個人で避難を続けた(表2参照).避難中,お産が始まる妊婦,避難が負担となり悪化や死亡する患者もいた.また看護婦や産婆自身も負傷し,命を失う者がいた.

本所区の江東病院は,横綱町安田邸に避難し,患者と職員のほぼ全員が火災と旋風の犠牲になった(東京市衛生課,1925東京市本所病院,1941).亀戸には同方面から大勢の避難者が通過し,開業産婆が2日まで火災の空明りで十数人の助産をした.3日からは青年団や軍隊が第一尋常小学校に数百名を運んできたが大半が死亡しており,医療材料がなく負傷者の手当ができなかった.この産婆は死を待つ人々のため,日々水を運んだ(大日本看護婦協会編,1930).

『産婆看護婦関東震災殉難記』には看護婦産婆178名の震災での経験が掲載されている.そのうち家屋倒壊による圧死が17名,火災による焼死が10名,火災の熱風に耐えられず川に飛び込んでの溺死が2名,震災後のチフスによる病死が1名,負傷が5名であった.圧死は鎌倉方面に派出中の者に多く,焼死・溺死は本所深川方面に多い.東京府の派出看護婦会の追悼式での殉職者は判明分のみで102名,本所区の産婆の死亡者は22名であった(大日本看護婦協会編,1930).

2) 被災地の医療者による活動

震災直後から日本赤十字社(以下,日赤)と恩賜財団済生会(以下,済生会)が東京府庁に救護所を設置し,救護活動を開始した.日赤は宮城前にも救護所を設置した.陸軍も兵営などで救護を開始するとともに,衛戍司令部の命により第一,第二衛戍病院が救護班を編成し,各地に派遣した.また火災を起こした衛生施設や士官学校の消火に努め,これらを重症者に開放し,天幕20余個で病床を拡張した(史料①).

警視庁は当時,東京府の衛生行政を担当していた(厚生省設置は昭和12年).震災当日,庁舎を焼失し,府立第一中学校に移転して,救護班10班を編成し,各地に派遣した.また日比谷公園内に救護所を開設して,中学校教室に患者を収容した.翌2日には8つの教室が満室となった.

警視庁防疫課長であり,東京看護婦学校の講師でもあった井口乗海は,東京看護婦会連合組合の柘植あいを通じて看護婦50名を募集,各教室に配置し,さらに産婆2名を配置した(警視庁,1925).派出看護婦会の会主は互いに連絡をとり,戒厳令の夜,自警団に誰何されながら,不焼地域の看護婦会を回り,看護婦を募集した(大日本看護婦協会編,1930).

2日には警視庁に,慶應義塾大学医学部(以下,慶応)からの救護班が来訪した.伝染病研究所,東京帝国大学医学部(以下,東大)からも看護婦数名を含む来援があった(警視庁,1925).

2. 急性期(3日から7日程度まで)

1) 外部からの救援

3日,政府は臨時震災救護事務局を設置し,そのもとに衛生医療部を置いた.方針の一つに「赤十字社済生会等を督励して速かに救済を開始せしむると共に避難中の医師を利用して小学校などに仮病院を開かしむること」をあげた(内務省社会局,1926).軍隊と日赤への派遣要請の閣議決定は4日だったが,陸軍は2日戒厳令により兵力派遣を命ずると同時に衛生部隊の派遣を命じた.日赤も3日までに23道府県の支部が自発的に救護班を派遣した(史料⑨).

全国各地の青年団,在郷軍人会,消防組,慈善団,治療団体,学校その他の救援組織が駆けつけ活動した.3日には警視庁への初の外部からの救援である群馬県救護班が到着した.警視庁の井口は本所区での救護所開設を依頼し,派出看護婦会の看護婦を随行させた(大日本看護婦協会編,1930).

表3に日赤支部から派遣された看護婦の活動状況を示した.当初は鉄道では被災地まで到達できず,船も戒厳令や天候のために幾度となく足止めされた.水食糧も入手困難で,班員が飢餓や病気になる場合もあった.震災当初は当局でさえも被災状況の把握は難しく,外部からの来援者は却って人手を要するとの意見もあったが,地元の救護が及ばなかった負傷者の初療に貢献したのは,中央の指示を待たず,独断で派遣された救護班であった(鈴木,2004).

