日本土木史研究発表会論文集
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最新号
選択された号の論文の31件中1~31を表示しています
  • 堂垣内 尚弘
    1989 年 9 巻 p. 1-25
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 藤田 龍之
    1989 年 9 巻 p. 27-31
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    現在用いられている「土木」という言葉については、いつ頃から使われていたのかについては明らかにされていない。明治以前は使われていなかったとか、あるいは、全く反対に「土木」という言葉は古い言葉で孝徳天皇の時代つまり大化の改新あたりにあった、という色々な説がある。そこで、「権記」を始め日本の文献に現れる「土木」という言葉について、その出典と語議の歴史的変遷について考察し、現在われわれが用いている道路、橋梁、築堤工事などを意味する言葉として使われるようになったのかについて明らかにする。
  • 鉄道路線データについて
    窪田 陽一, 野田 裕志
    1989 年 9 巻 p. 33-39
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The aim of this study is to develop data base system dealing with digital map data. A case study is made concerning railway route data connected with relational data base system for historical indexes. Referince is made through the relational data base system and graphical presentation is displayed on the CRT screen by BASIC program. Several observations were obtained on the articulation of railway data.
  • 中岡 良司, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1989 年 9 巻 p. 41-48
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、新たに開発した土木年表デ-タベースを用いて、日本の土末技術の発展の足跡をたどると同時に、海外の土木技術との比較を試みたものである。
    土木年表デ-タベースは、既存の主要な土木年表数種を基に、その記事内容を相互に照合し、訂正、削除を通じて現時点で望み得る最も信頼性の高い年表としてまとめ上げている。また、各記事に対して、関係の深い土木工学の専門分野名を付け加えることによって、分野則年表の出力を可能とした。これらの年表においては、各分野の技術が最も変化したと考えられる主要事項を抽出し分野甥の概略年表を作成した。
    今日のわが国の土木技術が、明治期の欧米諸外国からの技術輸入に基礎を為し、戦後、大きく飛躍したことは周知の事実である。その意味で、概略年表から新たな知見を得ることは少ないが、土木技術の発展の大きな流れを知る上では有用であろう。
  • 北海道広域三角測量技術導入について
    山村 悦夫
    1989 年 9 巻 p. 49-54
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    開拓使は洋式測量による北海道地図を作成するため1873年 (明治6年) 4月よリワッソンの指導のもとに広域三角測量を開始し、その後、デーの指揮のもとで三角測量の基線を詳細に測量している。これには、日本の技術者、荒井部之助、福士成豊をはじめとして参加し、わが国初めての洋式広域三角測量技術を修得した。ここでは、従来からの測量技術と洋式三角測量技術を比較検討して、この技術の導入と受容努力過程と適応過程について考察するものである。
  • 馬場 俊介, 二宮 公紀, 三島 康生
    1989 年 9 巻 p. 55-62
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    土木史研究の意義。あり方について、縦糸に既往の土木史研究の分類を、横糸に他分野での土木関連の歴史研究の分類を配して分析。評価する。比較分類のテーマとしては、非土木分野との関連から《交通》を取りあげる。文献の出典としては、土木分野では「日本土木史研究発表会論文集」を、非土木分野では「歴史地理学」、「社会経済史学」などの専門雑誌・書籍を対象とする。分野による視点の違いを分析することで、土木史研究の多様化に結びつけるための基礎データ作りをめざす。[一般]
  • 鈴木 恒夫
    1989 年 9 巻 p. 63-70
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 今沢 豊正, 鈴木 恒夫
    1989 年 9 巻 p. 71-78
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 亀井重麿を中心として
    長谷川 博
    1989 年 9 巻 p. 79-88
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    攻玉社は鳥羽藩士近藤真琴 (1831-1886) が, 文久3年 (1863) に四谷坂町の自宅で, 同学の士に蘭学を教授したことに始まる。これは当時の藩校等に対する私塾 (Private Academy) で, その後, 攻玉塾から攻玉社と発展し, 中学校, 工学校と商船簧の三校並列で現在に至っている。真琴は和漢蘭英独の語学に通じ, また軍艦操練所 (後に海軍兵学校) 測量算術教授方として, 創設時の海軍にも貢献した。近藤は当時の “富国強兵”, “殖産興業” のため, には, 先づ海外交易と国土開発とのための入材の養成が必要と断じ。私財を投じて, 航海測量習練所 (明治7年) 及び陸地測量習練所 (明治13年) を作った。これ等の工学校や商船簧は, いずれも, 小学校から入学できる学校で, 藩校や官立の高等教育機関 (工部大学校) 等に行けない子弟を受け入れた。当時は, 地方の青雲の志を抱いた青年は。先輩知人を頼って都会へ “留学” して勉強し官吏その他それぞれの “出世” の道へ進んだ。
