論文ID: 2024-007
ChatGPTを初めとする生成AI技術は,近年若年層にも浸透しつつあり,その利用の在り方を学生にどう伝えるか,各国の教育現場での対応が急がれている。人材の交流が盛んなアジア太平洋地域では,学術的信頼性が求められる高等教育機関での取り組みについて,言語の壁に阻まれて互いに入手できる即時性の高い情報が限られたままであった。そこでクラリベイトでは,本地域に所属する分析担当者を集め,対象国の横断的調査を行った。この結果,本地域において,(1)生成AI指針の独自性,(2)研究活動への国策の影響,(3)生成AIを前提とした研究倫理教育の標準化,の各点について潜在的な課題があることがわかった。今後はより詳細な調査を進め,対応策の提案につなげる予定である。
2022年11月に公開された対話型ボットのChatGPTは,高等教育機関に在籍する学生の間にも利用範囲が拡大している。剽窃や個人情報漏洩などのリスクを鑑みて各国の大学が教育上の指針を示し,教育方法の模索が続いている。並行して,各国では労働力としてのAI人材育成を目的とした戦略が立案されている。
一方で,日本で学ぶ外国人留学生の数は,1989年以降全体として上昇傾向が続いている。図1に示す日本の外国人留学生の内訳では,22年時点,アジア太平洋地域からの留学生が93%を占めている1)。
高度な技能をもつ学生や社会人が日本の国内外で活躍する将来を見越すと,人材交流の盛んなアジア太平洋地域でのAI人材の育成状況や,生成AIに関する研究倫理の指針・教育事例を整理し,現時点での課題を検討しておくことは有益であろう。しかし,政府機関からの情報発信や教育機関からの報告が英語外の言語でなされる場合,互いに入手できる即時性の高い情報が限られたままであった。
そこで,クラリベイトでは,アジア太平洋地域を拠点とする分析担当者を集め,国策と教育現場の状況を整理する横断的調査に着手した。クラリベイトのアカデミア&ガバメント事業部の学術電子資料課(Information Solutions & eBooks)では,世界各国の大学図書館から依頼を受け,情報リテラシーに関する講習会を担当している。今後このような横断的調査を他の地域に拡大させ,講習会の内容に反映することで,研究コミュニティ全体の学術的信頼性の維持に貢献できると考えられる。本プロジェクトはその第一歩になるものである。
日本学生支援機構「2022(令和4)年度外国人留学生在籍状況調査結果」より作成。
アジア太平洋地域において,日本・中国・韓国・台湾・マレーシア・シンガポール・インドを調査対象とし,高等教育機関での生成AIの役割と課題を明らかにする目的で,次の項目による調査を行った。
予備調査の結果,以下の潜在的課題があることがわかった。
2.1 各国の生成AI指針の独自性調査対象国・地域ではすべて独自のAI戦略を掲げており,それらには,各国の人口動態・産業動向・将来像が反映されていた。また,図2に示す通り,生成AIに関する教育上の指針では,各政府が教育で生成AIを活用する際に考えられるリスクとしてみなされている点に違いが見られた。「著作権侵害」と「盗用」はすべての国・地域がリスクとして指針内で明記していたが,生成AIの「過信」や「サイバー攻撃への利用」,「虚偽情報の悪質な拡散」などをリスクとみなしている国・地域は少なかった。これらのことから,各国のAI戦略と教育上の生成AI指針には,何を強みとして産業として伸ばし,何をリスクとして教育現場で注意を払うかについて違いがあり,今後互いの理解をより促進させる必要があると考えられる。
2.2 研究成果の出版と引用行動への国策の影響生成AIの教育への応用研究に関して,ポジティブな論文が出版されやすい「出版バイアス」や,特定の種類の論文が引用されやすい「引用バイアス」を調べたところ,とくに非英語圏である日本・中国・韓国での医師国家試験への応用研究について,技術的な限界を示しながらも全体的に生成AIの将来的な期待感を示した論文が出版されている例が見られた2)3)4)。一方,インドからは,生成AIの医学教育の適用をより慎重視し,倫理的に誠実である(ethically sound)重要性が示された査読コメント(ナイジェリアの査読者と連名)が見られた5)。また,マレーシアでは,生成AIの利用が学業成績を低下させる傾向を指摘した実証的論文6)よりも,生成AIが教育の未来を良い方向に変革する可能性を論じた論文7)が多く引用される例が見られた注1)。これらは限られた事例であるものの,関連する先行研究では,本調査の対象地域の一部を含む24国家のAI戦略をもとに,AIに適用できる労働力・AI専門家の育成のための教育の手段的価値が,教育のためのAIの活用以上に優先されていることがわかっている8)。このため,本調査対象地域において,AI人材育成が優先度の高い国家戦略に位置づけられている国々では,研究成果の出版と研究者の引用行動に個々の国策が影響を与えている可能性がある。こうした影響について,今後実情を精査し,相互理解のための議論を深める必要があると考えられる。
2.3 生成AIを前提とした研究倫理教育の標準化先端技術の研究成果の応用はしばしば国境を越えてなされ,その影響は一つの国や地域にとどまらない。このため,研究倫理教育のプログラムは国益を超えた形で構成される必要がある。国策と研究倫理がトレードオフの関係にならないよう慎重に教育プログラムが構成されることが求められるが,現状では,各大学の教員にその判断がゆだねられている。研究者が生成AIを前提とした研究倫理教育プログラムを構成する際に,例えばユネスコの「教育研究における生成AIガイダンス」9)を参照することができる。また,技術者養成のための理工系教育では,これまでの様々なAI倫理の指針も参考になるであろう。一方で,将来的に学生や社会人の高度技能人材の交流が進んだ際に,自国で推奨されていたことが,留学先・海外赴任先で違反行為とみなされる可能性もある。これらの観点を踏まえ,研究倫理教育における必須項目の標準化が今後の課題になると考えられる。
アジア太平洋地域の高等教育機関の生成AIの役割と課題を明らかにするため,本地域の対象国・地域にて横断的調査を行ったところ,(1)各国の生成AI指針の独自性,(2)研究活動への国策の影響,(3)生成AIを前提とした研究倫理教育の標準化が,潜在的課題として明らかになった。今後より詳細な調査を進めながら,関連機関とも議論を深め,これらの課題への対応策を提案する予定である。また,本調査では,同僚のJim Wang, Lola Park, Srijith Sasidharan, Sanjay Rajan, Gary Man, Chris Guo, Jeremy Miller, Shun Kobayashiに情報収集とプロジェクト進行の支援を得た。ここに記して感謝したい。