2024 年 13 巻 3 号 p. 196-204
目的:境界知能を持つ当事者の日常生活場面での体験や認知の特徴を明らかにすること.
方法:境界知能を持つ当事者4名を対象とし,インタビューガイドを用いた半構造化面接を行い,目的に沿って質的記述的分析を行った.
結果:概念的領域では〈年齢相応の学習内容を理解できず勉強ができなかった体験〉など計2カテゴリー,社会的領域では〈他者の言動・思考の意味・理由が分からず対人関係・社会行動に困難があった体験〉など計5カテゴリー,実用的領域では〈療育手帳は境界知能でも生きていくうえで必要なものであるという判断〉など計3カテゴリーが生成された.
考察:境界知能を持つ当事者は知的機能等の脆弱さや境界知能の不可視性が影響し,周りから普通の人と扱われる体験や,そこから自己評価の低下や対人関係の問題を体験・認知しやすい対象であることが示唆された.
Objective: This study aimed to identify the characteristics of the experiences and cognition of individuals with borderline intelligence functioning (BIF) in daily life situations.
Methods: Semi-structured interviews were conducted with four individuals with BIF, and their responses were analyzed qualitatively and descriptively.
Results: Two categories were extracted for the conceptual domain, such as experiences of an inability to study due to a lack of understanding of age-appropriate learning content. Five categories were extracted for the social domain, including difficulties experienced in interpersonal relationships and social behavior due to an inability to understand the meaning and reason for the words, actions, and thoughts of others. Three categories were extracted for the practical domain, such as the rehabilitation certificate is necessary to live with BIF.
Discussion: Individuals with BIF are affected by the fragility of their intellectual functions, other factors, and invisibility of borderline intelligence. Therefore, they are more likely to experience and perceive being treated as ordinary by their entourage, leading to low self-esteem and interpersonal problems.
知的障害は知能指数が70以下の場合に考えられ,70以上80未満のIQは,知的障害の診断基準を満たさないが,生活上の困難を経験する割合が高いことから,境界知能と呼ばれることがある(Groth-Marnat, 2009)ように境界知能は障害と診断されにくい.また,境界知能を持つ人々の割合は,“IQが正規分布することから理論的には13.6%となり,精神遅滞全体よりもはるかに頻度が高い”(竹下ら,1996)と言われており,現在の国内では障害者として診断されることなく公的な支援が受けにくい境界知能の人々が多数存在していると考えられる.
境界知能をもつ当事者が受けることのできる支援措置の一つに療育手帳制度が存在する.療育手帳を取得することで特別児童扶養手当や国税,地方税の諸控除及び減免税などの障害者総合支援法に基づく障害福祉サービスや,各自治体や民間事業者が提供するサービスが受けやすくなる(厚生労働省,2021).しかし,療育手帳は他の障害者手帳(身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳)と違い,法的な位置づけをされておらず,各自治体で判定方法や,IQの上限値等の認定基準にばらつきがあることが指摘されており(厚生労働省,2022),境界知能をもつ人々はIQ値によっては生活する地域によって療育手帳を取得できる場合もあるが,境界知能であり支援を求める人が全員手帳を取得できる環境ではない.
先行研究によると,境界知能を持つ多くの人々がライフコースで大きな困難に直面していることや境界知能を持つ人々が直面している日常的な問題が明らかにもかかわらず,この問題や問題の解決についてはほとんど研究されておらず(Peltopuro et al., 2014),境界知能の問題性や支援の必要性を浮き彫りにすべく研究が試みられているが,実態として境界知能は気付かれにくく,研究は極めて遅滞しており,知見の蓄積も遅滞している(緒方,2021)と言われている.日常的な問題についての先行研究も2014年以降見つけることはできず,知見を蓄積する必要性があると考える.
国内でも,境界知能の学童期の児童が,自分は努力してもできないが,周りができることを認知できるために不登校になりやすいことや学習不振が進展し,各種の不適応を生じて医療や相談機関に来院する(横山,2020)といった日常生活で出会う体験や認知などの適応機能に関連した研究が少ないながらも行われているが,その研究は心理学分野で多く行われており,公衆衛生分野では行われていない.しかし境界知能は“特定の公衆衛生,教育および法的注意を必要とする健康メタ状態”(Salvador-Carulla et al., 2013)と定義されているように公衆衛生や教育の従事者は注意を払っていかなければいけない対象である.ここで,保健師は“公衆衛生看護を実践する主な看護職”(麻原,2014)であるとされており,境界知能の定義からみても境界知能をもつ対象に対して何かしら早期からの介入,手を差し伸べる職種として保健師の存在が大きいと考えられる.しかし,先述のように研究の少なさから境界知能を持つ当事者と保健師のかかわりに関する研究はこれまで見られない.