表3 

外部からの救援:日赤支部救援班の活動

■大阪支部第1班(9月5~15日@船上・横浜市青木町神奈川高等女学校内) 陸路は到達困難との情報により,2日午後海路出発.3日夕方横浜到着するも戒厳令で上陸許されず,4日船上で救護,5日上陸,神奈川県警に赴き,上記の倒壊した校舎で活動開始,患者に喜ばれる.食料だけでなく水道管の破裂で飲料水にも事欠く状況.破壊した水道管から少しずつ流れる水を飲み,持参した道明寺湖を溶かし醤油会社のもろみを拾って食べた.ローソクも使い果たしたが,石油タンクの火が一週間ほど燃え続けて困らなかった.交代の2個班がきて駆逐艦で帰った.
■大阪支部第3班(9月8~16日@明治神宮外苑) 5日海路で出発,翌朝東京湾に到着するが着岸できず,半日後艀で上陸.水中に浮かぶ罹災者の遺体に手を合わせ冥福を祈る(横浜港も同じ状況).明治神宮の野球場のスタンドで寝泊まりしながら救護.日赤本社の人から「全国から数多の救護班が来てくれるが,彼らは東京の地理不案内な上に,震災で延焼,破壊しておる状態下では,かえって人手を要して邪魔になるとの話を聞く.
■兵庫支部第1班(9月8~14日@真鶴市・小田原高等女学校跡) 4日神戸を海路出発,6日10時上陸,県当局・神奈川県支部から小田原に配置され7日海路出発するが,天候悪く8~10日真鶴港寄港し救護,11日より小田原上陸し救護開始.救護班引揚に関する連絡の不備により,3週間近く救護を続行,材料・食糧が欠乏し,班員過労で倒れ,医師や婦長が赤痢様の症状.班は指示を待たずに,徒歩箱根を越えて三島より鉄道で帰る.
■奈良支部(9月6日~12月22日@横浜市西戸部町第一横浜中学校内他) 中央線で新宿に到達,米一俵,炭一俵を乗せた本社のトラックで神奈川県支部に.上記に救護所開設.毎日傷の手当と下痢の患者の看護.壁に大きな亀裂が入り傾く校舎で余震が怖かったが天幕よりまし.水が無く,使丁が焼け跡を遠くまで探しに行った.約1か月後にバラック建ち,入浴可能に.11月頃に寝具届く.12月終わりまで移動しつつ長期に勤務.

2) 後送システムが整うまで

被害の大きかった本所区被服廠跡では橋が焼け落ちて孤立し,3日を過ぎても自力で避難できない患者は飢餓あるいは瀕死の状態で助けを待っていた.先に述べた群馬県救護班などが先行して現地入りしたが十分な準備がなく,本格的な患者収容が開始されたのは近衛師団第三救護班が4日に現地入りしてからであった.

同班は,本所区被服廠跡付近の患者を収容するために,国技館の焼け落ちた土台に救護所を設置し,重傷者230名を担送,収容した.病床は焼跡の鉄くず,木材,畳などで作成したものであり,毛布や着替えさせる衣類がなく,屋根がなく,粥汁をつくっても1個の急須しかなく,必要とする100名以上の重傷者に与えることができなかった.治療を行えても,救護所は回復に適した環境ではなく,看護の手も足りなかった(史料①).

戒厳司令部は第一,第二衛戍病院に加え,2か所の府立中学校に市ヶ谷臨時病院,寺島臨時病院を開設して,被災地域を4つに区分し,それぞれを担当させ,救護所から後送される重症者を収容した.第一衛戍病院には7日以降,本所,深川,浅草,京橋方面からの患者が後送されたが,到着時すでに意識不明の状態で,死者が続出した.ここには9日からは日赤佐賀・熊本班の看護婦19名が派遣された.同班の53日の救護期間中の患者の転帰は治癒86,死亡94,転送147,事故退院132で,治癒よりも死亡が上回った(日本赤十字社,1925).

寺島臨時病院は11日に南葛飾郡寺島村(現在の墨田区向島周辺)に開設され,13日からは日赤宮崎班の看護婦22名が派遣された.同班の救護期間15日における患者の転帰は,治癒316,死亡77,転送201,事故退院1,341である(日本赤十字社,1925).死亡は1日平均5名以上,事故退院は千を超えた.事故退院は主に患者の自己都合であり,震災の衝撃,余震の恐怖,離散家族の心配,入院治療の忌避などと考えられた.

