目的:日本航空123便墜落事故で行われた看護を,遺体の検案,処置,身元確認に焦点を当てて,明らかにすることである.
方法:歴史研究.この事故において遺体の検案,処置,身元確認,遺族へのケアに携わった関係機関の報告書,関係者の文献,遺族の手記を対象とした.
結果:検案には県,医師会,日本赤十字社の看護職が活動した.看護職は遺体を探す遺族を支援し,損傷した遺体を綿花や新聞紙,段ボールを用いて整復した.身元が確認された遺体に家族が用意した着物を着せ,品物を棺に納めた.活動に参加した看護婦のなかには,数か月,数年経っても,その時の光景や感情がフラッシュバックし,食欲不振や不眠などの症状を呈する人がいた.
結論:看護職は損傷の激しい遺体の処置を通じて,死者の尊厳を守り,遺族の支援を行った.整体は,過酷な状況で死別を経験する人々を支援するため,看護の基本に基づき創発された実践の一つであった.
Objective: This study clarified the nursing care provided to the victims of the Japan Airlines flight 123 crash, focusing on autopsies, treatment, and victim identification.
Methods: A historical research. We included reports from relevant institutions involved in the autopsies, treatment, identification, and care of the bereaved families in this accident, as well as literature written by medical professionals involved, and the notes written by the bereaved families.
Results: Nurses from the prefectural government, the medical association, and the Japanese Red Cross Society were actively involved in the autopsies. The nurses assisted bereaved families in their search for the bodies of their loved ones, restoring damaged bodies using cotton, newspapers, and cardboards. The identified bodies were dressed in kimonos prepared by the family and the items were placed in coffins. Some of the nurses who participated in the activity had flashbacks of the scenes and emotions of the time even after months or years had passed and exhibited symptoms such as loss of appetite and insomnia.
Conclusion: Through the treatment of severely damaged bodies, the nursing profession preserved the dignity of the deceased and assisted the families in bereavement of the dead. SEITAI was an emergent nursing practice based on the fundamentals of nursing to assist people experiencing bereavement in harsh conditions.
日本航空123便墜落事故は,1985(昭和60)年8月12日に日本航空ボーイング747型機が群馬県多野郡上野村の山中(通称,御巣鷹の尾根)に墜落した航空事故である.同機は,伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃,機体後部の圧力隔壁を破損,操縦不能に陥り迷走飛行の末,18時56分30秒に墜落した(運輸省航空事故調査委員会,1987).乗客乗員524人のうち生存者は4人,それ以外の520人はもはや身元確認すら難しい状態で,多くの遺体は激しく損壊,火災により焼損していた.この事故で看護職は生存者の救出,遺体の検案と処置の他,身元確認や遺体の引き渡しに際して遺族への支援を行った(勝見・小原編,2012, pp. 394–397).
この事故では災害救助法は適用されなかったが,同法の枠組みのもと群馬県が主体となり,指定公共機関である藤岡多野医師会と日本赤十字社(以下,日赤)の協力のもと,看護職が活動した.また日赤は1948(昭和23)年の厚生省との協定により,災害時の救助として医療,助産,死体の処理を行うこと,1959(昭和34)年の厚生省通知により,災害時の死体の処理には(1)死体の洗浄,縫合,消毒等の処置と(2)検案が含まれることになっていた(厚生省社会局長通知,1959).しかし遺族による身元確認や遺体の引き渡しの場面での支援については法令通達による定めはなく,看護職にとってはその範囲を超えた活動であった.
現在も,看護職は災害時,遺体の検案や処置を行うことがあるが,身元確認と遺体の引き渡しは警視庁や法歯学者等の役割であり,看護職が支援する体制にはなっていない(東京都福祉保健局,2019).看護支援の拡充に向けて,災害時遺族・遺体対応派遣チーム(DMORT: Disaster Mortuary Operational Response Team)やフォレンジック看護などが,関係機関との協働を模索しているが(日本DMORT,2023),2011年の東日本大震災においても,大勢の遺族に対して警察の遺族支援班が十分な支援が行えなかった(藤代,2012),遺体安置所で遺族対応をする自治体職員のストレスが大きかった(岡本ら,2016)との実態がある.将来の大規模災害で大勢の死者が発生した場合に備え,遺体検案,身元確認,埋火葬の方法が検討されているが,遺族心理に配慮した方法は確立されていないという(梅原ら,2014).
この事故での看護実践は,対象のほとんどが死者であり遺族であった点で特殊であるが,看護職が関係機関の信頼を得て,通常の範囲を超えて活動した点において重要である.災害時における遺体の処置や遺族支援については知見が蓄積されつつあるが(ICHG研究会,2002),旅客機事故に関しては救助活動の評価(Cheng et al., 2019;丹野ら,2007),生存者支援(Sefansky, 1990),遺族支援(野田,2000;安藤ら,2011),救援者ストレス(Jayasinghe et al., 2008他)に関する研究があるが,看護に関して系統的に行われた研究は管見の限り見当たらない.
以上から本研究では,日本航空123便墜落事故での看護を遺体の検案,処置,身元確認に焦点を当てて明らかにすることにした.歴史研究により残された資料をもとに実践事例について正確な記録を残し,蓄積すること,その実践を当時の社会や医療の状況,災害という非日常の文脈のもとに分析することは,災害での死者と遺族への看護についての理解を深めるとともに,将来のさまざまな災害での看護の可能性を検討する基盤をつくるうえで有用と考えた.