以上より,境界知能を持つ当事者の日常生活場面での体験や認知の特徴について明らかにすることを本研究の目的とする.本研究により今後保健師が境界知能に関わるための視点を提供できることが期待される.また,今後保健師等,母子保健や学校保健に関わる従事者が境界知能をもつ当事者の対象理解を深め,関わるための視点や体制を整えるための視点を提供できることも期待される.
本研究において,「体験」と「認知」について操作的に定義した.中木ら(2007)を参考に「体験」とは,境界知能を持つ当事者が日常生活の中で出会った困った出来事とそのときの身体的感覚と反応のこととし,「認知」とは“理解・判断・論理などの知的機能”(厚生労働省e-ヘルスネット,2024)であり,ここでは当事者が体験する前後の,当事者自身や相手との相互作用による理解や思考・判断によってどのように感じたのかとした.
2. 研究デザイン質的記述的研究方法を選択した.質的記述的研究は,“研究領域が比較的新しい,あるいは研究しようとしている現象についてほとんどわかっていない”(グレッグ,2016)ときに使われる.本研究で扱う境界知能をもつ当事者の体験や認知についての知見はほとんどなく,体験や認知を理解することで当事者理解を促すと考えたため,質的記述的研究を選択した.
3. 研究対象者本研究の対象者選択については,研究者は見学,及び研究依頼のために赴いた現場でフィールドワーク後に質的研究の実績がある研究者と協議して作成した以下の選択基準に該当し,除外基準に該当しない者を対象とした.
選択基準:
・知能検査でIQ値が境界知能の域にあると測定されている者
・IQ値は不明だが,専門家から本人が境界域の知能をもっていると判断された者
・研究参加に関して文書による同意が得られた者
除外基準:
・会話による意思疎通ができない者
・その他,心身の健康状態を理由に研究者や専門家が研究参加を望ましくないと判断した者
4. データ収集方法 1) 研究対象者との連絡方法研究対象者の募集は,研究者が見学,及び研究依頼のために赴いた小学校の低学年のクラスや児童の能力や特性に合わせた方法で学習を提供する個別学習塾やメディア・文献等で取り上げられている方のうち,上記の選択基準に該当し,除外基準に該当しない者に対し,研究者が本研究について案内を行った.研究に関心をもった者に研究者の連絡先に連絡を入れてもらい,文書および口頭で研究説明,本研究に対するIC取得を行い,同意を得られた者を対象とした.
2) 対象理解とインタビュー実施に際する事前訓練研究者は見学,及び研究依頼のために赴いた現場でフィールドワークを約半年間行い,対象理解と研究対象者への接し方の向上に努めた.また,インタビュー実施において1人目の対象者へのインタビューは主に質的研究の実績がある研究者が行い,2人目以降の対象者へのインタビューは著者主体にて指導者同席でのインタビューを行い,インタビュー後には質的研究の実績がある研究者からのフィードバックを行うことでスキルの点検を行いインタビューの質の確保に努めた.
3) インタビュー実施方法データ収集期間は2022年3月~10月でインタビューガイドを用いた半構造化面接を対象者1人につき1回行った.1回60分程度とし,インタビュー内容は許可を得て録音した.プライバシーが保たれる個室での対面での面接,あるいは,通信機器を用いたオンライン面接とした.
4) インタビュー内容「日常生活や学校生活で困ったことはありますか」,「どんな困りごとでしたか」,「困りごとはいつぐらいに出てきましたか」,「その困りごとに対してどう考えていましたか」,「困りごとに対して周りはどんな反応でしたか」,などと質問した.
