スポーツ社会学研究
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特別寄稿
教育としてのスポーツと「死」
―「死」と向き合う社会との関係から―
小路田 泰直
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2013 年 21 巻 2 号 p. 3-12

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抄録
 人が社会をつくる原動力は人の依存心にある。エサをとることすら他人任せにして平気でいられるのは人間だけだ。それは人間が如何に他者依存的な存在であるかの証拠だ。生活の基本を他者に依存するが故に、人は自由であり得、自分の得手とするところの能力を自由に発達させることができる。人が様々な職能を生み、分業と交換を発達させた理由だ。
 しかし、「生活の基本は他人に依存し、自分は好きなことをやって生きる」これが人間の本質であり、人が社会をつくる原動力であるとすれば、社会は通常永続しない。誰しも他人のために生活の基本を支える側(例えば農民)には回りたがらないからである。だから社会が永続するためには、逆に、人の本質を抑え、人の自由を奪うことも必要だ。そのために、多くの人を不自由におき、差別を身分制という形で制度化した社会が、前近代社会であった。
 だが近代はその差別をなくした。人にその本質のまま生きることを許したのである。ではなぜそれを許すことができたのか。アダム・スミスのいう市場の自動調整力に全幅の信頼を置いたからであった。農業のような人の嫌がる仕事でも、需要があれば、誰かがその需要を埋めると考えることができたからであった。
 しかし市場の自動調整力への信頼は、19 世紀後半になると揺らいだ。市場の自動調整力を裏打ちする人間の力、「生きるためには欲しないことでもする」力(その持ち主が「経済人」)が、実は人に備わっていないことが鮮明になったからだ。好きなことをして生きられなければ、人は意外にあっさりと自殺する。その現実が露わになったからであった。
 そこで社会を、可能な範囲で前近代に戻そうとしたのが社会学者デュルケムであった。それに対して、スポーツのもつ教育力に期待し、人を鍛錬することによって「経済人」たらしめようとしたのがオリンピックの父クーベルタンであった。
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© 2013 日本スポーツ社会学会
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