陸軍省医務局(1923)他の記録によれば,負傷者のうち広範に火傷を負ったものはショック状態に陥り,強心剤や生理的食塩水の反復投与を要した.倒壊物や旋風で焼けた物の落下や群衆に踏まれての外傷骨折は四肢に多く,外傷は骨膜まで達する者,損傷が内臓に及ぶ者もあった.火傷や創傷は血液や浸出液が衣類や毛髪にこびりつき,蛆が湧き,悪臭がした.創傷は一期癒合が望めず,開放的に治療せざるを得なかった.破傷風も発生し,血清治療が行われた.骨折脱臼が未整復のまま固定しつつある者,頭蓋,脊椎,骨盤の骨折で全身症状を呈し,腰椎損傷で失禁,世話をされず尿便が固まり悪臭を放つ者もいた.熱風や煤煙,粉塵による眼の火傷外傷も多かった.

またほとんどが内科疾患を合併していた.熱風や煤煙の吸入や川に飛び込み長く水に浸かったことによる肺炎,不潔な水や食事による胃腸炎,特に乳幼児は初期において設備が整わず治療困難であった.しばらくして顔面下腿に浮腫,胸内苦悶を呈し,腎症を発症する者もいた(東京市衛生課,1925).多くが飢餓状態のまま身内を探して彷徨し,全身衰弱となり,震災前より脚気や結核を有した者は悪化した.早産や流産で母子共に死亡する者が多く,その一方で出産もあり「救護班中繫務の中に分娩を介補せる者少なからず混乱の裡悲喜交々到るの情景を見たり」(史料①)と記録されている.

東京市は上野の博覧会後の建物に池之端臨時救療所を,青山の教習所に臨時救療所を設置し,後送患者を受け入れた.後送システムが整った後は,亀戸や小松川,千葉方面に収容されていた患者がこれらの臨時病院に次々と転送された.なお東京府では,警視庁の方針により仮設の臨時病院内に伝染病床を設置することが許可されなかった(日本赤十字社,1925).伝染病患者は発見され次第,専門の伝染病院もしくは伝染病床のある既設の病院に送られた.孤児となった乳児や児童は養護施設に収容された.

3) 後方地域の病院での活動

日赤,慶應,順天堂分院など,不焼地域にあった病院では,震災直後から電気,水道,ガスの供給が途絶し,また徴発により米が入手困難となり,患者職員の水食糧に困窮した.また電灯が点かず,暗闇のなか,戒厳令の不安な夜を過ごした(東京市,1926).

渋谷の日本赤十字社病院は,患者輸送用の自動車の手配に手間どり,本格的に患者収容を始めたのは4日からであった.病院はバラック病棟を増築するなどして,もとの365床を1,000床に拡張し,約300名の看護婦生徒と支部救護班による支援のもと活動した(日本赤十字社,1925).本所深川方面から収容された結核患者が2,000ccの大喀血をして窒息死したと記録されている.病弱であった者に震災が与えた影響は大きかった(雪永,1977).

済生会は活動拠点となる病院,診療所を焼失しただけでなく,医員の多くが軍医で,看護婦の養成人数も少なく,直ぐに活動できなかった(宮島,1924a).東大病院は700床を有し,空床もあったが,本郷付近は3日まで火災の危険があり,本格的な活動は亀戸などから重症者の搬送が開始された6日以降だった(鈴木,2022).

4) 外部からの救援の終了

震災から1週間を過ぎると,患者は火傷打撲を除く他,下痢などの内科的疾患となった.10日内務省の衛生医療部は,救護班の配置は充実したとし,地方からの救護班のうち未発のものは出発を見合すよう打電した(史料②).戒厳司令部も11日には救護班の撤退の方針を決め(史料③),小田原横浜を除いて,軍の救療施設を閉鎖するか,日赤と済生会他に引継いで30日までに引き揚げた(史料④).なお日赤のみ,全国の支部が救護班を交代させながら,12月20日まで活動した.