5. 分析方法および分析手順質的記述的分析を行った.録音した音声データを文字データに変換し,文字データから個人が特定される情報を削除し,研究対象者にはIDを付与して匿名化を行った.個人情報を匿名化した文字データを境界知能の当事者の体験と認知に関連する文脈を事象の時期と誰との間で起こった事象なのかに注目しながら,意味のわかる単位で切片化し,抽象度をあげ,コード化・カテゴリー化を行った.分析枠組みにはDSM-5において知的能力障害の診断の指標となる適応機能の内容の概念的領域,社会的領域,実用的領域の3領域を用いて境界知能当事者の体験や認知について包括的に系統立てた.質的記述的分析によって得た境界知能によって起こされた体験・認知のカテゴリー等の真実性の確保についてはメンバーチェッキング,スーパーバイズ,研究室での議論で確保した.
ここで,概念的領域,社会的領域,実用的領域の3領域とは以下の通りである(神庭ら,2014).
概念的領域:記憶,言語,読字,書字,数学,実用的知識,問題解決,新奇場面における判断など
社会的領域:他者の思考・感覚・経験への意識,共感,対人コミュニケーション・スキル,公友能力,社会判断など
実用的領域:身辺処理,仕事,金銭管理,余暇,行動の自己管理,学校や仕事における課題の管理など
6. 倫理的配慮研究対象者には,研究の目的,方法,面接内容,個人情報の保護,参加は任意であり途中での辞退も可能であること,その際も不利益を被らない保証をすること,研究論文として発表することについて研究者が文書および口頭で説明を行い,文書で同意を得た.また,面接は研究対象者の希望するプライバシーの守られた場所で実施した.なお,本研究において,開示すべき利益相反はない.本研究は大阪大学医学部附属病院の倫理審査委員会で倫理的観点および科学的観点からその妥当性についての審査を受け,病院長が許可した上で実施した(番号21436,2022年2月14日).
インタビュー時間は平均約62分であり,研究対象者は,20代から50代の男女4名(うち男性は1名)であった.研究対象者は全員,医療機関や障害者センターで知能検査を受けており,境界知能と診断された時のIQ値は70~73(70:2名,71:1名,73:1名)であり,診断時の年齢は10代~30代(10代:1名,20代:1名,30代:2名)であった.インタビュー時の障害者手帳の取得について,療育手帳所持者が3名,1名は取得していなかった.その他の疾患として,てんかん性精神病が1名,注意欠如・多動症(ADHD)が2名,疾患無しが1名であった.
分析から研究対象者ごとのサブカテゴリー,及び研究対象者間で共通して見られたカテゴリーを抽出した.以下,カテゴリーを〈 〉,サブカテゴリーを「 」で挿入した.
2. 分析結果分析では研究対象者にIDを振り,ID毎に生データから研究目的に沿ってコードを作成し,サブカテゴリーを生成した.その後,すべてのサブカテゴリーから類似しているものを集めカテゴリーとして抽出した.
その結果,概念的領域2カテゴリー,社会的領域5カテゴリー,実用的領域3カテゴリーが抽出された(表1).
分析結果のカテゴリー表
カテゴリー | サブカテゴリー | ID | |
---|---|---|---|
概念的領域 | 年齢相応の学習内容を理解できず勉強ができなかった体験 | 年齢相応の学習範囲の理解ができず成績やIQ値が低かった体験 | ID1 |
年齢相応の学習範囲の勉強ができず成績がビリであったり免許試験で不合格だった体験 | ID2 | ||
通常の発達よりも遅れていたり,記憶力が弱いことで小学校の頃から勉強についていけず約束も覚えられなかった体験 | ID2 | ||
周りと同じように努力しても勉強ができず成績が悪かった体験 | ID3 | ||
塾に通い年齢相応よりも低いレベルの学習をさせられても成績が改善されなかった体験 | ID3 | ||
学生時代は学校や塾の勉強についていけず,成績や試験の結果も思うようにできなかった体験 | ID4 | ||
年齢相応の勉強ができず低下した自己評価 | 周りと比較しても年齢相応レベルの勉強ができない体験をし,自己評価や自尊心の低下 | ID3 | |
勉強ができない体験をして自分や周りに対して無力感を感じた | ID4 | ||
社会的領域 | 周りよりも基礎学力が低いために,いじめられ,勉強ができないことを隠した体験 | 勉強ができずに責められいじめられた体験 | ID1 |
障害者と思われたくない,見捨てられたくないという思いで普通の人を演じたり役割を調整することで勉強ができないことを隠した体験 | ID2 | ||
