日本土木史研究発表会論文集
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5 巻
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  • 土木構造物の起点を考える
    甘粕 健
    1985 年 5 巻 p. 1-10
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 中岡 良司, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1985 年 5 巻 p. 11-20
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、リレーショナル・データベースによる土木史情報支援システムをパーソナルコンピュータを用いて実現したものである。従来、土木史情報は個々の研究者によって収集・整理・照合および活用が図られてきた。しかしながら、土木事業は一般に大規模かっ長期に及ぶので社会システムとの関連はとりわけ深く、必要とする情報量は膨大となり個々人で処理するには限界がある。そこで本研究では、近年発達が著しいパーソナルコンピュータを用いて土木史情報を整理し活用する方法を開発した。この方法によって、我々は広範な史料から必要な情報を任意に選択し自由な史観で土木史を構築することができる。
    土木史情報支援システムの最大の特徴は、そのデータ構造にリレーショナル・データベースを採用したことにある。リレーショナル・データベースはデータ構造の柔軟性およびその応用目的の広がりにおいて他のデータベースを遙かに凌いでいる。また、日本語処理技術の発達により、日本語文章そのままをデータベースに蓄積することも可能となった。本研究はこれらコンピュータ利用環境の成熟の下に成立している。
    今後は、パーソナルコンピュータが広く普及している現状において、広範な土木史情報をより多くの研究者の手でデータベースに蓄積することによって土木史研究の飛躍的発展が期待される
  • 加賀谷 長之, 清水 浩志郎, 木村 一裕
    1985 年 5 巻 p. 21-32
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本報告は、過去わが国で発行された切手の中で、土木の文化がどのように描かれているかを、系統的に整理することを第一の目的としている。また、抽出された問題点をふまえ、今後の土木事業への利用方策についての検討を行なった。
  • 鈴木 恒夫
    1985 年 5 巻 p. 33-39
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 神吉 和夫
    1985 年 5 巻 p. 41-48
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、わが国における近代水道以前の水道の一つである高松水道の施設構造と水利用形態、管理運営およびわが国水道史上の位置について考察したものである。本水道は香川県高松市の旧城下町にあり、旧香東川河床と推定される砂れき層に水源井戸 (集水兼配水池) を設け、木樋などで配水し辻井戸および各戸の内井戸に貯留利用する複数系統の水道の総称である。その施設構造は近江八幡水道に類似しており、管理運営にも共通点がみられる。本水道の創設は1644 (正保元) 年であり、わが国最初の早川上水 (1545年創設?) から数えて17番目と必ずしも古いものといえないが、河川以外の水源 (浅層地下水、湧水) を持ち、町人居住区へ配水する (武家屋敷には別系統の配水をする) 公設のものとして一番最初のものである。しかも、当初から暗渠配水を行ない井戸に貯留する形態を持つていたと考えられる。
  • 神戸・長崎の水道施設群を事例として
    窪田 陽一
    1985 年 5 巻 p. 49-54
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    About the Middle of the Meiji era in Kobe and Nagasaki, where urban improvementand development in modern Western way were introduced into the settlements and thier environs under the renovation for open ports facing abroad, modern waterworks were planned and constructed to cope with the increasing water demand. Among the structures elabolated at the time, Nunobiki-Gohonmatsu Dam in Kobe is famous as the first concrete gravity dam in Japan, and its solemn design could be regarded as the origin of those dams constructed thenceforth. Moreover, the buildings and structures of water supply stationshave features of stylistical design consisting mainly of classicism. The design features of each structures were identified and the principles in the background were conjectured. Prospect of the design paradigm of waterworks in the trend of civic design in Meiji era was outlined in this paper.
