薬学教育
Online ISSN : 2433-4774
Print ISSN : 2432-4124
ISSN-L : 2433-4774
誌上シンポジウム:薬剤師のプロフェッショナリズムと感情労働―葛藤・ジレンマ・苦悩の医療現場で医療者としてあるために
医療者教育課程における感情の位置づけをめぐって
―感情労働という概念を起点として
鷹田 佳典
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2025 年 9 巻 論文ID: e09018

詳細
抄録

社会には感情に関する細やかな規則があり,われわれはそうした感情規則に従って感情を管理しながら日常生活の秩序を維持している.こうした感情管理が職業的に求められる仕事を,社会学者のHochschildは,感情労働と呼んだ.この感情労働という概念は,看護の領域で大きな関心を集め,その後,医師の仕事も感情労働としての側面を有することが明らかにされていく.対人関係の重要性が増す薬剤師の仕事においても,今後感情労働の比重が高まることが予想される.医療者教育課程においては,隠れたカリキュラムを通じて感情の社会化が行われるが,これまでは感情抑制に重点が置かれてきたために,医療における感情の存在が軽視される傾向にあった.本稿では,新しい医療者像という観点から,これからの医療者教育課程における感情の位置づけについて若干の問題提起を行う.

Abstract

Everyone manages their emotions according to societal rules, especially at work, which is referred to as “emotional labor.” This concept has attracted great interest in the medical field for nurses, doctors, and pharmacists because of the necessity of interpersonal relationships. In medical education programs, emotional socialization is a hidden curriculum, but with an emphasis on suppressing emotions and neglecting the presence of strong emotions in medical care. This paper will raise some issues regarding the position of emotions in future medical education programs from the perspective of new healthcare professionals.

本稿は,2024年8月18日に行われた第9回日本薬学教育学会大会のシンポジウム「薬剤師の感情労働とプロフェッショナリズム―葛藤・ジレンマ・苦悩の医療現場で医療者としてあるために」での報告内容に加筆修正を行ったものである.以下ではまず,感情労働とは何かについて概説した後(第1節),看護師と医師の仕事が感情労働としてなされている側面があることを確認する(第2節).続いて,医療者教育課程における「感情の社会化」メカニズムのポイントを整理し(第3節),最後に今後の医療者教育課程において感情をどう位置づけていくのかを,新しい医療者像という観点から検討する(第4節).

 1.「感情労働」とは?

既にご存知の方も多いと思われるが,「感情労働(emotional labor)」というのは,1980年代にアメリカの社会学者A. Hochschildによって提起された概念である1).これまで労働には,主に肉体を使う「肉体労働」と,主に頭脳を使う「頭脳労働」の二つのタイプがあると考えられてきたが,Hochschildはそれらに加え,主に感情を使う「感情労働」という第三のタイプを提起した.

われわれの社会には(公式/非公式のものも含め)さまざまなルールがあるが,感情についても微細なルール(約束事)が存在する.例えば親しい人の葬儀では一般に,「悲しい」とか「寂しい」という感情を抱くことが適切とされている.こうした感情に関する規則の総体を「感情規則(feeling rule)」と呼ぶが,日常生活ではときに,感情規則に照らすと不適切とされる感情を経験したり,あるいは適切とされる感情を経験できなかったりということが生じる.先の葬儀の例で言えば,昔お世話になった人の葬儀に参列したものの,故人の遺影を見ても全く悲しいという感情が湧いてこないという状況がそれに該当する.このとき,そうした事態が周囲に露見すると,他の参列者から「冷たい人だ」と非難の目を向けられたり,場合によっては葬儀場の空気を壊したりすることになりかねない.また,当人も,「自分はなんて薄情な人間なんだろう」と自己嫌悪に陥るかもしれない.

こうしたリスクを回避するために,われわれは感情規則に違反した際に,「感情管理(emotional management)」と呼ばれる作業を行うことになる.この感情管理には大きく二つのやり方がある.ひとつは当該状況に適切な感情を感じているふりをする「表層演技」,もうひとつは当該状況に適切な感情を自分の中に作り出す,ないしは不適切な感情を抑制する「深層演技」である(もちろん二つを組み合わせることもある).われわれはこうした感情管理の手法を駆使して,他者との相互行為場面を秩序立ったものにしているわけだが,それが仕事として強く期待されるのが感情労働に他ならない.