基礎学力が低く授業内容の理解ができないため,教師や友人に勉強ができない人と思われ怒られたり,見捨てられた体験 | 勉強ができないことを周囲に当たり前と思われ見捨てられ自分もできないのが当たり前と思った体験 | ID2 | |
勉強が同級生と比べてできず先生に怒られた体験 | ID4 | ||
境界知能で能力的にできないことがあるが社会・周りに理解されず普通の人と扱われ,できない・理解できないことが許されなかった体験 | 自分の理解や自己評価の程度を超えた言動を大人にされた体験 | ID1 | |
境界知能である自分を理解されず周りは普通の人と扱われた体験 | ID2 | ||
本人はふざけているつもりはないが間違えると周りからはそうは思われず怒られた体験 | ID3 | ||
周りには普通の人と扱われるも,周りと一緒のことができない体験 | ID3 | ||
他者の言動・思考の意味・理由が分からず対人関係・社会行動に困難があった体験 | 社会の行動が自分の行動と違い自分の行動を社会に否定される体験 | ID1 | |
他者の話す意味が理解できずに黙ることで自分を守っていた体験 | ID1 | ||
周りの言っている意味が自分一人の理解範囲では理解できず,混乱したり協力を得る体験 | ID3 | ||
自分の理解範囲が年齢相応よりも低く,他者の話す意味が自分の理解範囲を超えており理解できずコミュニケーションが取れなかった体験 | ID4 | ||
周りと比較して自分ができないと認知し低下した自己評価 | 周囲よりできないことを感じ低下した自己評価や自尊心 | ID2 | |
周りには普通の人と扱われて怒られる体験をし,悲観的な感情をもつ | ID3 | ||
成長するにつれてより周りとの差が大きくなったと感じ圧倒され低下した自己評価 | ID3 | ||
実用的領域 | 療育手帳は境界知能でも生きていくうえで必要なものであるという判断 | 療育手帳は自分の能力を客観的に証明するもの | ID1 |
境界知能のため療育手帳を返却することで支援がなくなり生活に困ると思う | ID4 | ||
自分が理解できない場面では自分なりの考えでその場をやり過ごす体験 | 自分の年齢相応の学習範囲が理解できないため勉強しなかったり勉強をやったふりをした体験 | ID2 | |
理解できない場面に遭遇し,状況を自分なりに把握しその場をやり過ごす体験 | ID3 | ||
働く環境が自分にとって良くなければ社会のルールを考えずその場から逃れた体験 | 上手くいかないと感じると社会のルールを考慮せず同じ環境に留まらずに新しい環境へ移ることだけを考える体験 | ID3 | |
就職しても自分にとって悪い環境であるとわかれば2ヶ月で辞めた体験 | ID4 |
このカテゴリーは,境界知能のため理解力が年齢相応よりも低く学校の学習についていくことができず勉強ができなかった体験について示しており,6つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者全員のサブカテゴリーが含まれた.学校の学習や試験の場面では「年齢相応の学習範囲の勉強ができず成績がビリであったり免許試験で不合格だった体験」(ID2)をしたり「塾に通い年齢相応よりも低いレベルの学習をさせられても成績が改善されなかった体験」(ID3)をしていた.
(2) 〈年齢相応の勉強ができず低下した自己評価〉このカテゴリーは,勉強ができなかった体験をすることで,できない自分に対して自尊心や自己評価が低下している思考について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.学校の勉強ができず,「周りと比較しても年齢相応レベルの勉強ができない体験をし,自己評価や自尊心の低下」(ID3)や「勉強ができない体験をして自分や周りに対して無力感を感じた」(ID4)と考えていた.
2) 社会的領域 (1) 〈周りよりも基礎学力が低いために,いじめられ,勉強ができないことを隠した体験〉このカテゴリーは,境界知能のため基礎学力が低く学校のクラス内でグループごとの成績に足を引っ張る形で影響し,同級生から責められいじめられたり,勉強ができないことを隠したりした体験について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.「勉強ができずに責められいじめられた体験」(ID1)で同級生から成績が悪くグループの成績も悪くなり責められたり,「障害者と思われたくない,見捨てられたくないという思いで普通の人を演じたり役割を調整することで勉強ができないことを隠した体験」(ID2)をしていた.