  • 小出 崇
    1985 年 5 巻 p. 55-62
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1947 (昭和22) 年9月14~15日、カスリーン台風の伴う豪雨によって、利根川とその支川、那珂川、北上川とその支川・磐井川等が氾濫、関東地方から東北地方南部にかけて死者・行方不明1529人、負傷者1, 841人、建物損壊12,761戸、浸水家屋41,800戸に及ぶ災害となった。
    カスリーン台風は、公共施設にも大きな被害を与え、上水道施設にあっては、江戸川右岸に位置する東京都金町浄水場 (当時能力280,000m2/日) が水没、中川に架かるφ1,200mm水管橋の橋脚が洗掘されて傾斜するなど、東京都水道局の被害総額は83, 482千円に達した。
    一方、那珂川右岸に位置する水戸市芦山浄水場 (8,800m3/日) は、周囲に続らした土堤によってその被害を最小にとどめ、又、渡良瀬川左岸に位置する足利市今福浄水場 (11,550m3/日) も、渡良瀬川の洪水に襲われながら、二重に設置された水防施設によって辛うじて被害を免れることができたのである。
    本研究は、これら芦山及び今福の両浄水場に注目、その創設期における水害に対する配慮を紹介し、又、その後の洪水との戦いの歴史をたどり、カスリーン台風時いかにして水害を免れ得たかについて述べるものである。
  • 鈴木 哲, 大熊 孝, 小野沢 透
    1985 年 5 巻 p. 63-68
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    現在の豪雪地域における除雪技術システムは、その社会的性格、役割分担からみて、公的、共 (協同) 的および私的レベルに区分できる。筆者らはそれらを順に、大技術・中技術および小技術と呼び、その特徽を考察した。また、これらの技術システムが、社会の変化・発達と共に、歴史的に発生・変化してきたことを明きらかにし、今後の方向を考えた。
  • 和田 惇, 増田 芳太郎
    1985 年 5 巻 p. 69-77
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/09/28
    ジャーナル フリー
    四半世紀にわたって、国道算号三国裃附近で展開されてきた、冬期交通確保のための各種の対策の変遷に注目し、その対策を「作業系」、「施設系」、「情報系」、「運用系」に分類すると共に、このKey Wordsを用いて、対策の発展過程と体系化について説明を試みる。さらに、これらの説明をもとに、雪国がかかえる課題とその解決のために、今後、取組むべき方策について考察し、二三の提案を行う。
  • 崩壊・落石とのたたかい
    長瀬 龍彦, 権平 靖生
    1985 年 5 巻 p. 79-89
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    天下の険として知られる親不知は、一般国道8号の新潟県西頸城郡青海町青海~ 同町市振間の総称である。ここを通る道は奈良時代、すでに令によって規定されていた古くからある道であり、江戸時代には、難所の一部区間を道普請として、開削工事を行っている記録があるものの、大部分は自然の海岸を通る道であった。
    親不知の難所を、長区間にわたって改築する工事は、現在までに3回行われている。最初は明治15年~ 同16年の工事で、これにより、入力車の通行が可能になった。次は、昭和8年~ 同14年であり、幅員が5.5m~6.5mと狭いながら、自動車が通れる道として、青海・市振間がほぼ、全区間改良された。本格的な2車線道路としての改築は、昭和38年度に工事を開始し、同42年度に完成させている。
    しかし、ここは、険しい地形と地質の悪さから、改築工事後も土砂崩壊、落石、波浪、冬期のなだれなどの災害との闘いが続いた。従って、昭和43年以降は防災工事を中心とした工事施工が継続して必要となり、対策として、洞門工法面保護工、海岸擁壁工を、道路の通行を確保する防災工として、施工してきている。
    親不知のみち造りと維持管理は、わが国における道路建設史上、最も過酷な条件下での工事施工の一例であるといえよう。
  • 内山 大, 樋口 忠彦
    1985 年 5 巻 p. 91-98
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    港町新潟の町づくりが本格化するのは、元和2年 (1616) に堀直寄が長岡藩主になり、その支配を受けるようになってからのことと考えられる。それ故、本論では、これ以降の江戸時代の新潟を取りあげている。そして、そこにみられるいくつかの町づくりおよび町の特徴を取りだして報告している。第一は、白山神社を南の基点とし、日和山を北の基点に位置づけて、町づくりがおこなわれたのではないかということである。第二は、新潟の町割は1ブロック2行の短冊型の町割で、1行の奥行は約25間と推定され、各戸の敷地の間口は4間を基本にしていたと考えられることである。第三は、亨保と天保の地子高の資料により、当時の地価の状態をみると、信濃川から離れるほど低くなっていて、町の経済は信濃川に大きく依存していたことがわかることである。
  • 小林 正久
    1985 年 5 巻 p. 99-109
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    新潟の町は、信濃川の河口に出来た砂の島の上に誕生した。その誕生の時期は決して古いものではない。恐らく、1500年代初期の頃であったろう。
    1616年 (元和2年) 堀直寄が長岡の城主に着任すると、ここに大港湾都市を夢見て、都市計画を実施したのである。これが今日の新潟市の発端である。
    以来、今日に至るまで、阿賀野川の合流、或は分流という大自然の恩恵や試練をくぐり抜け、堀直寄・牧野忠成の如き名城主に出会い、或いはまた、1843年 (天保14年) 幕府に上知されるや川村奉行の如き名奉行を迎える等。この一連の流れが、1858年 (安政5年) 日本の開港五港の一として選定され、1868年 (明治元年) 正式に開港されることになったのである。
    このような歴史の流れの中で、新潟誕生がどんなものであったか、全たく不明なのである。
    例えば、何時頃人が住みついたか。
    何処から移住してきたのか。
    どのような商売の人であったか。
    等。