歴史研究.資料は事故対策を指揮した国や地方自治体,遺体の検案と処置,身元確認,遺族へのケアに携わった関係機関の報告書,文献,関係者の文集,遺族の手記である(表1参照).資料はこの事故での遺体の検案,処置,身元確認,遺族ケアに焦点を当てて,看護職の組織体制,活動内容とプロセス,看護職の体験や意味づけの視点から分析した.研究の妥当性と信頼性を確保するため複数の資料で事実を確認し,出典を明示した.また図書以外の史料などで所蔵館の指定により執筆要項に基づき出典を表記できないものは(資料①~⑧)で示した.資料は各所蔵館の規定に従い利用し,官公庁職員および書籍等で公表されている者以外の個人名は伏せた.保健婦,助産婦,看護婦は当時の名称を用いた.
| 1.運輸省航空事故調査委員会(1987):航空事故調査報告書 ボーイング式747SR-100型JA8119群馬県多野郡上野村山中 昭和60年8月12日,運輸省航空事故調査委員会,東京 |
| 2.群馬県(1986):日航123便墜落事故対策の記録 1986年3月,群馬県立文書館所蔵 |
| 3.群馬県(1985–1986):日航機墜落事故関係,群馬県立文書館所蔵 |
| 4.群馬県地方自治研究センター編(1986):日航機墜落事故・自治体職員の活動,群馬県立図書館所蔵 |
| 5.群馬県総務部消防防災課編(1986):日航123便墜落事故対策の記録,国立国会図書館所蔵 |
| 6.自治省消防庁地域防災課(1985):特報日航機墜落事故の概要,近代消防,23(10), 49–58 |
| 7.河村一男(2005):日航機遺体収容123便 事故処理の真相,イースト・プレス,東京 |
| 8.飯塚訓(2019):墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便,講談社,東京 |
| 9.横内昭光(2020):あの時の御巣鷹山―警察官としての誇りと使命感,看護実践の科学,45(7), 64–75 |
| 10.『日航123便事故と医師会の活動』編集委員会編(1986):日航123便事故と医師会の活動,群馬県医師会,前橋 |
| 11.群馬県歯科医師会編(1986):遺体の身元を追って―日航ジャンボ機墜落と歯科医師の記録,群馬県歯科医師会,前橋 |
| 12.大國勉(2001):身元確認,フリープレス,東京 |
| 13.藤岡多野医師会(1985):日航機上野村山中墜落事故の救難にあたって,日本医事新報,(3216), 96–101 |
| 14.藤岡多野医師会編(1987):御巣鷹:鎮魂の賦,藤岡多野医師会,藤岡 |
| 15.大野治俊(1986):取材攻勢から患者を守る日航機墜落事故‘奇跡の生存’の渦中に巻き込まれた多野総合病院の経験から,看護学雑誌,50(12), 1386–1393 |
| 16.村田和隆,福田充(2017):日本航空123便墜落事故における現地遺体搬送レポート,葬送文化,(18), 79–86. |
| 17.群馬県藤岡保健所(1985):保健所活動概要 昭和60年度,群馬県立図書館所蔵 |
| 18.群馬県在宅保健師「さちの会」編(2016):日航機御巣鷹山墜落事故30年目の記憶:群馬の保健師たちの証言,国立国会図書館所蔵 |
| 19.日本赤十字社(1985–1986):日航機123便墜落事故に関する救護関係資料,日本赤十字社所蔵 |
| 20.日本赤十字社振興部報道課(1986):救護体験記―60・8・12 日航機墜落事故現場から―,日本赤十字社,東京. |
| 21.日本赤十字医療センター救護班(発行年不明):救護記録 昭和60年日航機事故,日本赤十字医療センター救護班,私家版 |
| 22.金田和子(発行年不明):整体(破損のひどいご遺体を整復する1方法)昭和60年8月12日午後6時日航機御巣鷹山に墜落事故の救護にあたって,私家版 |
| 23.金田和子・大和田恭子(2000):「整体」破損のひどい遺体を整復する1方法,看護管理,10(7), 587–591 |
| 24.三浦規・斉藤仁(2008):看護師金田和子と日赤救護班 日赤救護班と共に歩んだ四十年,インターメディカ,東京 |
| 25.8・12連絡会編(2015):茜雲:日航機御巣鷹山墜落事故遺族の30年,本の泉社,東京 |
| 26.8・12連絡会編(2005):茜雲総集編:日航機御巣鷹山墜落事故遺族の二〇年,本の泉社,東京 |
| 27.8・12連絡会編(1987):おすたかれくいえむ,毎日新聞社,東京 |
| 28.8・12連絡会編(1991):再びのおすたかれくいえむ,毎日新聞社,東京 |
表2,図1に機関別に看護職の出動数と活動状況を判明分について示した.
