日本土木史研究発表会論文集
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河北潟干拓と銭屋五兵衛
岡田 憲夫稲松 敏夫
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1985 年 5 巻 p. 149-156

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抄録

河北潟は、石川県内灘町の日本海海岸の近く。内灘砂丘をはさんで2, 248haの大きな湖沼であるが、前田藩主の奨励によって、延宝6年 (1673年) 第1回の埋立てが行われてから、180年後嘉永2年 (1849年) 7回目に銭屋五兵衛の埋立てが着工された。五兵衛の埋立計画は周囲27km、面積23km2 (2, 300町歩)、50, 000石増収を目的とした20年計画の壮大なものであったが、着工後2年目で、所謂魚の中毒事件で漁民の告訴によって、銭屋五兵衛一家が捕えられ、埋立工事も中断した。その後数回、沿岸農家から埋立申請が出されたが、着工に至らなかった。
終戦後、昭和28年頃より内灘砂丘米軍試射場反対運動が起り、その後昭和38年農林省北陸農政局により埋立方式でなく, 干拓方式によって、干陸工事が行われ、昭和50年干陸式を行い、現在2, 248haの潟面積の中60%1, 358haが干拓され、その8割が畑地、2割が酪農地として20余戸が酪農家として入植している。
本稿は, 藩政時代特に銭屋五兵衛時代の埋立工事と、現在施工された干拓工事の技術上の相異点と、時代的背景、並びに銭屋五兵衛の埋立工事及び魚中毒事件の背景についてまとめた。
尚、60年5月21日完工式が行われる。第1回の埋立工事より実に312年目にあたる。

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