    又、新潟には縦横に堀割りが掘られ、街区も整然と区画されている。これが堀直寄の町づくりの残された姿である。そう言われているけれども、直寄の考え方や道路、堀割りのつくられた意味については、これを知る人が非常に少くない。
    新潟誕生の模様に、直寄の都市計画の様子を加味しつつ、古い新潟の姿を探究してみたものである。
  • 渡辺 貴介, 水野 雅男
    1985 年 5 巻 p. 111-119
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    港は、従来港町において親密な空間となっていたと思われるが、最近は逆に非常に疎遠な空間となっている。これは、港自体がヒューマンスケールを超越した巨大で冗長で危険な空間となったことも一因であるが、港とまちの機能上あるいは空間構成上の関連が弱まったことも重要な要因であると思われる。本研究では空間構成に視点を据え、港とまちを関連づける方法としてどのような方法があるかを明らかにした。これらの港と町を関連づける方法が、歴史的にどのように変遷したのかを明らかにするために、江戸時代から現代までを、江戸期、明治大正期、戦後期の3期に分け、各期の代表的な港湾を対象に分析した。
    分析の結果、港とまちとを強く関連づける方法として、(1) 港とまちの間に方向性をもつ軸線が形成されている、(2) 港とまちの間に連続性をもった空間デザインがある、(3) まちから港あるいは港からまちへ意識と視線が集中する焦点がある、(4) まちの中で港を眺められる視点場が多様にある、(5) 港湾施設そのものや港内ゾーニングに親しみを与える工夫がなされている、以上5点があげられた。江戸期にはこれら5つの側面すべてに工夫が見られ、港とまちの空間的関連が非常に強かったと考えられる。明治大正期になると近代的築港技術が導入され、大型船舶に対応した港湾が建設されたが、なかでも、方向性をもつ軸線が多様に強調され、港とまちの関連性を保っていた。戦後期では、重化学工業の生産基地等として、港は超大規模化し港とまちが離れたが、展望塔や高層ビルなどが視点場あるいは意識と視線の焦点となっており、港とまちは、立体化したかたちで、関連性を保っている。
  • 山田 啓一, 田辺 淳
    1985 年 5 巻 p. 121-127
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国の大河川の治水計画では, 100年あるいは200年に1度程度生起すると考えられる洪水がその対象とされるのが通例である。
    なお, 水文観測期間の制約から, 解析対象となるのは近年の洪水群に限られ, これらがその規模や形態において当該河川の洪水史上どの様に位置づけられるかが明らかにされる必要がある。
    本研究は, 千曲川流域で既往最大と言われる寛保2年 (1742) 8月大洪水の規模と形態を各地に散在する文献史料の収集, 分析と洪水痕跡の測量による洪水位の推定から明らかにした。その結果, 多雨域は千曲川止・中流右支川域であり, 洪水位は明治29年洪水と比較して1.2~1.6m高かった。
  • 望月 達也, 小川 淳一, 鈴木 栄
    1985 年 5 巻 p. 129-134
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    信濃川の治水の要、大河津分水は越後平野を洪水の危機から守るため、当時の内外土木技術の粋と多くの労苦により完成し、以来半世紀以上の間、十分にその務めを果たしてきた。しかしそれはたゆまない維持管理の賜物であり、河床低下対策・構造物の改造・操作方法の変化といった多くの変遷を経て現在の姿となっている。完成後半世紀余りを経た今、これらの変遷を振り返ると共に現状に於ける大河津分水の評価を行った。その結果、自然河川とは逆に下流程勾配が急で河幅が狭くなるという河状が様々な問題を引き起こしたこと。構造物ではゲート以外さほど老巧化していないことなどが明らかになった。今後の施設の計画にはこれらのことをふまえた計画が望まれる。
  • 外川 忠利, 大熊 孝
    1985 年 5 巻 p. 135-142
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    新潟平野を形成するのに大きな役割をはたした信濃川は、平野の形成とともにその河道を様々に変え、たびたび人為的な手も加えられ、現在に至っている。この信濃川の河道変遷に関する研究は、昭和8年 (1933年) の岩田孝三の「越後平野に於ける河道境界に就いての政治地理学的研究」(大塚地理学会論文集第二輯) に詳しい。
    しかし、その後の各種治水史、郷土史の信濃川河道変遷に関する記述は、この岩田論の引用にもかかわらず、岩田の名が記載されず、それ以後の発展もほとんどみられない。
    そこで本論文は、この岩田論を再確認するとともに、さらに新潟平野に関するその後の研究の中から、遺跡という点に着目しこの岩田論に再考察を加えたものである。
    新潟平野の全般的な開発は、岩田によれば、400年程前とされていて、それ以前の新潟平野はほとんど湖沼でおおわれており, 人の生活はなかったとされている。しかし遺跡等の分布から想定すると、少なくとも平野の一部では、縄文時代から人の生活が始まっており、600年以前には, 人の占居が十分あったものと考えられる。
  • 青木 治夫, 割出 賢治
    1985 年 5 巻 p. 143-148
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    辰巳用水ができたころ、近くで隧道を用いだ用水が数ケ所造られた。そのなかで、加賀地区の市の瀬・寺津・長坂の三用水の隊道にどんな技術が伝ったかを現地調査で確認するため、まず当初水路を極めて乏しい資料をもとに求めて、比較してみる。
  • 岡田 憲夫, 稲松 敏夫
    1985 年 5 巻 p. 149-156
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    河北潟は、石川県内灘町の日本海海岸の近く。内灘砂丘をはさんで2, 248haの大きな湖沼であるが、前田藩主の奨励によって、延宝6年 (1673年) 第1回の埋立てが行われてから、180年後嘉永2年 (1849年) 7回目に銭屋五兵衛の埋立てが着工された。五兵衛の埋立計画は周囲27km、面積23km2 (2, 300町歩)、50, 000石増収を目的とした20年計画の壮大なものであったが、着工後2年目で、所謂魚の中毒事件で漁民の告訴によって、銭屋五兵衛一家が捕えられ、埋立工事も中断した。その後数回、沿岸農家から埋立申請が出されたが、着工に至らなかった。