| 県 | 医師会 | 日航 | 日赤 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 藤岡保健所 新町・鬼石町・万場町 |
鶴谷医院 | 1 | 石坂外科 | 1 | 秋谷医院 | 2 | 本社 | 4 | |
| 篠塚医院 | 5 | 飯島医院 | 1 | 木村外科 | 1 | 群馬県支部 | 1 | ||
| 前橋保健所 | 藤岡外科 | 6 | 須藤内科 | 2 | 田島医院 | 2 | 前橋赤十字病院 | 119 | |
| 高崎保健所 | すぐた医院 | 2 | 西沢外科 | 1 | 龍見医院 | 1 | 原町赤十字病院 | 26 | |
| 伊勢崎保健所 | 堤外科 | 1 | 波志江医院 | 1 | 村川医院 | 1 | 足利赤十字病院 | 15 | |
| 富岡保健所 | 新町関口医院 | 1 | 宮田医院 | 2 | 柳田内科 | 1 | 大田原赤十字病院 | 9 | |
| 管内保健所 桐生・太田・渋川・安中・中之条・沼田・館林 |
吉井中央診療所 | 1 | 根岸医院 | 2 | 須賀医院 | 3 | 芳賀赤十字病院 | 10 | |
| 県立前橋病院 | 6 | 中島医院 | 2 | 宮田産婦人科 | 1 | 水戸赤十字病院 | 18 | ||
| 黒岩整形外科 | 5 | 桜井病院 | 5 | 山崎外科 | 1 | 小川赤十字病院 | 16 | ||
| 鬼石病院 | 4 | 伊勢崎福島病院 | 2 | 三島医院 | 2 | 大宮赤十字病院 | 11 | ||
| 県立前橋病院 | 高野外科 | 2 | 松岡医院 | 1 | 三丸医院 | 1 | 深谷赤十字病院 | 14 | |
| がんセンター東毛病院 | 多野総合病院 | 32 | 久保医院 | 1 | 野中外科 | 1 | 千葉血液センター | 6 | |
| 佐波病院 | 太田医院 | 1 | 大塚医院 | 2 | 新井医院 | 1 | 成田赤十字病院 | 21 | |
| 福祉大学校 | 米津病院 | 6 | 真中医院 | 1 | 岡本医院 | 1 | 津久井赤十字病院 | 3 | |
| 医務課 病院管理室・看護係 |
金古外科 | 2 | 島田内科 | 1 | 阿美産婦人科 | 1 | 秦野赤十字病院 | 3 | |
| 飯島外科 | 3 | 高橋医院 | 2 | 横浜赤十字病院 | 16 | ||||
| 保健予防課 | 篠塚病院 | 3 | 大島整形外科 | 3 | 静岡赤十字病院 | 4 | |||
| 環境衛生課 | 金古医院 | 2 | 斉藤医院 | 2 | 大森赤十字病院 | 9 | |||
| 人事課 | 藤生皮膚科 | 2 | 前橋病院 | 1 | 葛飾赤十字病院 | 8 | |||
| ※看護職以外を含む.内訳は不明 | 池上眼科 | 2 | 神保小児科 | 2 | 武蔵野赤十字病院 | 9 | |||
| 福島病院 | 2 | 関口整形 | 3 | 新宿赤十字病院 | 7 | ||||
| 若林産婦人科 | 2 | 山崎医院 | 1 | 猿島赤十字病院 | 9 | ||||
| 今井外科 | 1 | 山田外科 | 1 | 日本赤十字社医療センター | 22 | ||||
| 96 | 186 | 103 | 623 | ||||||
資料①②③から作成.表中,数値は人数を示す.県の各部署から出動した看護職の詳細は不明.他の職員を出動させ,看護職を出動させていない部署が含まれる可能性がある.また体験記には県の小児センターからも来ていたとの記述があるが詳細は不明である.

資料①~③から作成.日航からの看護職の出動状況は不明.
藤岡市の保健所を中心に,県下の保健所,県立4病院,県立福祉大学校等の保健婦,看護婦,看護教員延べ96名が出動した.8月13日藤岡市保健所は山中の捜索に備え,マムシと破傷風の血清の在庫状況を確認,15日~17日の3日間で4班編成,延べ80名で遺体の検案と処置を支援した.多くは人員が不足する17時以降の出動であった.また13日から25日の日中,小中学校で待機する家族のケアを,日本航空の巡回医師団とともに行った(資料①,②).
(2) 藤岡多野医師会藤岡多野医師会は,群馬県医師会の支援のもと,県下の病院・診療所から看護婦186名(看護学生を含む)を出動させた(相原,1987).医師会は8月13日の生存者救出の際の出動は見合わせたが,14日~18日の5日間,遺体の検案と処置を支援した(斎藤,1986).小規模の病院・診療所の看護婦は18時頃帰宅するため,14日と16日は公的協力機関である多野総合病院からそれぞれ20名,16名の看護婦の出動を得た(大野,1987).
(3) 日本赤十字社日赤は群馬県支部を中心に,関東6県及び山梨・静岡県の支部および赤十字病院から看護婦・助産婦を延べ623名,実人数360名を派遣した.8月13日には生存者救出と現地に集合した家族のケアを,14日から9月28日まで遺体の検案と処置,身元確認の支援,遺族のケアを行った.訓練された行動が信頼を得て,看護職では中心的な役割を担った.出動した救護班数は変則のものも含めて延べ154班,1,033名(うち医師98名,看護職623名,その他312名),総費用は約2,400万円であった(資料③).
