抄録
本稿は徳島城址の公園化の背景と経過を明らかにすることが目的である。1905年に徳島県知事が日露戦争の戦捷記念事業として、徳島城址にある山頂への招魂碑の移転を提唱したことが、城址の公園化の発端である。招魂祭の式場を公園整備によって確保することが目的だった。徳島県と徳島市が協議し、徳島市が旧藩主蜂須賀家から城址を買収して公園を整備することになった。そして戦利紀念館や商品陳列館などの近代国家体制と結びついた施設を配置する公共空間が確保された。招魂碑の移転や施設整備は徳島県が事業主体になり、徳島市には整備費の補助金を拠出した。県知事は本多静六に公園の設計を依頼した。本多にとって日比谷公園に次ぐ設計だった。戦捷紀念事業としての公園の意義が自身の持論に合致することから設計を受諾した。1906年春の招魂祭の挙行に向けて、急ピッチで最小限の公園整備が進んだ。