    終戦後、昭和28年頃より内灘砂丘米軍試射場反対運動が起り、その後昭和38年農林省北陸農政局により埋立方式でなく, 干拓方式によって、干陸工事が行われ、昭和50年干陸式を行い、現在2, 248haの潟面積の中60%1, 358haが干拓され、その8割が畑地、2割が酪農地として20余戸が酪農家として入植している。
    本稿は, 藩政時代特に銭屋五兵衛時代の埋立工事と、現在施工された干拓工事の技術上の相異点と、時代的背景、並びに銭屋五兵衛の埋立工事及び魚中毒事件の背景についてまとめた。
    尚、60年5月21日完工式が行われる。第1回の埋立工事より実に312年目にあたる。
  • 石崎 正和
    1985 年 5 巻 p. 157-162
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    近世における築堤, 切所締切, 護岸水制, 井堰, 圦樋などの水利技術をみるとき, 各地の河状に応じた多様な工法が独自の発展をしてきたことに注目される。そうした技術の考案は, その地域ごとの河状への具な観察と経験に負うものであり, 一見非科学的に見えながらも極めて合理的である。ただし, 技術が普及するに従って, 必ずしも適切な工法の採用が撤底しなかったこともあったようで, 地方役人の手引書ともいうべき地方書の類では, しばしば工法の適用にあたっての注意を喚起しており, 功者としての資質を要求している。一方, 水利技術は時代的要請に応じて変化するものであり, 近世を通じて決して固定化されたものではなく, 幾多の変遷が見られる。なかでも享保期の前後あるいは近世後期において比較的大きな変化が表われている。本稿では, 近世における代表的な地方書や農書あるいは幕府の令達などの文書を通じて, 水利技術を理解する上での基礎として, まず当時における河状に対する認識の仕方について言及し, 続いて近世を通じての水利技術の大きな流れについて概観した。さらに水利技術そのものではないが, 洪水防禦といった面において, その最も重要である堤防の機能と一体となった水防のあり方について触れている。
  • 風間 輝雄
    1985 年 5 巻 p. 163-168
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    洪水時の水防活動は、治水施設とともに洪水氾濫の防止に重要な役割を果たす。今日、各地で水防態勢の強化が図られているが、その際、過去の時代に水防の組織や態勢がどのようにつくられたかを振り返ってみることも必要であろう。本研究は、江戸時代から明治前期まで、明治中期から戦前まで、戦後から現在までの3期に分け、それぞれの時代について水防組織の成立と変遷を分析する。今回は江戸時代から明治前期を対象とし、信濃川筋白根郷、大井川下流右岸、木曽三川輪中地帯を取り上げる。
    江戸時代における水防態勢の特徴を整理すると (1) 江戸時代には水防態勢はよく整備され、その内容も今日とあまり変らず、今日の原型をなしている。(2) 水防は、地域住民だけでなく為政者にとっても重要な課題であり、為政者は水防態勢の強化にたえず努めた。(3) 水防は農村ばかりでなく、都市の生活にとっても重要であった。
  • 徳島の地方新聞にみる明治年間の治水動勢
    澤田 健吉
    1985 年 5 巻 p. 169-177
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    吉野川の過去の実態を豪農や庄屋の日記, 藩法や諸報告, 各種の民間治水論を検討することで想像しているが, 本論では明治時代に発刊された徳島の地方新聞を資料として検討した。吉野川は過去氾濫を繰り返して来たが, 現在下流平野は大堤防に護られて全てを忘れ去ったように見える。明治時代はこのような大転換を始めた時であって, この間には官側と民側の間の意識の違いのため, いろいろな事件が発生している。またこのような事件の間でも間違いなく洪水は発生している。したがって宮民の意見の対立と, それに大きな影響を与えたであろう洪水の実態を具体的に知るのは, 吉野川の歴史を調べる上できわめで興味深い研究テーマになる。本論ではこの目的のため, 宮側で編集した資料だけではなく, 民側の動きを記録している新聞を利用することを考えた。
    この結果洪水の持つ種々の型, したがって被害の状況の差を確認出来, また治水工事の計画の進展の過程と'洪水の発生を編年的に並べることにより, 個々の事件を歴史として連続的に解釈することが出来るようになった。この場合前記の被害の性格の違いを考慮すると, 解釈の興味は一層深いものになる。
  • 各河川水力開発の変遷 (その4)
    稲松 敏夫, 氷見野 省蔵
    1985 年 5 巻 p. 179-186
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者はききに第一回~第3回にわたって、電力土木の変遷と、電力土木に活躍した人びとを中心に、各河川の水力開発の変遷について、先づ北陸地方の各河川一神通川、常願寺川、手取川、九頭竜川、黒部川、庄川の水力開発に活躍した人々を中心に、水力開発の変遷について述べて来たが、今回は、東北地方の各河川特に只見川、阿賀野川の水力開発の変遷と、特に只見川開発に関する政治問題との関連の結果、開発が決定し、その開発工事に至った経緯と変遷と、その開発に一生を水力開発事業にささげた人々の生きざまをまとめたものを発表する。
    本稿は特に只見川開発に当初から最後まで全生命を打ち込んで一生を捧げられ、努力きれた北松友義翁 (日本発送電 (株) 東北支店土木部長、電源開発 (株) 田子倉建設所長、明治28年生れ90才) に直接58年9月、仙台でお会ひする機会を得た際、北松翁からお聞きした話と、資料を中心に取りまとめたものである。
  • 松浦 茂樹
    1985 年 5 巻 p. 187-195
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    河水統制事業は、今日の多目的ダム事業の出発点となった事業である。我国には大正末期からダム事業が紹介され、研究が進められていったが、その本格的着手をみるのは昭和10年前後である。当時、我国は大陸で激しい軍事活動を展開していた。これを支える基盤として重化学・機械工業が発展し、都市への入口集中が進んでいた。これに伴い都市用水の需要が発生していた。これまで山間部での水力発電、平地部での灌概用水が中心であった水利秩序は、大きな転換を迎えていたので利水行政に軋轄が発生していた時に、河水統制事業は登場したのである。