(4) 日本航空日本航空(以下,日航)からは医師130名,看護婦103名が派遣された.日航の関係者は検案には携わらなかったため,小中学校の体育館に集まった家族の巡回診療を行ったと考えられる(資料①).
以下では,特別に記載する必要がない限り,保健婦,助産婦,看護婦は「看護婦」と記載した.
2) 遺体の検案と処置,身元確認の場藤岡市は墜落現場から直線で45 kmの場所である.現地で収容され,遺体袋に包まれた遺体は,まずヘリで藤岡第一小学校グラウンドに,次いで霊柩車で検案場所である藤岡市民体育館に運ばれた(村田・福田,2017).
藤岡市民体育館は約1,760 m2の広さで,西側約3分の1が検視場所にあてられ,床にビニールを貼って,22体の検視が行えるように配置されており,家族も立ち入れない場所となっていた.北側3分の1が検視を終えて棺に納められた遺体の安置場所であり,当初,ここに家族が呼ばれ身元確認を行った(太田,1986).
体育館は全部裏付きの黒のカーテンによって完全に遮断され,外気温の上昇と共に40度に達した.死臭,エンジンオイルの臭い,クレゾール消毒液,消臭剤,蛆殺し,菊の花,線香等の香りがまじりあって悪臭がした.ガーゼを何枚も重ねたマスクや活性炭入りマスクを着用し,汗止めのためのタオルを首に巻き,白手袋の上に手術用ゴム手袋をして,膝をつく姿勢での作業であった.16日からは日航により冷房が設置された.
検案後の遺体は身元確認がなされたものは藤岡高校体育館に,16日以降は身元不明の遺体は藤岡工業学校と藤岡女子高校の体育館に安置された.
3) 活動の時間的経過8月14日初日は9時41分から遺体の搬入が始まった.看護婦は医師会から34名と日赤から23名が検案の支援を行った.ヘリでの搬送が打ち切られる18時までに到着した遺体はその日のうちに全て検案する方針となり,269遺体(うち完全遺体111体,遺体区分については後述参照)の検案が行われ,翌15日午前2時半で終了した.人手が足りず,県警の要請により,日赤は午後から救護班2個を出動させ,医師会は夕方以降の作業のため多野総合病院から看護婦の出動を得た.
15日は9時から翌16日午前4時半まで行われた.検案遺体は436体(うち完全遺体157体)でピークであった.現地対策本部での協議により,医師は県医師会の責任者が,看護婦は日赤群馬県支部の婦長が統括することになった.医師会は通常診療を維持するために時間帯を午前,午後,夕方の3つに分けて出動,県は人員が少なくなる夕方を担当した.休憩をとる体制も整えられたが,この日は翌日の明け方までの活動となり,疲労が増大するなかで効率も求められるジレンマがあった(資料③).
16日は9時から翌17日午前2時半まで行われた.検案遺体は282体(うち完全遺体は137体)であった.現地に大型ヘリポートが完成し,部分遺体が多数運ばれた.日航より冷房機が搬入された.17日,現場は霧が深く,ヘリが飛べないため18時すぎに終了した(竹下,1986).日赤は支部毎に救護班を交代させていたが,群馬県内を除き,1泊2日で1日目は午前から夕方まで活動し,2日目の午前に次の救護班に引継ぎをし,帰院する体制を整えた.18日には遺体の状態が悪化し,歯形・血液型判定による身元確認が中心となった.
19日からは対策本部の申し出により医師は医師会から,看護婦は日赤から派遣することになった.21,22,23日,遺族を載せてヘリが現地上空を飛んだ.現場での捜索活動は8月27日まで行われた.8月30日夏休みも終わり,授業が始まるため,3つの高校に安置されていた遺体が藤岡市民体育館に搬送され,集約された.
8月28日から9月28日まで,看護婦は群馬県の前橋および原町の赤十字病院の約2名の体制となり終了した.9月1日上野村,12日藤岡市の現地対策本部が縮小され,29日身元確認場所が県警機動センターに移された.10月5日,20日身元不明遺体出棺式及び合同火葬が行われた.検案は12月11日,身元確認は12月19日に終了し,12月21日収骨供養が行われた(資料④).
2. 看護婦の活動 1) 検案の支援県警の統括のもと,検視は当初,警察官(鑑識課員及び身元確認班)5~7名,警察医・医師は外科系と内科系でペアを組み,歯科医師(随時2名)も加わり,看護婦等2名程度の10~12名を一組として行われ,更に群馬大学の法医学教授が参加,助言する体制をとった.
検案は,棺から出され,毛布に包まれた遺体に,警察官の号令で一同手を合わせ一礼し,開始された.丁重に遺体を取り出し,ビニール布を張った床に安置した後,看護婦が付着した小枝,小石,草木の葉などを取り除いた.水汲み場を往復し,バケツの水を取り替えながら清拭をし,被服は丁寧に脱がせ,身元確認につながる遺留物を流してしまわないよう細心の注意を払って洗浄し,洗浄後はビニールの上に広げた.
遺体は墜落時,前列のシートに頭を打ちつけた衝撃により,上顎から頭側が粉砕されたため,下顎だけが残り,それに頭部及び顔面の皮がつながっており,眼球も飛び出しているか,失っている状態であることが多かった.またシートベルトにより腹部が離断され,内臓が飛び出した状態で,全身の骨折,四肢の離断喪失をともなっていた.墜落後のジェット燃料の火災による高熱で炭化した遺体も多かった.