(2) 〈基礎学力が低く授業内容の理解ができないため,教師や友人に勉強ができない人と思われ怒られたり,見捨てられた体験〉このカテゴリーは,境界知能のため基礎学力が低く勉強ができないことで教師や同級生に怒られた体験について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.「勉強が同級生と比べてできず先生に怒られた体験」(ID4)や「勉強ができないことを周囲に当たり前と思われ見捨てられ自分もできないのが当たり前と思った体験」(ID2)をし,勉強ができない自分が当たり前と思うようになっていた.
(3) 〈境界知能で能力的にできないことがあるが社会・周りに理解されず普通の人と扱われ,できない・理解できないことが許されなかった体験〉このカテゴリーは,境界知能であることを周りに理解されず,自分ができる能力以上のことを求められ,それができない・理解できないと怒られたりする体験について示しており,4つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち3名のサブカテゴリーが含まれた.「境界知能である自分を理解されず周りは普通の人と扱われた体験」(ID2)や「周りには普通の人と扱われるも,周りと一緒のことができない体験」(ID3)をして,境界知能であっても普通の人と思われ扱われてしまうことがあった.
(4) 〈他者の言動・思考の意味・理由が分からず対人関係・社会行動に困難があった体験〉このカテゴリーは,他者の言動や思考の意味について理解力が低いため考えることができず,対人関係や社会のルール等社会行動をとることに困難があった体験について示しており,4つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち3名のサブカテゴリーが含まれた.「社会の行動が自分の行動と違い自分の行動を社会に否定される体験」(ID1)や「自分の理解範囲が年齢相応よりも低く,他者の話す意味が自分の理解範囲を超えており理解できずコミュニケーションが取れなかった体験」(ID4)をして,社会や仲間に入ることができなくなっていた.
(5) 〈周りと比較して自分ができないと認知し低下した自己評価〉このカテゴリーは,自分と周りの同級生などと比べても能力的に自分が遅れていてできないことを体験し,自己評価が下がっている思考について示しており,3つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.学校で「周囲よりできないことを感じ低下した自己評価や自尊心」(ID2)や「成長するにつれてより周りとの差が大きくなったと感じ圧倒され低下した自己評価」(ID3)がうまれることで,境界知能によってできない体験からネガティブな思考を持つようになっていた.
3) 実用的領域 (1) 〈療育手帳は境界知能でも生きていくうえで必要なものであるという判断〉このカテゴリーは,IQ値によっては療育手帳の認定には至らない境界知能であっても適応が上手くいかず生活に困ることがあり支援を求めたいために療育手帳は必要な物だという判断について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.「療育手帳は自分の能力を客観的に証明するもの」(ID1)であり,再検査を行い軽度知的障害からIQ値があがると「境界知能のため療育手帳を返却することで支援がなくなり生活に困ると思う」(ID4)というように自分の能力を周囲に見えやすくし,生きやすくなる方法をとるための手段の一つとして療育手帳を必要としていた.
(2) 〈自分が理解できない場面では自分なりの考えでその場をやり過ごす体験〉このカテゴリーは,自分の理解力では理解できずどうすればいいか分からない場面に出会ったときは,その場をやり過ごすためだけの方法を自分なりに考えて対処した体験について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.「自分の年齢相応の学習範囲が理解できないため勉強しなかったり勉強をやったふりをした体験」(ID2)や「理解できない場面に遭遇し,状況を自分なりに把握しその場をやり過ごす体験」(ID3)をして一旦自分が理解できないその場面をやり過ごすことだけを考えて行動していた.
(3) 〈働く環境が自分にとって良くなければ社会のルールを考えずその場から逃れた体験〉このカテゴリーは,アルバイトや就職をした際,働く環境が自分にとって不都合で悪いと感じれば,社会のルールを考慮せずその環境から離れることを優先して行動した体験について示しており,2つのサブカテゴリーで構成されていた.また,このカテゴリーには研究対象者のうち2名のサブカテゴリーが含まれた.「上手くいかないと感じると社会のルールを考慮せず同じ環境に留まらずに新しい環境へ移ることだけを考える体験」(ID3)や「就職しても自分にとって悪い環境であるとわかれば2ヶ月で辞めた体験」(ID4)をして,仕事上の違約金などの社会のルールを知らないまま行動してしまう体験をしていることもあった.
