抄録
本研究の目的は,「ナラティヴの重奏化」という方法を用いて,人間が日常生活を営む中で経験する多様な関係と心理学的存在としての具体的個人の実像との双方を描き出すことにより「文化心理学」の問いを深めることにある。本稿の前半では,「文化に埋め込まれた主体」へのアプローチと「主体に埋め込まれた文化」へのアプローチという 2 つの枠組みを用いて先行研究を検討し,本研究の必要性を明らかにした。この検討の結果,人間研究への心理学的なアプローチにおいて,人々の生きた社会的諸関係の現実と,関係の中に生きる心理学的存在としての具体的個人とを,いずれを捨象することもなく同時に描き出すことの必要性が確認された。本稿では,こうしたアプローチを実現するための具体的な方法論の一つとして「ナラティヴの重奏化」を提案する。「ナラティヴの重奏化」は,ナラティヴアプローチを展開したデータの分析方法であり,同じコンテクストに居合わせた複数の人々が語ったナラティヴを重ね合わせることによって,人間的な現実を意味づけようとするものである。