時間が経つにつれ部分遺体となり,腐敗が進み,蛆が群がった.変形,腫脹し,強く拭くと皮膚や髪が剥がれるため,静かに泥を落とす程度とした.衣類などは膿様の汚物や蛆がべったりと染みつき,洗浄してもなかなかきれいにならなかった.体育館では1年分の水道量を一か月で使用,体育館の外で汚水が異臭を放っていた.
県警の検察班及び警察医が遺体の計測を行い,写真撮影をした.頭部から足まで順を追って,損傷部位を含め,全身の所見を記録し,特に後日のため頭髪,手術痕,マニキュア,爪,指紋など特徴のあるものはすべて写真撮影し,また顎骨,歯などが残っていれば歯科医が所見を取り,必要であれば歯形,Ⅹ線撮影をした.着衣,装身具についても詳細な記録が採られ,看護婦もそれらについての質問に応じた.死因,死亡時刻などを判断する医師の検案が行われた.
どの看護婦も最初に遺体を見たときには衝撃を受け,手足がすくんだが,仲間や関係者の働きをみて,自らを奮い立たせた.警察の指示に従い,自らできることに着手して,作業を分担していった.落ち着いてくると,遺体や遺品などからその人の人生を思いめぐらせ,墜落までの恐怖,理不尽にも命を奪われたことへの無念を思った.大切な家族を失うだけでなく,凄惨な遺体に対面しなければならない家族の気持ちを想像し,たとえ肉片であっても大切に扱い,遺体を清め,整えようという気持ちへと変化していった(日本赤十字社振興部報道課,1986).
検案遺体2,065体のうち,完全遺体は492体(23.8%)であり,それ以外は離断遺体等(分離遺体・移柩遺体含む)であった.完全遺体は頭部が残るものをいうが,頭部といっても頭皮のみが残るものも多かった(群馬県歯科医師会,1986, pp. 21–22).死因は「全身打撲,離断など」が57.5%,次いで「脳挫滅など」が36.3%で,この両者で94%という大部分を占めた.炭化していた遺体もあったが,死後に火災に見舞われたものと判定された(大國,2001).
2) 遺体の処置検案が終わると,家族が確認する時に見苦しくないように,看護婦により遺体は清められ,整えられた.比較的五体の揃った遺体はクレゾール清拭をし,後頭部や体腔に綿花や新聞紙を詰めて三角巾で形を整えた.裂傷などは可能な範囲で縫合した.その後,家族が確認しやすいよう警察官が指示した部分,たとえば下顎骨のあるものには口元,マニキュアをしている手先,前髪と耳などを露出させ,包帯をした.人目に晒されないようT字帯を付け,晒木綿半幅の繃帯で巻いて整え,シーツは死者に着せるように右前に合わせた.腐乱が進み,ぐずぐずと崩れそうな部分遺体,炭化した部分遺体は,蛆を払い,なるべくきれいにして,ビニール袋に収容し,三角巾や包帯で巻いた.これらの遺体はビニール袋に入れた衣類等とともに柩に納め,周囲には日航が用意したドライアイスが詰め込まれた(資料③).
3) 身元確認をする家族への支援事故の翌日である8月13日には藤岡市民体育館に,乗客名簿から身内の事故を知った家族が約2,300名集まった.最も多かった15日,16日には約3,000名に上った.県は待機場所として市内5か所の小中学校の体育館を用意した.家族はあくまでも生存を願っているので,検視が行われ,身元が確認されるまで,決して「遺族」という表現をしないようにと,関係者には配慮が求められた(資料①).
14日から藤岡市民体育館に,遺体の家族と思われる者が呼び出され,身元確認が行われた.15日から1家族につき2名が体育館に入れることになった.16日からは収容しきれなくなった身元不明の遺体が藤岡工業学校と藤岡女子高校の体育館に安置され,家族による直接の身元確認が行われた.悲鳴とともに倒れる者が続出し,看護婦による救護,場合により病院搬送の付き添いが行われた.
家族は棺の上にある「肉片」や「炭化している」と書かれた紙を頼りに,検察医の立ち会いのもと遺体を確認した.棺を開き,取り出した遺体は完全に凍っていた.看護婦は遺体を傷つけないよう,時間をかけて水に浸けたり,ドライヤーで温めたり,しっかりと巻かれた包帯や布を解き,確認できる状態にした.身元確認がなされる前に行われた丁寧な処置とドライアイスによる凍結が,却って身元確認の際に手間を要したことが反省の一つになった(有田,1986;金田,1986).
家族の待機場所である小中学校には8月14日から25日まで,県から保健婦や看護婦が派遣され,日航医師とチームで巡回診療を行った.家族はプライバシーもないまま,固い床の上で耐えていた.看護婦は気になる人に言葉をかけ,血圧測定を行い,医師の診察につなげようとしたが拒否するものも多く,日航職員と衝突する場面もあった.やがて毎日のように力を振り絞って,多くの棺を見て回り,支えられ帰ってくるとそのまま倒れこむような人が増えた.次第に話し声も少なくなり,食事を受けつけなくなる人が増え,点滴で対応した(群馬県在宅保健師「さちの会」,2016, pp. 11–12).