3. 亜急性期(7日から1か月程度)

1) 警察庁救護班・消毒班の配置

発災後1週間あたりから伝染病発生の兆候が見られ,大規模な流行の恐れがあった.まだ医療を受けていない者もおり,10日警視庁小栗衛生部長は,府市郡等の医師会の同意を得て,診療班100班,消毒班50班,巡回防疫班5班を編成し,警察管内に配置し,巡視も行った.診療班は1班医師2名,看護婦2名,助手1名の構成で,伝染病患者は発見次第,伝染病院に送致した.19日には消毒班50班,21日には診療班100班配置が完成した(警視庁,1925).

連合組合は不焼地域だけでなく,焼失地域の看護婦会にも声をかけ,府市他の救護所に差し向ける看護婦を募集した(大日本看護婦協会編,1930).一方で,看護婦産婆のなかには震災後,東京を離れる者も少なくなかった.地方の駅に到着後,警察の場所を尋ね,そこで看護婦会の名簿を見れば他人の世話にならず働けると言った看護婦のエピソードがある(大阪府,1924).

2) 公衆衛生の改善と感染症の制御

東京市は主に死体の処理や屎尿処分,便所の設置,下水整備,蠅駆除を,警視庁は便所や井戸の消毒,水や牛乳の衛生検査を行った.府市,警視庁や日赤からも公衆衛生に関するビラが配布された.赤痢は9月末をピークに減少,腸チフスは10月から翌年にかけて例年の2倍近い発生が見られたが,その後のインフラの整備も含めて効果的に対処されたと評価された(東京市衛生課,1925).

4. 慢性期(1か月から3年程度)

1) 臨時病院と臨時外来診療所の設置

既設および臨時病院は定員以上を収容し,狭隘になっていた.また被災地域でも一時的に地域外へ避難していた人々が戻りつつあり,地域医療を復興させる必要があった.一方で,警視庁,府市,日赤,済生会他の救護班や巡回診療班が数多く活動を続けており,開業医の復興を妨げないように救護班等の整理が課題になっていた.

9月24日と10月16日に内務大臣官邸に関係者が参集し,今後の医療計画に関する協議が行われた(史料⑤⑥).結果,被災住民のため一般病院13か所,伝染病院7か所,産院乳児院11か所,市内の外来診療所61か所を予定し,被災医師・看護婦を雇用し,当面,患者に無料診療を行うことにした.

臨時病院(東京市では「臨時救療所」と呼んだ)のうち,既設建物を利用した東京市のものや南満州鉄道株式会社や協調会のバラックは,震災当日から9月25日までに開設されたが,済生会,日赤,警視庁のバラックは建設地の確保と徴発令による建築資材の入手困難のため,10月中旬以降になってようやく開設された(日本赤十字社,1925).臨時外来診療所も,東京市分の14か所は11月25日,宮内庁分の5か所は12月10日の開設となった(史料⑦,東京市衛生課,1925).

2) 看護婦産婆の採用と活動

東京市の池之端臨時救療所及び産院には看護婦産婆が144名,大塚臨時救療所には70名,青山臨時救療所には22名採用された.青山学院内臨時救療所では聖路加国際病院の看護婦が活動した.市の臨時外来診療所には1か所につき医師5名,薬剤師と事務員各1名,看護婦および雇員各2名が配置された(東京市衛生課,1925).市は医師の採用条件の第一を被災医師・看護婦としており,医師会の調べでは10月16日時点で被災医師の約3分の1が警視庁や東京市の救療事業に従事していた(史料⑩).

10月中旬以降,設置された臨時病院には,不焼地域の派出看護婦と焼失地域の中核病院の職員が複数採用された.済生会の臨時駿河台産院は神田区濱町病院,日赤の臨時本郷産院は日本橋区濱町病院,臨時本郷乳児院は瀬川小児病院,臨時京橋病院は東京慈恵会医院の看護婦産婆が採用された.地域の中核病院はこれを足掛かりに復興した.

臨時深川病院と臨時浅草病院には日赤看護婦のみで構成された.この地域は震災前から貧しい住民が多く,開業医や派出看護婦会も少なかった(日本赤十字社,1925).板橋と洲崎の臨時伝染病院は主に不焼地域の派出看護婦で構成された(史料⑨).