概念的領域では,年齢相応の学習内容が理解できず勉強ができないため,自己評価が低下していることが研究対象者間に共通してみられた.障害と診断されない境界知能であるが,障害と診断されていないから問題はないということではなく,正常よりも知的機能が遅れている可能性が高い集団であることを認識するべきであることが示唆された.しかし後の社会的領域でも述べるように,境界知能であることを周囲には理解されず,障害ではないから普通の人と同じだと認識されるため,学校での勉強も普通の集団と同じレベルで受けることとなる.つまり,境界知能児が“通常学級のなかに低学力ないしは学習困難ではあるものの,障害が明らかではない一群の生徒がいる”(緒方,2021)ように境界知能の集団は,障害と判断されにくく普通の集団と同様のレベルで授業を受けている.そのため,正常よりも知的機能が遅れている境界知能では普通学級での勉強についていくことが難しく,本人にとって困難・失敗した体験となって蓄積されていくことで自己評価も低下しやすい対象であることが考えられる.
2. 社会的領域社会的領域では,概念的領域で起こっていた年齢相応の勉強ができないことや勉強できないことによる自己評価の低下に関連して,対人関係においても境界知能であるために勉強ができないことを周りには理解されず普通の人として扱われる体験をしていた.その結果,責められ,怒られる体験や勉強ができないことを周りに隠して周りについていけるようにしていた体験をしていた.また,周りの言動の意味を理解できないことで対人関係や社会行動で困難な体験をしていた.このような体験をした結果,周りと比較して自分ができていないことを認識して,自己評価が低下していた.内閣府(2010)のユースアドバイザー養成プログラム(改訂版)によると,軽度/中等度の知的障害の集団は,“周囲から求められるさまざまな要求や指示を十分に理解できないことに強い不安と劣等感を持ちやすく,それに対処すべく過剰に背伸びしたり,あるいは圧倒されて萎縮したりする”とされ,その結果,精神障害への脆弱性が増加するとされている.また同文書では,“軽度知的障害以上に非行や精神障害脆弱性が高いのは,自分が他者からどう見られているかを切実に認知できる能力を持つ境界知能児である”ということが述べられており,本研究の研究対象者である境界知能をもつ集団においても,周りの言動の意味が理解できず困難な体験をしていたり,普通の人と見られるように勉強ができないことを隠すという自分の能力から背伸びした行為をするなど同様なことがサブカテゴリーとして現れていた.境界知能をもつ集団は周りから障害者ではないと思われる.そのため,正常集団と同じレベルの能力を持っていると思われ求められるも,本当は正常集団よりも能力が低いために本人と周りの間で能力の認識のギャップが生まれやすく,本人はできないことに対して劣等感や自己評価の低下を示しやすい.対して周囲は能力的にできないことを理解できず本人のやる気・性格の問題だと認識してしまい,本人を責めたり怒ったりして本人の能力自体に目を向けにくいこともあり,目に見えにくい状態の集団であることが考えられる.
3. 実用的領域実用的領域では,境界知能であっても療育手帳は自分の能力を周りに知ってもらえる手段であり,できないことを支援してもらいやすくなり生きやすくなるものであると捉えているカテゴリーが抽出された.概念的領域や社会的領域でも述べたように,困難な体験をしている境界知能の集団にとって,自分の能力を目に見えやすくする療育手帳の存在は本人と周りの認識のギャップを埋めるためにも有力な方法の一つと言える.しかし,研究対象者の中には学童期は軽度知的障害と診断されたが,成長し再検査を受けるとIQ値が上がったこともあり,療育手帳を返却するよう求められることを体験した者もおり,軽度知的障害でも境界知能でもできないことや困難なことは変わらないのに療育手帳を返却するのは困ると感じていた.緒言でも述べたように現在,生活に困難を抱えているという背景は同じでも療育手帳の取得の可否が自治体によって変わるため,当事者にとっては今後生きていくために支援を受けにくくなり生きにくさを感じてしまうことに繋がると考えられる.