    この時期の河水統制事業を、昭和14年行われた内務技師高橋技師の講演集に基づき考察ずる。本事業は利水、治水を目的としていた。利水について工業用水・飲料水の都布用水、都市河川浄化用水の確保を主張するとともに、旧来からある灌概用水、発電用水、流筏、漁業との調整、風致関との調和を指摘する。また河口部大都市における内陸舟運の整備を主張する。環境問題が前面に出ている今日からみて、都市浄化用水の確保と風致関係との調和は、大いに興味あることである。
    高橋技師の講演にもみられるように、河水統制事業を推進するにあたってアメリカのT. V. A計画が刺激を与えた。その具体的状況を安田正鷹著「水利権・河水統制編」に基づいて考察する。
    河水統制事業の異体的状況は、戦後日本のT. V. Aといわれた北上川で検討する。北上川の特性を踏まえ、利水も含めた種々の観点からの検討、代替案との比較の上で選定された。その状況を富永正義博士の「北上川上流改修計画樹立とその後の経過に就いて」に基づいて考察する。なお北上川の利水開発は水力が中心であったが、水力開発は海軍の人造ガソリン製造と結びついていた。
  • 天野 光三, 前田 泰敬, 二十軒 起夫
    1985 年 5 巻 p. 197-205
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    前回、大阪都市圏の鉄道網の発展が、都市の発展過程と、どのような関係を持ちながら変化してきたかを、比較的競合路線の少ない東大阪地域について、経年的に地図と地方史をもとに調査した。
    今回は、鉄道敷設以前の交通網と、鉄道敷設後の交通網について、都市発展との関係を調査した結果について報告する。
    東大阪市地域は、昔の河内の国の中央北部に当たり淀川, 大和川の2大河川にはさまれた、旧大和川の溢流地域である。これらの河川が運んできた肥沃な土壌によってはぐくまれた河内平野の農産物は、綿, 菜種といった二次加工を必要とする産物が多かった。そして、これらを製品化するための輪送, また、瀬戸内海を控えた、堺, 大阪の港への輪送や, 市場と京都, 大和への人貨の輪送は、河川を利用した舟運と、堤を利用した陸路や生駒山脈越えの道によって行われていた。しかし、明治以後の近代化によって、交通手段の変革、即ち鉄道, 自動車の出現, 並びに、治山・治水事業により水利にも変化をきたし、舟運の衰退とこれに替わる道路網の発達によって集落の形成状況が大きく変化し、都市化の状況が著しく変貌した。
  • 200フィートダブルワーレントラスを中心として
    小西 純一, 西野 保行, 渕上 龍雄
    1985 年 5 巻 p. 207-214
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    A historical sketch of railway truss girders constructed in Meiji era (1858-1912) is described. This is the first part dealing with the 200ft double Warren truss girders which is believed to be a representative of the British school of design. A total of 112 girders were imported from England and erected in 1886-1898, 22 of which were made of wrought iron and remainings were wrought iron and steel combined girders. In April 1985, 18 girders are still stand, most of them are in use, though 9 of them are shortened.
  • その現状と土木史的価値検討の試み
    伊東 孝, 土屋 幸正
    1985 年 5 巻 p. 215-221
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    信越線横川駅の跨線橋が, 今年 (昭和60年) の3月, 改築された。旧跨線橋は, 橋脚に「鐵作新橋明四十」「鐵道新橋明四十」の銘が鋳出された古いものであった。
    本稿は, 旧跨線橋の土木史的な価値を検討すると共に, その保存施策の報告である。
    旧跨線橋は, 1909 (明治42) 年の「跨線橋定規」(以下「定規」) が出される前の貴重なものであり, 「定規」にある4タイプのうち, 一番小さな跨線橋 (タイプIV) に近いものである。1964 (昭和39) 年の補修の時, 旧跨線橋は短かく切り取られた。その結果, 長さの面で, よりタイプIVに近づいた。
    橋脚は, 日本製の鋳鉄柱であるが, 跨線橋の主桁や小屋組の鉄材は, 英国からの輸入材であることも判明した。跨線橋は, 和洋混用で作られたのである。
    関係者の努力により, 全国で初めて, 橋脚4本の現地保存がなされた。しかし今回, 保存施策として重要なことは, このような記念碑的な一部の展示保存を越えて, 記録保存・部材の強度試験など, 古い土木構造物を取り壊す時の一つのルールを提供したことにある。
    最後に, 煉瓦積みのアーチ橋やトンネルなど, “群” として残る旧碓氷線 (以下「碓氷線」) の貴重な (しかし荒れるにまかせられている) 歴史的土木構造物群を簡単に紹介する。
  • 上間 清
    1985 年 5 巻 p. 223-230
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In Japan today regional development plans and projects are to be promoted by the planning philosophy of so-called “Stable Inhabitation” that emphasizes a regionoriented planning on the basis of the conditions -cultural as well as natural and socio-economic-of the region in question.