表4には臨時病院での看護婦の活動を一部抜粋した.東京市池之端臨時救療所は,震災初期に開設され,収容力も大きく,救護所や臨時病院から大勢の患者を受け入れた.9月中に開設された臨時満鉄病院には,まだ火傷の傷に蛆が湧いている患者がいた.10月中旬に開設した臨時深川病院では外傷,蜂窩織炎,下痢,肺炎などの治療が行われた.この地域の住民は焼けたトタンや木材でできた小屋に住んでおり,病人が療養し,産婦が安心して出産できる環境ではなかった.

表4 

急性期~慢性期:臨時病院での看護婦組織と活動状況

■東京市池之端臨時救療所(元上野博覧会外国館) 9月8日市衛生課医員,看護婦2名,産婆2名開設.外国館の展示台を利用し,約1,000人分の病床作成.旧売店建物を看護婦100余名の寄宿舎とす.職員は第一条件として罹災者を採用,烏合の衆なれど一致協力.18日より市ヶ谷臨時病院はじめ,国府台衛戍病院,寺島臨時病院などの患者引き受ける.10月20日最大1,073名収容.乳児は早稲田賛育会,5,6歳児は有憐園に.11月20日池之端療養所に改称.大正13年3月末閉鎖.
満鉄臨時病院(明治神宮外苑) 9月23日開設.医員10名,看護婦30名他雇人.瀬川病院勤務中に被災した看護婦,10月院長の紹介で内科婦長に就任(月給70円).「当初は火傷の後に蛆が湧き,悲惨な患者が大勢いた.後に産科に移り,無料分娩で1日約20件取り扱う.大正13年3月末,閉鎖にあたり退職金140円支給された.その後産婆免許取得する」大正13年4月~12月まで東京市経営による青山簡易療養所に.
■日本赤十字社本郷臨時産院(松平伯爵邸) 10月11日外来,23日入院診療開始.院長は医学士(濱町病院院長)木下正中.婦長2,看護婦29,助手20,産婆12.収容定員200名.濱町病院より長1婦1産7,中村産婆看護婦会(牛込区市ヶ谷柳町)より婦5,千代田産婆看護婦会(小石川区大塚窪町)より婦2産1.日赤東京支部に移管.
■日本赤十字社深川臨時病院(清澄岩崎別邸内) 10月15日から天幕外来,26日より入院診療開始.当初より計画の2病院の一つ(一つは浅草).院長は元木澤病院野谷昌臣.看護婦は日赤のみ婦長3,看護婦55,産婆2(雇).200床.住民歓迎,電車まで満員.1日の患者数最大913名.当初の入院患者は妊産婦と急性肺炎の小児「焦土上に仮設せる焼けトタンの下に呻吟せしむるよりは」と.重症者多く死亡率23.4%.大正13年4月~東京市経営の深川簡易療養所に.
■日本赤十字社協調会連合洲崎臨時伝染病院(深川区埋立地,現在の江東区東陽) 10月18日開院,院長は駒込病院副院長村山達三.婦長1,看護婦39,助手27.300床.室看護婦会(芝区新桜田町,現在の西新橋)長1婦7,十全看護婦会(本郷区弓町)婦4,本郷看護婦会(本郷区菊坂)婦3,大東産婆看護婦会(赤坂区青山北町)婦2,同胞看護婦会(芝区三田)婦1,大関看護婦会(芝区三田網町)婦1他.11月チフス患者減少,月末より新患受付せず,大正13年2月7日患者駒込病院に移送し閉院.腸チフスの患者の死亡率が約28%と高かった.

表中,長は看護婦長,婦は看護婦,産は産婆.出典:東京市役所(1925)日本赤十字社(1925)渡部(1979)井上(1988)雪永(1977),史料⑨より作成

3) 地域医療の復興支援

12月からは開業医の復興を促すため,臨時病院及び外来診療所のうち,借地などの関係で閉鎖する予定のないものを有料化することになった.日赤は無料でしか救護を行わない,済生会は有料患者を扱わないとの主旨から,経営主体を府医師会とし,施設は無償譲渡した.医師会は「被災住民のみ無料」,「診療券を配布して回数を制限」,「医師の指示を入院の条件」にするなどして徐々に実費診療や有料診療へと移行させた(史料⑧).東京市の臨時救療所は「簡易療養所」へと名称変更した.