感情労働は一部の人が従事する特殊な仕事ではなく,対人サービス業を中心とする第三次産業が中心を占める現代においては,大半の労働者が,(程度の差はあるにせよ)従事する労働形態となっている.Hochschildは感情労働について三つの要件を挙げている.①対面や声による顧客との接触が不可欠である,②感情労働に従事する者は顧客のなかに何らかの感情変化を起こさせなければならない,③研修や管理体制を通じて労働者の感情活動が一定程度雇用主から支配される,の三つである.これらの要件をいくつ満たしているかが,その職業の感情労働の度合いを測るひとつの目安となるだろう.

では,医療者の仕事は感情労働と言えるのだろうか.また,医療者の仕事の特性を考える際に,感情社会学はどのような新たな視座を提供してくれるのであろうか.次にこの問題について考えてみたい.

 2.医療者と感情労働

感情労働という概念が社会学以外の領域でいち早く注目を集めたのは,看護の領域であった.例えばイギリスのN. Jamesは,1980年代にホスピスで実施した調査をもとに,死にゆく患者をケアする看護師の仕事が,肉体労働の側面だけでなく,感情労働の側面を有することを明らかにした2).また,1990年代に入ると,看護研究者のP. Smithによって,『The Emotional Labor of Nursing(邦題:感情労働としての看護)』が上梓され3),看護学生や看護師の実践を感情労働として研究することの有用性と可能性が示された.日本でも,Smithの本を日本語に訳出した武井麻子が,看護と感情労働に関する先駆的研究を行っている4).その後も看護と感情というテーマについては多くの研究が国内外で積み重ねられている.

一方,看護師とは対照的に,医師の仕事における感情労働的側面が本格的に議論されるようになったのは,2000年代以降のことである.その背景には,医師が医療専門職者の中で,「感情抑制」をより強く求められてきたということが関係しているだろう.現代医学においては,科学的厳密性や客観性,「感情的距離化(emotional detachment)」が重視されているが,GuidiとTraversaはその源流として,アメリカの医学教育改革に大きな功績を残したA. Flexnerの存在を挙げている5).Flexnerは今世紀初頭,「病気との闘い(battle against disease)」を医学の目標として設定し,それは厳格な自然科学の訓練を受けた臨床医によって達成されると考えた.治療に必要なのは病気の生物学的・生理学的メカニズムの解明とされ,病いの人間的・道徳的側面に十分な関心が向けられることはなかった.またそのなかで,感情は医師の冷静な判断を曇らせるものとして,臨床行為から切り離すべき対象として認識されるようになっていく.こうして感情抑制的態度が,医師に「最も強く望まれる理想(most coveted ideal)」として長らく位置づけられてきたことが,医師の仕事を感情労働として捉えることを難しくした背景にあると考えられる5)

しかし,2000年代に入る頃から状況が変わり始める.いくつかの要因が考えられるが,医師自身が自らの豊かな感情経験,特にそれまで医療現場では,「弱さやコントロールの欠如,無能さの徴(sign of weakness, lack of control, or incompetence)」6) として否定的に評価されることの多かった感情注1) の存在について,真摯な言葉で語り始めたことの影響は大きい注2).いずれにしても,それまでは感情管理の徹底によって医師の内面に押しとどめられていた感情経験が,少しずつ語られるようになってきたのである.こうして医師と感情というテーマへの関心が高まるなかで,感情労働という観点から医師の仕事を読み解こうとする試みも,少しずつではあるがなされるようになってきている912)

筆者自身,医療者を対象にした従来の研究の中で,感情,特に患者の死をめぐる感情が十分に扱われてこなかったことに疑問を抱き,ここ10年あまり,看護師や医師を対象としたインテンシブな聞き取り調査を重ねてきた.Smithが言うように,患者の死は医療者にとって「究極の感情労働」が求められる場面だと言ってもよい3).しかし,これまでは看取りに際し,「プロ」としていかに感情をコントロールし,冷静に振る舞うかという点ばかりが強調され,そこで医療者が経験している複雑な感情や,それに関連する多様な感情管理の内実が描き出されることはなかった.そこで筆者は,小児領域の医療者を中心に,患者の死をめぐる経験についての聞き取りを続けてきたわけであるが,調査からみえてきたのは,医療者は患者の死によって,ときに「悲嘆(grief)」と呼んでよいような感情を抱くことがあること,しかし医療現場においてはそうした感情を表出したり,誰か(同僚や遺族等)とそれを共有したりすることは難しく,基本的には一人で対処することが期待されているということであった13,14).さらに,患者の死をめぐる感情規則は複数存在し,そのなかで医療者は繊細な感情管理を行っていることも確認された15)