    This requirement sometimes urges regional planners to shift the way of planning from so far familialized “catch up-to-the national standards” method to that enhancing regional qualities.
    To meet this in making physical environment it is essential to review the assessment of historical structures of local interests in which lies the possibility of finding the criterion leading to the design of regional interests.
    In this paper the author reviews the case of the assessment in Okinawa island along with the evaluations by prominent personages related.
  • 二等辺長776kmの橿原宮の三角形
    木村 俊晃
    1985 年 5 巻 p. 231-241
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    今日全く忘れ去られているが、古代日本にエジプト伝来の高度測地技術が存在したことは、筆者のこれまで3回の報告その1「対称論」1)、その2「尺度論」2)、その3「魏図形論」3) に示した数多くの例証によって、ほぼ確実であると認められる。
    今回は、エジプトとの深いかかわりを前提として、山のもつ宗教的・測地学的意義に着目し、2・3の実例を示しながら、王城・王墓など古代社会の重要施設の基本的な位置決定原理を提示した。
  • 横平 弘, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1985 年 5 巻 p. 243-250
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    健全な都市の発達には地盤・地質が良好であることが不可欠であり、都市化の基本粂件にもなっている。
    札幌市は明治初年に、比較的地盤の安定な豊平川扇状地上に方形街路都市を計画し、その後、扇状地周辺部に著しく拡大発展してきた。
    札幌市の市街地の地盤は地耐力 (標準貫入試験のN値)、地形、地質などから、次の4段階に分けられる。
    I: 低N値 (N値5以下)、主に沖積軟弱地、地耐力小
    II: 中N値 (N値5~15)、主に扇央-扇端部、地耐力中
    III: 高N値 (N値15~30)、主に扇頂部、地耐力大
    IV: 特高N値 (N値30以上)、主に新第三系、地耐力特大
    この区分によって作成した地耐力分布図を基に、当初の札幌市の市街地と、その後の発展過程をたどると次のようになる。
    (1) 第1期: 1982 (明治15) 年の状態地下水の得やすい豊平川扇状地の扇端部を中心に、最初に市街化された。ここは中N値で、地盤は比較的安定である。扇頂-扇央部の山鼻屯田集落も中N値で、東屯田通りは既に札幌市街と連坦していた。
    (2) 第2期: 1896 (明治29) 年の状態市街化は中N値を示す西方及び南東方へ豊平川を渡って進展し、鉄道を越えて北東方へも及んだ。また、北大の移設に伴い、創成川北西部の低N値の地盤も初めて市街化した。
    (3) 第3期: 1916 (大正) 年の状態引続き同じ中N値の西、東、北西隣接部のほか、薄野南側の南7~9条間への拡張により、中島公園入口までの市街化が完成した。
    (4) 第4期: 1935 (昭和10) 年の状態豊平川以西に残された中N値の扇央地山鼻-南円山地区が、交通機関の発達に伴い著しく発展した。同じ中N値で桑園、及び苗穂南方から豊平川を渡り豊平7条付近にも向かった。北方では北大病院の開設により、低N値ながら北19条まで延伸した。
    (5) 第5期: 1960 (昭和35) 年の状態人口急増に伴い、中N値の南、西、南東方の各周辺部へ虫食状に宅地が蔓延し、国道沿線に飛地状であった月寒などと連坦した。小N値の北西-北-北東隣接部も引続き扇状に広範に進展した。高N値を示す月寒駅北-下白石間が飛地的に市街化したことは注目される。
    (6) 第6期: 1975 (昭和51) 年の状態全般的に虫食い開発の隣接周辺部への穴埋め的市街化の拡大が進んだ。旧月寒駅北同様、西岡西方地区も高N値で、都心にもやや近くにあるが、地形の起伏が大きいために都市化が遅れたと考えられる。また、白石駅北側の北郷地区も高N値であり、交通の発達により最近発展しつつあるが、その北隣の米里-川北-川下地区一帯は低N値のため、都市化はやや停滞している。
    以上の都市化過程を概観すると、第1~2期はほぼ札幌扇状地の扇央-扇端部の良質地盤上での自然順応的都市化であったが、第3期は膨張拡大発展し、北部のやや不良地盤地域へも都市化が進行した。第4期では市電交通網の整備により扇状地地域の都市化がほぼ完成し、第5期は入口の急増に伴い、周辺部の良質地盤へのスプロール的都市化が現われ、第6期にはバス・地下鉄網の発達により、不良地盤地域への都市化が蔓延し、地盤災害を惹起することとなった。
  • 札幌市白石区を例として
    山村 悦夫, 加賀屋 誠一, 岩佐 正明, 竹村 勉
    1985 年 5 巻 p. 251-256
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    歴史的研究においては, 現時点のような正確なデータの入手が困難な場合が多い。そこで, 現時点で豊富なデータを絹いて地域モデルを作成して, 限られたデータしか把握することのできない過去に遡り後方展開する再現モデルを考察する。このモデルによって, 札幌市白石区をとりあげ, モデルの有効性を検討した結果, 妥当なモデルの信頼性が得られた。分析結果としては, 白石区における住民の定住化過程として, I期1873 (明治6)年-1912 (明治45)年, II期1913 (大正2)年-1945 (昭和20)年, III期1945 (昭和21) 年-1959 (昭和34) 年, IV期1960 (昭和35) 年-現在の4期に区分することができ, 限られたデータしかない時期の実状を計量的に把握できた。