救護班等(警視庁では「診療班」)は11月初旬でも213班が活動しており,整理はなかなか進まなかった.警察庁は26日に100班のうち49班を済生会の経営にし,30日残りの51班を閉鎖,12月1日以降,診療班の一部職員を警視庁の臨時病院付属の外来診療所で補助をさせた(警視庁,1925).日赤は東京方面の救護所を1924(大正13)年1月10日にすべて閉鎖した.

4) 社会事業としての巡回看護

11月末の関係者の協議では,今後の臨時病院や診療所の増築の必要性が話し合われたが,社会事業との関連で議論がまとまらなかった.当時,貧しく医療を受けられない人が増え,医療の社会化を求める声が高まっていた.明治期の末より貧困者への実費診療や無医地区の巡回診療が行われており,1923(大正12)年からは済生会,日赤,同愛記念会,東京慈恵会などの病院も実費診療所に取り組んでいた.上からの施策として1922(大正11年)年には健康保険法が制定されたが,震災時はまだ施行されていなかった.

済生会は貧困者への無償の医療給付を目的とした機関であり,社会事業的かつ予防医学的観点からこの震災で巡回看護を開始した(恩賜財団済生会,1924).看護婦産婆54名に対して2週間の講習を行い,1班を産婆2名看護婦3名とし,各班に班の指導と診療を担当する1名の医師を付し,本所,深川,浅草,下谷,四谷,芝,京橋区に計10班を配置した.1924(大正13)年1月中旬から6月末まで,被災地の集団及び個人バラックに住む困窮者を個別に訪問し,患者の処置,妊産婦及び乳幼児保護,高齢者ケア,生活面での衛生に関する指導を行った(宮島,1928).

表5は,済生会の巡回看護の記録からの抜粋である.外傷,肺炎などの患者は巡回看護と診療により治癒した.巡回看護が行われた地域では,腸チフスの発生が稀で,所管警察署より感謝された.一方これといった治療がなく看護のみを必要とする脊椎損傷や脳血管障害の後遺症をもつ者は,病院には収容されず,家族は看護に手を取られ,貧困に陥った.バラックの狭い一室で,咳嗽喀痰する結核患者を囲み,家族が寝起きしている現状があり,東京市は結核病床を増やして対応したが,患者収容の目途は立たなかった.飲酒の問題も起こっていた.診察券で受診回数を制限され,実費さえ出せない貧しい家庭もあった.

表5 

慢性期:済生会の巡回看護

■バラックの共同便所に多量の粘血便が排出されているのを認め,戸毎に病人の有無を尋ねるが見つからず,伝染病患者として扱われるのを恐れて隠していたことが判明し,消毒,手続きを経て,大久保病院に送致となった.
■子が急病で診療所に頼んだら来診を断られたと,夜間,父親が酒気を帯び,怒鳴りながら看護婦室の戸を蹴破りやってきた.行ってみると子は咽頭痛,咳嗽激しく呼吸困難を訴えていた.吸入,湿布を施し,上半身を高くして臥床させ,容体は安定した.翌朝,医師の診察を受け,肺炎はその後治癒した.
■老衰にて便失禁のため不潔で悪臭のひどい住人.巡回看護婦が無数に群がる虱をものともせず,懇切丁寧に身体を清め,病衣に着替えさせる様子に,近隣の人々も患者輸送用の車を引いてくるなど協力した.下谷臨時病院に収容となった.
■昨年,結核と診断され安静を指示されたが,生活に窮するため働いていたところ多量の喀血をした.食塩水を飲ませ,氷片を口に含ませるなどして応急手当てで喀血はとまった.胸部冷罨法,熱いものは食べない,咳嗽時の注意,喀痰の消毒などの看護法を伝え,決して悲観するような病状でないと安心させたが,市経営の結核療養院は願書を提出しても何か月後に入院許可の通知があるか分からない状況.それより他に手立てがなかった.実に遺憾.療養院の拡充を願う.

巡回看護婦は住民からの信頼を得,感謝された(宮島,1928).一方,府医師会が引き継いで実費診療を行った病院では,派出看護婦の看護料金が高く,規定の入院料を超えることが問題となっていた.医師はなるべく家族に看護をさせるように患者を説得したが難しかった(福島,1925).