もうひとつ,医療者の感情に関連して述べておきたいのが,2020年に世界規模で起きたCovid19の世界的流行である.とりわけ感染拡大の初期は,病気の機序も対応策もよく分からない中で,医療現場では増え続ける感染者の対応に忙殺され,医療者は文字通り不眠不休での業務を強いられた.それは身体的な疲労だけでなく,感情面でも深刻な影響をもたらすことになった.感染への恐怖はもちろん,物資や人員の不足によって,助けられたかもしれない命が亡くなっていくことへの無力感と罪責感,思うような看取りケアが提供できないことへの悔しさ,感染拡大防止に非協力的と思える行動をとる市民への苛立ち等,Covid19が医療者の感情面に与えた影響は甚大であった.LapumらはCovid19対応にあたったカナダの看護師にインタビューを行っているが,ある看護師が語った次の言葉は,その深刻さを物語っている.

心の奥底で(感情が)爆発しそうなんです……周りの人たちから私が受け取り,自分のなかで積み重なっていった全ての感情で,私はいまにも破裂しそうになっています16)

もちろん医療者は常にその実践の中でさまざまな感情を経験しているが,それは通常,感情管理によって制御され,目立たないようになっている.少なくとも患者や一般市民がその感情の機微を知る機会は多くない.しかし,今回のCovid19パンデミックは,そうした見えない医療者の感情を「際立たせ(accentuate)」17),その存在を社会全体に知らしめることになったと言えよう18)

こうしてCovid19の影響もあり,現在ではますます医療者の感情に対する関心が高まっている.今回のシンポジウムがまさにそうであったように,薬剤師の仕事に関しても,対人援助職としての役割が重要性を増す中で,感情あるいは感情労働に関する研究や議論が今後さらに広がっていくと予想される19,20).その際に主要なテーマのひとつになると考えられるのが,「医療者教育と感情」である.

 3.医療者教育課程における「感情の社会化」

前節では看護師と医師の感情労働について概観したが,もちろん医療者ははじめから感情管理がうまくできるわけではなく,専門職者としての教育や訓練を受ける過程でそのやり方を学んでいくという側面がある.こうしたプロセスを社会学では,「感情の社会化(emotional socialization)」注3) と呼ぶが,医療者教育課程を対象とした社会学的研究では,この感情の社会化のメカニズムについて長い研究の歴史がある.例えばアメリカの社会学者であるR. Foxが,1950年代にアメリカの医学部で行ったエスノグラフィ調査などが有名であるが22),ここではプロフェッショナリズムの話題にも言及しているSmithとKleinmanの研究を紹介したい23)

FriedsonやParsons,Foxといった社会学者が明らかにしたように,医師を含め,専門職は「感情中立性(affective neutrality)」を強く求められる仕事であり,また,そうした中立性が専門家の権威を支える要素にもなっている.しかし,医師の仕事は病気や死生といった人間存在の根幹部分に深くコミットするものであり,故に感情的に深く揺さぶられる場面は多い注4).また,人の身体(時にはその内部にある臓器)という,日常生活においては最も私秘的とされる対象を細部に至るまで眼差し,直接手で触れ,ときにはメスを入れるという感情的負荷が大きい行為も行わなければならない.したがって,医学教育においては,そうした場面においても冷静沈着に職務を遂行できるように,「感情管理戦略(emotion management strategies)」を習得することが要諦のひとつとなる23)

といっても,そのための明示的なカリキュラムが存在するわけではない.むしろ医学生は,「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」注5) を通じて,感情管理戦略を身につけていくことになる.例えばそのひとつに「分析的変換(analytic transformation)」というものがある.これは,人間の身体を,医学用語や専門知識を用いて,部品(パーツ)の集合体や解明すべき知的パズルへと認知的に変換することで,身体に刻まれた人間的親密さや個人的意味(それらは医学生のなかに強い感情を喚起する)を意識しないで済むようにする実践を指す.まさに「科学そのものが感情管理戦略」のひとつであり,医学専門用語は「学生を感情から遠ざける」のである.