  • 帝都復興院をめぐって
    昌子 住江
    1985 年 5 巻 p. 257-263
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    関東大震災後の震災復興事業は, 山本権兵衛内閣の内務大臣後藤新平の構想の下に行われた。復興の主務機関として当初後藤の考えた復興省は他の各省等の反対でつぶれ, 内閣総理大臣の管理下に帝都復興院を置くことで妥協が成立した。帝都復興院には, 協議機関としての参与会, 諮問機関としての帝都復興院評議会があった。復興の最高決定機関としては, 内閣総理大臣の諮問機関である帝都復興審議会が置かれていた。後藤の構想では, 復興計画の決定主体と執行主体, また費用負担の主体は分離されるべきではなかった。また帝都復興院評議会は単なる諮問機関であり, 計画の具体的内容は帝都復興院総裁が決めるなど, 当時の都市計画法制を修正した形をとっていた
    。帝都復興院ではまた積極的な人材登用をはかり, 行政のセクショナリズムを排するなどの試みもなされていた。議会における予算審議で, 関係の経費が全面削除されたため, 存続期間は約半年と短命であったが, 復興に関する基本方針はほぼこの時期に決められた。大災害であったとはいえ, 全面的な都市改造を計った事業が, 都市計画法制によらずに企図されたのは皮肉であったが, 都市計画法制定に深くかかわった池田宏は, 「都市計画法制として全国大小の都市にも普及するに至らむ」ことを切望するとこの制度を評した。
  • 越沢 明
    1985 年 5 巻 p. 265-276
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1937年の芦溝橋事件から1945年の敗戦までの間、中国大陸の一部は日本軍の占領下にあった。この時期、華北の現地政府 (曰本のカイライ政権) には、日本の内務省・地方庁より大量の土木技術者が派遣され、占領地の土木事業に従事した。なかでも北京では増加する日本人を収容し、また都市住民のための軽工業を立地させるため、都市計画が立案され、西郊と東郊にそれぞれ新市街が建設された。
    この日本が立案、実施した北京都市計画は、近代都市計画理論 (住区構成、市街化禁止区域の設定等) を導入しながら、かつ北京という都城としての構成原理を尊重し、明解な軸線を有していた (東西軸は長安街の延伸、南北軸は万寿山を起点とする)。この日本による都市計画は、現在の北京の都市形態に大きな影響を与えている。
  • 山形 耕一, 小柳 武和, 笹谷 康之, 遠藤 毅
    1985 年 5 巻 p. 277-287
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    日立市は、日立鉱山と日立製作所の発展とともに歩んできた、近代工業都市である。可住地域は、阿武隈高地と太平洋に挟まれた東西2-3km、南北20kmと細長い台地にある。昭和8年に都市計画地域に指定されて以後、市内を通る国鉄常磐線の4つの駅前地区の区画整理が大規摸に行なわれ、主要な区画整理街路が都市計画道路に編入され、これを幹線街路でつないて街路網が形成された。広幅員街路の建設を達成した日立地区の戦災復興計画、放射環状街路と15か所の広場を計画し新都市開発をめざしたが、一部しか完成をみなかった多賀地区の計画、日立製作所の工場用地取得を契機とする小木津・大みか地区の区画整理事業と、各駅周辺地区ごとに特色のある都市計画が行なわれた。一方、市域全体を考慮した街路計画が遅れたために、駅周辺地区以外では、無秩序な市街地が形成され、交通渋滞が発生ずる一因となった。
  • その1大化改新から平安時代末期まで
    福島 二朗, 西片 守
    1985 年 5 巻 p. 289-294
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、大化改新から江戸時代までの東山道をとりあげ、その果たしてきた役割を時代ごとに明らかにすると共に、地方の地域社会発展にどのような影響を及ぼしたかを、栃木県足利市を例としてとりまとめたものである。
    今回は第一回目の報告として、大化改新から平安時代までをとりあげたが、この時代における東山道は国家統一・中央集権的支配体制の確立を目的としたものであり、その機能は次の3項目に大別することができる。
    1. 東国以東の地域を中央支配体制の中に組み入れるための軍事的目的
    2. 中央の経済基盤を固めるための物資 (調庸) 輪送
    3. 精神的支配を目的とした仏教の普及
    本稿では、この3つの機能についての裏付けを、古代政治・制度等との関わりから明らかにすると共に、中央と地方との媒介としての東山道によって、その経路に位置した足利がどのような変貌を遂げていったかを述べた。
  • 武部 健一, 甲斐 連一
    1985 年 5 巻 p. 295-302
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    前回 (第4回) の本研究発表において、日本の幹線道路網の歴史的変遷を概観し、特に古代七道駅路と現代高速道路との間に種々の特性において顕著な相似性のあることを明らかにした。今回はそれら諸特性のうち「路線位置」に着目し、その観点からは、実質的に (1) 古代路 (2) 街道 (3) 高速道路の3区分によることが妥当であることを示し、それらの時代的特性を考察する。また具体的事例研究として、九州佐賀平野における古代路、街道および高速道路の路線位置の変遷に着目し、古代路と高速道路の相似性が、両者の持つ広域連絡網という基本的共通性と、同地域の平野の形成の歴史的過程の両者から由来するものであることを論考する。
  • 堂柿 栄輔, 千葉 博正, 五十嵐 日出夫