5. 関係者の反省と看護への社会的評価

震災後に発行された報告書には,医療救護に携わった関係者による反省や課題が残されていた.一つは陸軍省医務局によるもので,患者用の炊飯用具や湯具,衣類を用意しておくこと,臨時病院を早く建てることであった(史料①).

また警視庁衛生部長として医療救護を指揮した小栗(1924)は,医師だけでなく,看護婦産婆の教育と動員体制を整えることをあげた(pp. 1~3).1923(大正12)年当時の日本の人口は約5,812万人で,看護婦総数は約3万8千人であり,看護婦の数は絶対的に少なかった(中央職業紹介事務局編,1927).看護婦の養成期間も1年から3年までの違いがあり,準備教育や検定試験を受けていない見習い看護婦も含まれた(看護史研究会,1983).

この震災で功績のあった者の表彰も行われた.陸軍は震災時,第二衛戍病院で活躍した看護婦3名を表彰した(史料⑩).東京市は施療病院,本所病院,駒込病院の看護婦と看護婦募集に協力した派出看護婦会の会主らを表彰した(東京市,1926).警視庁は吉原の娼妓病院で殉死した看護婦見習い3名を庁内の彌生神社に合祀した(岐阜県加茂郡第四部教育会,1924).いずれも子や介護を要する親を置いて,危険を顧みず患者を助け,組織に尽くした看護職の活動を讃えるものとなっていた.

Ⅳ. 考察

1. 災害サイクルからみた人々の健康問題と看護職の活動

超急性期では,看護職が病者や要支援者の救助や避難のために活躍した.また焼失を免れた病院でもライフラインが途絶し,患者・職員の水食糧に困窮しながら,後送される大勢の患者を収容し,活動した.外部からの救援者として多くの看護職が派遣されたが備えが十分でないと自ら危機に陥る場合もあった.

急性期では重症者が多く,救助に時間を要した.救護所に収容し初期治療を行っても,回復に適した療養環境が整わなかった.後送患者を受け入れる臨時病院の設置も遅れた.看護職は昼夜を分かたず活動したが,人員材料の不足により十分な看護を提供することができず,助かる命も助からない場面もあった.

慢性期になっても人々が生活するバラックは隙間風を防げず,不衛生でプライバシーがなかった.赤痢や腸チフスなどの急性伝染病の流行はある程度,抑えることができたが,持病のある者の悪化や結核の蔓延を防げなかった.治療を要しない障がい者や高齢者などのケアに関する問題もあった.貧民街の最前線で済生会の巡回看護が活動したが,まだ医療と公衆衛生のみに焦点が当てられ,福祉には配慮されなかった.

1995(平成7)年の阪神淡路大震災以降,医療,公衆衛生,福祉の各方面で様々な対策が講じられているが,当然ながらこの時代の災害対策はまだ十分でなく,看護職の多くが応急的な対応のなかで活動せざるをえなかったといえる.

2. 関東大震災の経験をふまえての大規模災害における看護の課題

結果からは,超急性期に関連して,看護職個人で患者や妊産婦を連れての避難には負担や危険がともなうことが明らかになった.現代では地域に多くの高齢者,要支援者が暮らしており,その支援を看護職が行っている.大規模災害が発生した際,看護職がそれらの人々の救助や避難にかかわることになる.2013(平成25)年に災害対策基本法の改正により,市町村に避難行動要支援者の名簿作成が義務づけられたが,個別の避難計画の作成は努力義務のままである.この震災では危険を顧みない看護職の活動が美談として記録されているが,支援者を危険に晒さない体制づくりが重要と考えられる.

また急性期では一度に大勢の傷病者が発生し,治療を受けられない者が大勢いたのに加え,治療を受けても回復に適した環境や看護がなく,助からない者もいたことが明らかになった.1980年代半ば,国際赤十字・赤新月運動は,十分な給水と栄養,保健衛生の基盤がない治療行為を中心とした医療による救援は解決にはいたらず悪循環を起こすと述べ,安全な場所への受け入れ,十分な給水と栄養,保健衛生の基盤の上に,治療とケアが位置づけられるとするピラミッドアプローチを提唱した(小原,2022).この震災での陸軍省医務局の反省も,治療だけでなく回復のための環境を整備し,看護を提供することの重要性を伝えるものと考えられる.