4. 関わりの方向性境界知能をもつ集団は,統合した概念的領域・社会的領域のカテゴリーで見られたように境界知能という普通より能力が脆弱な特性のために現れる,勉強ができなかったり,そもそも境界知能である状態が見えにくかったりする1次障害が存在しやすい対象であると考えられた.その2点が影響し社会には境界知能であり知的機能に弱さがあることを理解されず普通の人と扱われるが,一般的に求められるレベルを理解できず,達成できないことで周囲に怒られたり,いじめにつながり,対人関係に問題が起こるなどの2次障害につながりやすい対象であるとも考えられる.
このように就学後から問題が出てきやすく困難な体験を多くしており,そのような困難な体験をする前,つまり就学前から把握しておく必要性が高い集団であると考えられ,保健師の関わりが大切になると考えられる.就学期前の境界知能の子どもは,親から積極的でない子育てや関わりを受けていること(Fenning et al., 2014),親の教育レベルが低い環境で育つこと(Peltopuro et al., 2014),正常域の同年代の子どもや知的障害の子供よりも逆境的小児期体験(Adverse Childhood Experiences: ACEs)にさらされる可能性が非常に高い(Vervoort-Schel et al., 2021)ことなど親子の関係性や育児環境を含めたACEsなどから影響を与えられていることが複数の文献で述べられており,そのような情報をアセスメントしていくことで境界知能の子どもを推測し関わることにつながると考えられる.アセスメントの結果,境界知能の可能性を把握した場合,保育園/幼稚園と連携し児の特性や様子について情報を整理し就学後にどのような問題が起きやすく,どのような対応が必要なのかを保護者も含めて関係者で情報共有しておき,就学期に学校に情報を提供することで学校や保護者側も境界知能が見えやすくなり子どもの特性を理解した対応ができると考えられる.
本研究では,境界知能をもつ当事者が日常生活場面での体験や認知という適応機能について言語化し,保健師や公衆衛生に関わる職種に対して対象理解の一助となる知見の蓄積になったことに意義がある.特に,地域によって療育手帳の取得にばらつきが出る対象であるが,療育手帳は境界知能をもつ対象にとって自身の能力を客観的に示すことができるなど生きていくうえで必要であることが本研究で新たに明らかにすることができた.
境界知能の1次障害には知的機能の脆弱さや境界知能の不可視性がある.2次障害には自分の能力以上を求められても達成できず怒られることで自己評価が低くなることや,善悪の判断ができないことで対人関係・社会行動に困難が生じることが挙げられる.保健師や子どもと関わる職種は,境界知能である子どもが就学前に問題がなくても就学後勉強についていけず,境界知能であると認識されないまま必要な支援を受けることができずに過ごし,2次障害につながる可能性があることを念頭に置く必要がある.そのため,健診や個別面談,家庭訪問など様々な場面に赴き,親子の関係性や児の集団行動に対する動き,コミュニケーション能力,育児環境など情報を把握し共有しアセスメントを行い,境界知能の可能性がある児を早期に把握し関わっていくことで就学してから問題が起こったとしても適切に児に対応できる可能性が示唆された.
本研究は,境界知能をもった者を研究対象者としたが,研究対象者の人数は少なく,研究対象者の中にはその他発達障害や精神疾患をお持ちの方も含まれており,分析段階でスーパーバイズ・研究室での議論を行い,境界知能ならではの体験や認知をカテゴリーとして抽出するよう努めたが,一般的な境界知能自体の体験や認知と考えることには限界がある.また,境界知能は見えにくく診断されるまでに時間が経ち,就学期の体験を語ってもらう際,記憶の変容の影響を受けたデータの可能性もあることも限界と言える.今後の研究において,さらに境界知能をもつ方に関わり体験や認知に関する研究を行い,境界知能をもつ集団が抱えるライフステージごとの問題や課題を探求し,生きやすい地域を構築するための保健師やその他関係職のあり方を検討したい.
インタビュー調査にご協力いただいた研究対象者の皆様に心から感謝いたします.対象理解のためのフィールドワークの実施に関して,大阪大学大学院人間科学研究科の平井啓博士,並びに株式会社サイクロス代表取締役の宮崎圭祐様に多くのご支援を頂きました.感謝申し上げます.
筆頭者および共同研究者は日本公衆衛生看護学会へのCOI自己申告を完了しています.
本研究に関連し,開示すべきCOI関係にある企業・組織および団体等はありません.