身元確認では,関係者の多くが家族に遺体を見せることをためらった.昔ながらの慣行で,親族のうち相応の年齢にある男性が選ばれ,確認した.その場で関係者から「見ないほうがよい」と言われ,対面せずにお別れした者も多かった(河村,2005, pp. 126–30).野田(2000)も遺族の一人である美谷島(1991)も,この事故の特異性として,遺体の確認が困難であったことをあげる.そして何もしないで受け容れた人に悔いが残ったこと,足掻いてぶつかってでも遺体を確認した人の方が,その後の喪のプロセスはスムーズだったと述べる.
実際,どの家族も疲労しつつも真剣なまなざしで,亡くなった身内を探していた.手袋をした手で肉体の部分をとって,つめや指の長さや手の形をみたり,黒子などの身体的特徴があるかどうか包帯を解いて見せてほしいと要望した(加曾利,1986).その執念には関係者の側がたじろぐほどであった.家族にとっては遺体の一部であっても見つかること,また遺体が誰であるかが分からなくても,歯型や遺品などで自分の身内であることが分かることが気持ちの上での一つの区切りとなった.そのことが身内の死を現実のこととして受け容れる一歩となっていた.
夕方になってやっと下の歯の一部が見つかった.嬉しかった.たったそれだけなのに抱きしめたい気持ちだった.私達は続けた.・・・(中略)・・・思いが通じたのか,ちょうど上の噛み合う部分を見つけた.少し今までとは違う気持ちになっていた.一緒にいる! みんな涙をこらえた.その夜は少し落ち着いてゆっくり眠れた(森下,1991).
ワイシャツの襟を三十分以上もかけてこすったり,水で洗ったりして根気よく見つめる女性.その間ずっと付添って手伝う日赤の看護婦さん.泥にまみれて薄く滲んだイニシャルは中々読み取れない.何という文字に見えますか,と尋ねられたが泥と油に汚れていて何とも確認できない.それでも最後にはこの娘さんはお父さんのワイシャツと断定する手がかりをつかみ,間違いありませんと叫んで絶句した.そして涙をこらえながら遺体を引き取る手続きをした(若林,1987).
ある家族は,柩から取り出した遺体を,直接手にとって見せてくれる看護婦に接し,「遺体に対して尻込みそうな私の気持ちは吹っ切れ,遺体に喰らいつくようにして特徴を探すようになった」(川上,1987, p. 162)と述べた.
身元の判明率は520人中518体の99.6%であり,炎上航空機事故としては極めて高かった.主な身元確認の理由は,顔(対面)が11.6%,身体的特徴が5.8%であり,指紋が44.4%,歯形が15.1%,着衣が12.4%,血液型0.8%であった(群馬県歯科医師会,1986, pp. 23–24).顔や身体的特徴など,遺体との対面による身元確認は少なかった.身元の判明率は高かったが,遺体の一部としか対面できなかった家族は多かったと思われる.
4) 整体と納棺身元が確認された遺体は,遺族の希望を聞いて整えた.金田という日本赤十字社医療センターの看護婦長が名付けた「整体」は,その場で亡くなった方の身長や体重を聞いて,段ボールの長さを決め,人型に形成し,その上から包帯やシーツで巻いて,生前のその方に近い状態に修復するものである(表3).金田は8月18日,遺体を「きちんとしてほしい」と要望され,骨折などにボール箱などを利用するのを思い出し,整えた.ふたたび8月24日から26日にかけて派遣された際,18日に行った処置を思い出し,遺族の意向を聞きながら,右手だけなどの部分遺体に対しても全身を形づくる整体を行った.整えられた遺体には,遺族が持参した衣類を着せて,心づくしの品とともに柩に収めた.遺族からは涙ながらに感謝された(金田,1986).
| 必要物品 段ボール箱(大きめのもの1辺が50 cmほどあるとよい),ガムテープ,シーツ,新聞紙,青梅綿,さらし布,布紐または繃帯 |
| 整体作成にあたって―まず気配りを |
| 故人の身長・体重などの特徴を遺族に伺う.旅立ちのためにお着せするもの,遺体とともに棺に納めたいものなど,遺族の希望があれば,できるだけそれに沿うように努力する,希望があれば遺族にも整体に立ち会っていただくとよい.遺体の取り扱いは慎重にする,というに遺族は神経をとがらせているので,言動には十分に気を遣うこと. |
| 1.人型を作る |
| 2.頭部を作成する |
| 3.胴体部を作成する |
| 4.頭部を整える |
| 5.遺族が希望する衣服を着せる |
| 6.衣服の準備がない時は,人型の下のシーツで「着物」を作る |
| 7.肩を整える |
| 8.頭部を固定する |
| 9.遺族の希望があれば,上肢を形成して合掌しているように見せることができる. |
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写真:整体.日本赤十字社振興部報道課(1986):救護体験記―60・8・12 日航機墜落事故現場から―,日本赤十字社,東京,p. 368,p. 374より転載許可を得て掲載
コチコチに凍った焼けた体,髪の毛のついたお顔のない少女に,お母さんが持ってきた華やかな着物をどうして着せてあげようか.遺体が解けたときのためにビニールで巻いてその上に白布で巻き,上から着物をかけてあげ帯を前で縦に結んであげた.みんなでお礼をして見送ると母親も何度もお礼を言って行かれた(加部,1986).