慢性期には,発災前から脆弱であった人々の災害に際しての困窮への対応が課題となっていた.現代においても災害時における医療処置や高度な介護が必要な人々への支援は課題であり,医療・保健・福祉の各方面での対策と連携が重要な点と考えられている.

以上では本研究の結果から今日の大規模災害でも生じうる課題について考察した.これらは過去の震災の経験から学ぶことの重要性を示すものでもある.

3. 関東大震災における看護職と組織的活動の実情

この震災があった大正期は,現在と比べて看護職の数が絶対的に少なかった.また病院も健康保険などの基盤整備がなされておらず,雇用できる看護職の数は少なかった(看護史研究会,1983).発災時,患者や妊産婦の自宅や病院に派遣され,個人で看護を行っていた者はそれらの人々を置いて募集に応じることはできなかったであろうし,また所属する派出看護婦会が焼失し生活基盤を失って地方に移った者も多く,看護職の動員は容易ではなかったと考えられる.

その一方で看護職のなかには組織的な活動をした者,関係機関に協力して活動した者もいた.災害時の支援活動は個人で行うよりも,支援組織に参入することで混乱が避けられ効果的に活動することができるとされる(小原,2022).この震災では軍隊による戦時衛生活動を応用しての傷病者後送体制,全国に支部を有する日赤による救護班の派遣,病院支援,警視庁による公衆衛生活動,済生会による巡回看護などの組織のなかで看護職が活動した.これらの活動が被災地で活動するための準備のもと,適切なタイミングで,十分な人員材料を投じて行われた場合の看護の効果は大きかったと考えられる.

また災害時に関係機関との協力のもと適切かつ効果的に活動するためには,関係職種・組織間の良好で円滑な連携が重要である(白土,2022).この震災でも,日赤は明治期から災害時には地方長官(日赤支部長を兼務)の指揮のもと,戦時には戦地においては陸海軍の指揮のもとに活動してきた経験を有していた.また警視庁は東京府の衛生行政の一環として派出看護婦会の監督をしていた関係があった.これらの対機関との連携や活動の経験が,この震災における看護職による組織的活動の基盤となったと考えられる.

総じてこの時代はまだ,看護職の総数は少なく,組織的活動の基盤も弱く,災害時に効果的に活動するには限界があったが,看護職のなかには組織的活動を行う者もおり,その活動の基盤には,平時からの他機関との連携やそれまでの活動の経験があると考えられた.

4. 本研究の限界と今後の課題

関東大震災における東京市における人々の健康問題と看護職の活動を災害サイクルの視点から明らかにし,この震災の経験に基づく大規模災害での看護とその組織活動上の課題について考察した.今回,東京市に焦点を当てたが,郡部や震源地に近かった神奈川県では津波や土砂崩れによる被害などもあり,東京市とは異なる活動の様相があると考えられる.またこの震災での巡回看護活動が,その後の公衆衛生活動の発展にどのように影響したかについては震災以外の様々な要因とともに探求する必要があると考える.

利益相反:本研究における利益相反は存在しない.

史料

①陸軍省医務局(1923):大正12年9月陸軍震災救療誌,東京都公文書館所蔵

②「臨時震災救護事務局施設状況9月10日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08051016600,大正12年 公文備考 変災災害附属 巻14(防衛省防衛研究所)

③「関東戒厳司令部情報」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08050994900,大正12年 公文備考 変災災害付属 巻1(防衛省防衛研究所)

④「一般関係(5)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08050994500,大正12年 公文備考 変災災害付属 巻1(防衛省防衛研究所)

⑤「施設報告9月25日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08051018600,大正12年 公文備考 変災災害附属 巻15(防衛省防衛研究所)

⑥「施設報告10月18日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08051021400,大正12年 公文備考 変災災害附属 巻16(防衛省防衛研究所)

⑦日本赤十字社事業年報大正13年,博物館明治村所蔵

⑧「施設報告10月30日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C08051022600,大正12年 公文備考 変災災害附属 巻16(防衛省防衛研究所)

⑨震災に関する非常部決裁書自大正12年9月至同13年10月,博物館明治村所蔵

⑩衛生医療今後の対策,陸軍衛生部員表彰,医海時報,1526号,1923年10月27日発行

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