    1985 年 5 巻 p. 303-308
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    海を隔てた全く新しい地域に於ける開発計画は物資及び人の輪送機能を確保する所から始まる。当時の北海道の開発を支えた交通は, 第一は対本州との連絡に関する交通であり他の一つは道内各地を結ぶ交通である。この道内各地を結ぶ交通機能は道内拠点間交通と拠点内交通に分けて考えることが出来る。本研究もこのような点からその実態を明らかにした。陸上交通は鉄道と道路によりなされるが, 鉄道については前回の発表結果をそのまま引用した。従って明治開拓期に於ける本道交通の分析の視点は以下の点にまとめることができる。
    (1) 対本州間の海上交通について海上航路及び陸上交通との結節点である港湾施設の機能
    (2) 道内拠点間交通について当時の道路施設としての輸送力
    (3) 北海道の開発拠点となった札幌の拠点内交通について
    今日の発展を見るに至った新開拓拠点札幌に於ける交通の量と質
    今回は主に札幌を中心とした陸上交通について考察したものである。
  • 榛沢 芳雄, 為国 孝敏
    1985 年 5 巻 p. 309-312
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治期は, 冨国強兵, 殖産興業政策のもとインフラストラクチャーの整備がなされてきた。しかし, 鉄道や河川事業に比べて道路整備事業は遅々として進まなかった。自動車の出現が期末であったこともあり, 自動車交通を対象とした近代的な道路整備はこの時代には出現しなかったといえる。
    明治期の他の事業や経済情勢に勘案して, 若干とりのこされた感のある道路整備ではあるが, 一方では, アメニティの追及が生活道路を中心としてみられる。
    これらのことから, 明治期における道路は江戸時代からの道に対する思想の終えんとして, そして現在に至る近代的道路整備への転換期として, 試行錯誤を繰り返ているものといえよう。
  • 九州北部地区を鋼として
    秀島 隆史
    1985 年 5 巻 p. 313-322
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    道路の発生が、人類がこの地上に生活を開始すると同時であったことについては、異論のないところであろう。しかしながら、これを「道路網」として補える場合には、やはり、地方あるいは中央集権的な権力の確立によって、政策的な意図のもとに配置せられたものによって、把握せざるを得ないのであろうと思われる。
    物理的な道路そのものの実態は、時代の流れとともに、政治・経済・社会状勢の変化、輪送機関の発達、土木技術の発展などによって、部分的には廃絶したり、あるいは大きく変化してゆくものではあるが、しかし、幹線道路網という大局的な視点から見ると、その基本的な変化は意外に少ないのも事実である。このことは、地形・地勢などの自然条件に基く、人間生活上の好適地、あるいは道路の対面する地形上の制約などの条件というものが、時代の流れを超えて、依然として存在していることを示すものでもあろう。
    このことについて、九州北部地区を例として、駅路、街道、国道という道路網のうつり変わりについて考察したものである。
  • 篠原 修
    1985 年 5 巻 p. 323-330
    発行日: 1985/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In the paper, the difference and sameness of the road images between Japanese and French, German, English are investigated. Many sorts of words of road were picked up from these four languages first, and then the original meaning of the words were inquired from the etimological viewpoint. The road images were discussed and compared by means of these original meanings finally. As a result, the basic road images of Japanese were classified into following six categories. (1) as a orientation indicator (2) as a space for passing (3) as a element to divide and enclose houses (4) as a element of connecting (5) as a thing having long streching form (6) as a way of go and back, former two are pure Japanese images and the latter four are Chinese-Japanese ones. On the other hand, the basic images of French, German and English were classified into nine categories. (1) as a breaked way (2) as a way to reach (3) as a way of paved or unpaved (4) as a space for rambling (5) as a trodden way (6) as a way on wall (7) as a way beside water (8) as a horse riding way (9) as a city boundary element.
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