すでに検案の2日目から,綿花や新聞紙を用いた頭部の修復,折りたたんだ新聞紙や段ボールを添えての包帯,白いシーツを着物に見立てて着せるなど,部分的な整体が行われていた(資料③).その延長に生まれたのが全身の整体であった.関係者以外の立ち入りが禁止され,他に適切な材料がないなかで,死者の尊厳を回復させ,家族の苦しみを和らげるために,手探りのなかで生み出された.この技は一部の救護班に引き継がれたが,すべての遺体に行われたわけではなかった.
3. 活動後の振り返り藤岡市保健所の保健婦は,これまでに経験がなく,見当がつかないなか,多くの管内保健婦の応援を得て活動できたことに感謝し,事故の凄惨さを思い,死者への冥福を祈る言葉を述べた(資料②).藤岡多野医師会の看護婦は,少しでも役に立てればと出動したが壮絶な現場であり,生命の尊さを再確認したと振り返った(藤岡多野医師会編,1987, pp. 115–116).日赤の看護婦は,同じ内容の感想とともに,課題として情報伝達と医師が不在の救護班編成の場合の看護婦のリーダーシップをあげた(資料③).
活動に参加した看護婦のなかには数か月,数年経っても,その時の光景や感情がフラッシュバックし,食欲不振や不眠などの症状を呈する人がいた.医師や看護婦も深く傷ついていたが,当時は救援者のストレスという概念は知られておらず,デブリーフィング等の必要性は認識されていなかった.
この事故では看護職は,遺体や遺品から,死者の生前の姿を思い描き,死者を一人の人間として,また家族などの身近な人々の大切な存在として捉えていった.さらには突然の死を余儀なくされた死者の無念と,損傷の激しい遺体で対面する遺族の心痛に思いを馳せた.Morse et al.(2014)によれば一般に看護職は,職務上必要とされることから相手の体験を共有し,苦悩に反応しようとする傾向があるという.それは死と看取りの場面においても同じであり,中本(2003)も医療の場において最後のお見送りの瞬間まで,生きている人として死者に対応しているのは看護職であると述べる.この事故では看護職は遺体を清め,傷を隠し,必要以上に人目に晒されないようにし,さらには可能な限り美しく整え,家族の元に返そうとした.これらの行為は,事故で亡くなった人々の存在の大切さを受けとめ,その苦悩を和らげようとして生まれた死者の尊厳を守る実践であったと考える.
看護職は遺族に対しても,納得できるまで遺体を探すのを支援し,身元確認後にはあらためて遺体を整え,遺族がもう一度,遺体に手を触れ,お別れをする場を整えた.遺族にとっては,この事故は全く予期していなかった死別であり,後悔や罪責の念にさいなまれるだけでなく,遺体と対面できず死の実感すらもてない者も多かった(藤代,2021).野田(2000)が述べるように,遺族にとって遺体を探すため精一杯の努力をしたという事実が,死を受け容れる一歩となった.また波平(1986)は日本人にとっての遺体の重要性を説くなかで,遺族は死者が安らかな顔で眠っていることに慰めを見出すのであり,事故死などでは特に手厚い弔いを必要とすると述べる.今日では災害時に遺体を整えるのは,遺体と対面したときの遺族の心理的衝撃を和らげ,身元確認を容易にするためとされるが(藤代,2012),この事故での看護職の実践には,遺族がお別れの場面で自分でもできるだけのことをした,周囲からも手厚く弔われたと思えるようにする意味も含まれたと考える.
この事故では遺族支援の一環として,看護職が身内の死が確実なものと分かり,泣き崩れる遺族に寄り添い,泣き止むまで傍にいたり,あるいは失神して病院に搬送される際に付き添ったりもした.中島ら(2012)は,災害直後の遺族への情緒的支援の一つに,傾聴や寄り添いなどの非言語的アプローチをあげる.人為的事故であり,遺族の悲しみや怒りは強く,かけられる言葉は多くなかった.寄り添い,傍にいて,話を聞き,気持ちを態度で表すこと,そして一部の遺体や遺品のみであっても,生きている人に対するのと同じように,礼節を失わず,丁寧に大切に取り扱うことが,看護職を含めた救援者に求められ,行えることであったと考える.
2. 看護実践を生み出した状況とその基盤となったもの事故発生の当初,看護職にとって生存者がわずかしかいない状況は想定外であり,遺体の損傷の凄まじさは衝撃であった.普段とは異なる環境であり,作業内容の見通しがつかないなか,対策本部の指示や関係者との連携のもと,各組織の事情や看護職の能力に応じ,活動する体制が整えられた.また関係者からの信頼を得て,看護職が活動を統括するリーダーとなって体制づくりが行われ,活動が組み立てられた.その活動は,通常では看護職が携わることのない遺体の身元確認や引き渡しの場面にまで及んだ.そのようにして結実したのが整体という技であった.