こうして隠れたカリキュラムを通じた「暗黙の学習(tacit learning)」を重ねるなかで感情の社会化が進んでいくわけであるが注6),医学生はそこで患者から感情的に距離を取る方法だけを学べばよいというわけではない.同時に医学生には,患者を気遣い,共感を示し,苦しみに寄り添うことも求められているからである.つまり医学生は,「感じすぎてもいけないし,感じなさすぎてもいけない」のである28) .Foxはそれを,「距離を置いた関心(detached concern)」注7) という概念で呼び表したが22),この「両義的な(ambivalent)」30) 規範の間でバランスを見出すことは,熟練の医療者であっても容易ではない31,32).また,実際の医療現場では,患者から感情的に距離を置く医療者が好まれる傾向が強いため33),どうしても医学生は感情抑制を重視するスタイルを採用する方向に進んでいくことになる.

このような状況が半世紀余り続いてきたわけであるが,先に述べたように,こうした感情管理戦略は,「現実的な短期生存戦略(pragmatic short-term survival strategy)」としては有用だとしても,長期的には医療者のみならず,患者や医療システム全体にとっても弊害が大きいことが徐々に認識されるようになってきた26).それを受けて,改めて医療者教育課程のおける感情教育のあり方が問われているというのが現状である.本シンポジウムもそうした流れの中に位置づけることが可能であるが,最後に「新しい医療者像」という視点から若干の問題提起をして,本稿を閉じることにしたい.

 4.コンパッション:患者の苦しみに応答する医療者

医療者教育のあり方を考える際,重要になるのが,どのような医療者を育成するのかという理想の医療者像を想像してみることである.例えば医師について言えば,これまで支配的だったのは,「技術に優れ,理性的で,感情を切り離した医師(the technically skilful, rational, and emotionally detached doctor)」33) というものであった.これに対し,われわれはどのような新たな医療者像を思い描くことができるのだろうか.そのことを考えるうえで,アメリカの著名な医学教育研究者であるJ. Coulehanの議論が参考になる.Coulehanは,アメリカの医学教育における感情軽視の風潮に早くから警鐘を鳴らしてきた研究者のひとりである.とりわけ,明文化されたカリキュラムでは,共感や利他性,コンパッションが明示的な価値として強調される一方,隠れたカリキュラムを通して学生に伝えられる「暗黙の価値(tacit values)」は,感情的切り離しや自己利益,シニシズムといったものであり,こうした医学教育カリキュラムに内在する価値観の矛盾が,医師のプロフェッショナリズムを歪めている点を厳しく批判してきた27,34,35)

Coulehanによれば,こうした価値の対立構造の中で学ぶ医学生は,自分の職務を技術的なことに限定する「技術的(technical)アイデンティティ」か,患者から感情的に距離を置くことが明示的価値を体現する最良の方法と信じて疑わない「非自省的(nonreflective)アイデンティティ」に自らの専門性(プロフェッショナリズム)を見出すことで,価値の矛盾から生じる内的葛藤を解消しようとすることが多いという.これらに対し,Coulehanが第三の医療者像として提示するのが「コンパッションに満ち,患者の苦しみに応答するアイデンティティ(compassionate and responsive identity)」を備えた専門職者である34)

Coulehanは必ずしもコンパッション注8) を厳密に定義して用いているわけではないが,コンパッションが「苦しみ(suffering)」と密接に関係しているという指摘は重要である37).英語のcompassionは,「共に」を意味する “cum” と,「苦しむ」を意味する “patior” が組み合わせに由来する.つまりコンパッションとは「共に苦しむ」という意味を語源的に有するのである.既述のように,従来の医療者に求められてきたのは,むしろ「苦しみを寄せ付けないこと(keeping suffering at arm’s length)」であり37),感情的切り離しはそのための重要な手段であった.だが,苦しみに対するこのような考え方が優勢になっていくなかで,医療者が関心を向けるのは,「治すことができる(fixable)」ことに限定され,病むことの中核にある苦しみについては医療の範囲外とされるようになった点をCoulehanは問題視する.

