抄録
本研究は、江戸東京の都市形成と見附枡形門の建設から解体までの過程を明らかにしたものである。見附枡形門は防衛のため濠と道路の結節点に配置され、枡形の石垣と2つの門により江戸城や城下町に入るための門として機能していた。見附枡形門は均質に配置されていたと考えられているが、防衛の重要性に応じてその石垣の規模が決められ、石垣上の建物である「渡櫓」は、幕府の威厳を外部に見せつけることを目的にその規模が定められていた。しかし、明治以降の見附枡形門の解体では、すべてが均等に道路の障害物として扱われていた。