看護職が遺族への支援を行った背景には,旅客機事故の特徴として,多数のかつ損傷と腐乱の激しい部分遺体が生じ,身元確認作業に想定以上の人手や時間を要したこと(前田・比嘉,2006),人為災害であり,遺族の怒りや悲しみは強く,丁寧な遺体のとり扱いと遺族への配慮が必要であったことがあげられる(舩木ら,2006).これに加え,訓練を受けた日赤の看護職が過酷な現場でもきびきびと行動する姿が評価されるとともに,死と看取りの場面での実践における看護職の専門性,すなわち日々の実践での看取りの経験を通じて獲得した看護の知識と技術が,この事故では評価されたと考える.
野田(1997)は,災害時,平時の制度化された活動を不慣れな環境で行う,医療のような組織において,創発的な活動を形づくるのは,平時において広い意味での知識のストックとして潜在している組織の価値,規範,信念,知識,技術,伝承などであるという.死者の尊厳を守り,遺族がお別れする時間を大切にすることは,看護職が看取りの場面で最も大切にしている看護の基本である.整体という技についても無から生じたのではなく,看護職が日々の実践で大切にしている死や看取りに関する価値や信念,蓄積された知識や技術をもとに創発されたと考える.
一方で,整体については大切な遺体に段ボールなどの廃材を使用したことへの批判もあった.関係者以外が立ち入ることができない場でやむを得なかったが,適切な材料があればよかったとの反省がある(河村,2005).支援の実際は,その時代や状況に応じてあらたに創りだしていく必要がある.
3. 救援者のストレスと語られなかった体験この事故ではまだ災害救援者の惨事ストレスは知られていなかった(伊藤,1999).業務を通してストレスを感じることは経験のなさ,適正のなさとして片づけられることも多い時代だった(加藤,1998).初期の段階では,通信手段の限界もあり,業務内容を知らされず,損傷の激しい遺体に手で触れて処置をするなど,心的外傷になりうる体験をした.また理想とする看取りとかけ離れた遺体の姿やお別れのあり方に,看護職として葛藤し,罪悪感や無力感を抱いた.人為災害でもあり,遺族の怒りや悲しみは強く,その反応を受けとめる負担も大きかった(金,2003).
重村ら(2008)は災害遺体に携わる救援者のストレス対策として,職務の重要性,誇り,目標を忘れないこと,業務前に業務内容の詳細を知り,心の準備をし,刺激の少ない業務からはじめ,徐々に慣れるようにすること,経験者から話を聞くこと,清潔を保ち,水食料,休憩などをとることをあげる.他にも遺体へのかかわりを最小限にし,職務として関与すること,遺体や遺留品に感情移入しないことをあげるが,先に述べたように看護という職務の性質上,感情移入を避けることは難しい可能性があり,そのストレスには十分な配慮が必要と考える.
この事故で活動した看護職の多くが,その後も口を閉ざし,当時の体験を語ることに困難さを感じていたことが知られている.事故から38年を経て,語ることのできる体験もあると考えられる.それらの語りを聴き,彼らがこの体験をどのように振り返り,意味づけているかを明らかにすることが今後の課題である.
4. 実践への示唆本研究からは,突然の事故や災害における死者と遺族への支援は,法医学的,衛生学的な見地,業務管理的な見地からだけでなく,看護の視点からも検討する必要があること,その際,支援を形づくるのは,死者の尊厳を守り,遺族のお別れの時間を大切にする看護の基本であること,災害のように普段とは異なる環境で,関係者との連携のもとに,看護が専門性を発揮し,活動するには平時からの訓練が必要であること,この災害では実施されなかったが,遺体の処置や遺族対応をする看護職のストレス管理の必要性が示唆された.また過去の実践事例の蓄積を通じて看護支援の有用性を示していくことが,災害時の死者と遺族への支援の拡充につながると考える.
看護職は,損傷の激しい遺体の処置を通じて,死者の尊厳を守り,死別を経験する遺族への支援を行った.整体は,生存者がわずかという想定外の状況,普段とは異なる環境,作業内容の見通しがつかないなかで看護の基本に基づき創発された実践の一つであった.
付記:本論文の内容の一部は,第24回日本赤十字看護学会学術集会において発表した.
謝辞:本研究は令和3,4年度学校法人日本赤十字学園赤十字と看護・介護に関する研究助成のもと実施した.
利益相反:本研究における利益相反は存在しない.
著者資格:内木美恵・川原由佳里が研究の着想,デザインに貢献,すべての著者がデータの収集と分析に関与し,最終原稿を読み,承認した.
①群馬県(1985–1986):日航機墜落事故関係,群馬県立文書館所蔵
②群馬県藤岡保健所(1985):保健所活動概要 昭和60年度,群馬県立図書館所蔵
③日本赤十字社(1985–1986):日航機123便墜落事故に関する救護関係資料,日本赤十字社所蔵
④群馬県(1986):日航123便墜落事故対策の記録1986年3月,群馬県立文書館所蔵
⑤群馬県地方自治研究センター編(1986):日航機墜落事故・自治体職員の活動,群馬県立図書館所蔵
⑥群馬県総務部消防防災課編(1986):日航 123 便墜落事故対策の記録,国立国会図書館所蔵
⑦日本赤十字医療センター救護班(発行年不明):救護記録昭和60年日航機事故,日本赤十字医療センター救護班,私家版
⑧金田和子(発行年不明):整体(破損のひどいご遺体を整復する1方法)昭和60年8月12日午後6時日航機御巣鷹山に墜落事故の救護にあたって,私家版