Coulehanが述べるように,医療とは本来,苦しむ患者を助けたいという願望に突き動かされてなされる営みであり,その方法は狭義の医学的治療に限定されるものではない.では,医療者はどのように苦しむ患者を癒す(healing)ことができるのだろうか.そこで鍵になるのがコンパッションである.病いに苦しむ者にとって,その声にならない声に「耳を傾け,その辛さを認め,証人となってくれる(listening, affirming, and witnessing)」38) 他者の存在は大きな助けとなる.そこでは苦しみに応答してくれる(response)存在が求められているのである.つまり医療者に求められるのは,患者との間に冷徹な距離を取るのでも,技術的なことに自らの職務(専門性)を限定するのでもなく,患者の「苦しみに近づき(getting close to suffering)」37),感情的につながること注9) である.それが「共に苦しむ」ことを本義とするコンパッションを有した医療者の姿である.

本稿において繰り返し述べてきたように,これまで医療者教育課程において感情は,「招かれざる客(uninvited guests)」40) や「何としても避けなければならない恐怖の対象(objects of dread, to be avoided at all costs)」41) として厄介者扱いされてきた.しかしそのことがもたらす弊害についてはこれまでに述べてきた通りである.もちろん「人間の条件」が前景化する医療現場で働く以上,感情管理戦略を身につけることは不可欠である28).しかし,これまでの教育システムは,あまりに感情抑制や感情的切り離しに偏ってきたと言わざるをえない.医療において感情が不可欠の要素であるという出発点に立ち,これから医療者を目指す学生たちが,自らの感情と正面から向き合い,それを批判的に捉え,日々の実践にいかすことができるようなカリキュラムをどのように作っていけるのか,医療者教育課程に携わる者として,読者の皆さんと一緒に考えていきたい.

発表内容に関連し,開示すべき利益相反はない.

注1)  それは患者の死をめぐる深い悲しみや罪責感であることもあれば7),医療事故をめぐる恐怖,病気になることに伴う羞恥心であることもある8)

注2)  Lyonsらによれば,現在,医師による感情についての語りが「急増(surge)」しているという7)

注3)  社会学では,ある集団・組織の新規参集者が,その集団のメンバーになるために必要な知識や態度,価値体系を身につけていく過程を「社会化(socialization)」と呼ぶ.感情の社会化とは,その集団内に存在する感情規則を知り,それに基づいて適切に感情管理ができるようになっていく一連のプロセスを意味する21)

注4)  もちろんそこで経験されるのはネガティヴな感情ばかりではない.臨床実習の中で医学生・看護学生がどのような「感情の学習(emotional learning)」をしているのかを調査したHelmichらによれば,同じひとつの経験に対して,ネガティヴな感情とポジティヴな感情の両方を経験していた24).医学生や研修医を対象にしたKasmanらの研究でも同様の結果が得られている25)

注5)  隠れたカリキュラムとは,教育現場において,教員や生徒の日常的な振る舞いや態度を通じて意図しないままに伝えられる当該集団の文化や価値意識,行動様式等を指す概念であるが,アメリカの社会学者であるF. Haffertyが医学教育の分析に導入したのが初めてと言われている26)

注6)  本稿では医療者教育課程で学ぶ学生を,あまりに受動的な存在として描きすぎてきたかもしれない.確かに隠れたカリキュラムを通した社会化プロセスの影響は「強力(powerful)」であるが,なかにはそれに対抗する「免疫(immune)」を持った学生もいる27).また,Gulbergらの医学部調査が明らかにしているように,医学生は隠れたカリキュラムの単なる「受動的な犠牲者(passive victim)」ではなく,それに反発したり,ときにはそれを作り替えたりするような能動的側面を有する26)

注7)  Foxの「距離を置いた関心」のうち,前者の要素(感情的距離化)が強調されていく経緯については,鷹田(2024)29) を参照されたい.

注8)  筆者はコンパッションを,新しい医療者像を考える際のキーワードのひとつになると考えている.鷹田(2024)36) ではその点について,文献に基づく検討を行った.

注9)  Coulehanはそうしたつながりを,「コンパッションによる連帯(compassionate solidarity)」と呼んでいる37).また,医学教育者のShapiroも,患者との「出会い」の中で生じる感情と対峙し,それらが医療の中で作動している社会的・文化的規範によってどのような影響を受けているのかを反省的に捉え返し,患者との違いを受け入れつつ,連帯へと自らを開いていくことの重要性を指摘している39)

文献
 
© 2025 日本薬学教育学会
feedback
Top