抄録
本稿は、17世紀初頭以降、港市スーラトの港湾機能を担ったスワーリー港に着目し、同港の利用開始以降に施設やその利用に関する制度が整備される過程を検討する。その上で、同港が港市スーラトの一部を形成するようになったということを議論する。
スーラト県知事がイギリス東インド会社に対して停泊地として紹介し、スワーリー港の利用は始まった。ヨーロッパ船のタプティ川遡航を禁止するというムガル朝側の思惑もあり、同港は主にヨーロッパ諸会社の船が利用した。ヨーロッパ人は周辺に住居や倉庫も建設し、防御施設も整備した。スーラト市との間の輸送には陸路と水路の両方が用いられた。このように、スワーリー港は港市スーラトの港湾機能の一部を担うようになった。一方、17世紀前半に、関税徴収をめぐる問題を契機として、同港は事実上スーラト県知事の管理下に置かれた。かくして、スワーリー港は港市スーラトの一部を形成するようになったのである。