昭和初年, 瀬戸内海国立公園の選定に携わった脇水鐵五郎と田村剛は, 鷲羽山から見る備讃瀬戸の多島海景を絶賛し, 国立公園の核心部を得たと自信をもった。この多島海景がそれ以前のものとどこが異なるのか, 中世から近代にかけての紀行文等に記された多島海景を分析し, 多島海景の変遷を考察することによって明らかにした。多島海景は, 江戸後期にシーン景, パノラマ景, シークエンス景として賞賛されたが, 明治後期にシークエンス景への傾斜がみられ, その後パノラマ景への転換の兆しが現れ, 脇水と田村がこの転換を押し進め, 新しいパノラマ景を見いだしていった。しかし, このパノラマ景を見いだした視覚も徐々に準備されていたものではあった。