    攻玉社陸地測量習練所は後に土木科 (明治21年) となり, 31年からは夜間授業となって, 働く青年のための中級技術者 (技手) の養成機関として, 多くの実力の有る土木技術者を世に送り出し, “土木の攻玉社” の名声を得た。
    また, 攻玉社の教員や卒業生は, 土木を志す人々に解り易すい講義録・便覧・解説書を多数出版し, 明治時代の技術の普及向上に貢献した。
    以上のことを, 攻玉社を明治26年に卒業した東京市技師亀井重麿を通して検証した。
  • 石崎 正和
    1989 年 9 巻 p. 89-93
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    河川堤防は, 古来より洪水防御のための河川構造物として重要な役割を果たしてきた。しかし, その堤防の計画手法に関する歴史的な考察はほとんど行われていない。本稿では, 堤防の断面形状を示す要素である, 堤高, 天端幅, 敷輻, 法勾配のうち, 地方書や農書などの近世文書では全く触れられていない堤高に着目して, その計画手法の一端を明らかにするものである。現在の治水計画における堤防の高さは, 計画高水位に余裕高を加えて決定される。こうした堤高決定方式の萌芽をファン・ドールンが明治6年に著した「治水総論」にみることができる。しかし, 明治以前においては, 計画高水位という概念はみられない。つまり, 近世における堤高の決定は, 堤防の増築経緯からみて, 過去の洪水を考慮して経験的に決められ, その後の出水に対応して嵩上げを行う方式が採用されていたものと考えられる。また, 堤高や出水位の表示は「平水」「常水面」「常水位」といった水位を基準に示されており, 低水あるいは平均水位のような低い水位が, 計画面で採用されていた。したがって, 舟運のための航路維持や農業用水の安定取水といった河川の利用面から把握されていたであろう, 低水や平水時の水位を基に基準水位を決定し, 堤高はこの基準水位上何尺何寸として計画され, 明治以降の計画高水位を基準とした堤高決定方式とは全く異なる手法が採用されていたものと考えられる。
  • まとめとしての史観
    澤田 健吉
    1989 年 9 巻 p. 95-102
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    吉野川の歴史という課題を掲げて何回か発表を続けてきた。その方法は、その都度多くの資料を一定の考え方のふるいにかけて選り分け、それぞれについて議論をしたものである。この考え方が各回の副題になっているのはいうまでもない。こうすることにより川のいろいろな面が、多次元的に見えてくると考えたからである。このような手段による報告も、8回を数え一応の量にもなったので、これを纒めてみた。
    ただここで纒めるというのは、単に吉野川の周辺で起きた事件を編年的に並べることを意図したわけではない。このような事件の裏で、例えば住民の意識の変化が起きたか、川を見る目に変化が起きたか、これを問題することでなければならない。このために本研究会で発表した論文だけでなく、徳島科学史雑誌に投稿した経験などを活用してみた。
    さらに、これらを一つの体系の中に位置付けるため、誤解を覚悟であえてゲーテの自然学と呼ばれ、自然を対象化し制御しようとするものでない、新しい人間と自然の関係を求めるといわれる考えによってみた。
  • 各河川水力開発の変遷(その8)
    稲松 敏夫
    1989 年 9 巻 p. 103-114
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者は先に第1回~ 第7回にわたって、電力土木の変遷と、電力土木に活躍した人々を中心に、各河川の水力開発の変遷について、先ず北陸地方、東北地方、中部地方、関西地方、九州地方、関東地方の各河川の水力開発に活躍した人々について述べたが、今回は中国地方及び四国地方の各河川の水力開発にかつやくした人々を中心に、それぞれの河川の水力開発の変遷について述べ、わが国の電力土木の開発に一生をささげた人々の生きざまをまとめた。
    かねて筆者は、日本の発電所の開発の経緯について建設した人々の努力を発掘して、後世に残す事の必要を痛感し、諸先輩方の口述及び資料を取り纏めて、系統的に人を中心とした日本の電力土木の歴史-各河川の水力開発の変遷の取り纏めに努力して来ているもので、その9、その10には残りの北海道地区の外に、火力、原子力土木、及び送変電土木、並びに海外電力土木開発の変遷を取纏め、最終的には、日本の電力土木開発に一生を捧げた多くの人々の中の代表的人物、10数名についての偉業について取纏めて、完結したいと考えている。
  • 雁堤と富士市
    高橋 彌
    1989 年 9 巻 p. 115-121
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    富士川は日本3大急流に数えられる暴れ川である。しかも上流水源地はフォッサマグナに添い、花崗岩の風化帯・火山噴出物等非常にもろいため石礫の流下が極めて多い。そのため上・下流ともしばしば激しい災害を受けてきた。
    富士川下流の流路は、かつて現河道より東寄り田子ノ浦港方向に向かい、多くの派川を持って駿河湾に流入し、洪水と流送土砂によって沿川には広大な扇状地が形成されていた。
    雁堤は1621 (元和7) 年より1674 (延宝2) 年まで古郡氏3代の手によって、その扇頂部に築造された逆L型の平面形状をした特殊河川堤防で、東流する富士川の流れを締め切り現流路に固定したものである。これによって生じた富士川左岸の加島地域には5,000石と言われる開田開発が行なわれ、斬しい多くの村々が誕生した。また、洪水のたびに変わっていた流れが雁堤によって固定され、それまで安定性を欠いていた「東海道富士川の渡し」も、幹線交通の拠点として幕府体制を支える役割が期待されるようになった。
    更に、1612 (慶長12) 年、角倉了以によって開削され内陸との間に始まっていた舟運による交易も、船溜りや流路の安定とともに盛んになり、幕府の財政を支えると同時に地域の経済に大きな発展をもたらすようになった。
    しかし、左岸の堤防が強化されると富士川の急流は、従来と変わって下流に災害を与えるようになり、以来、下流及び右岸の蒲原側がしばしば洪水被害を受けるようになった。
    完成以来300年余を経て雁堤は現在もその効用を発揮しており、加島一帯は工業都市富士市へと発展している。雁堤は、従来、特異な形状と治水面の効果のみが評価されていたが、このように地域発展と社会経済に果たした役割と、歴史的意義は大きい事が認められた。
  • 知野 泰明, 大熊 孝, 石崎 正和
    1989 年 9 巻 p. 123-130
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    In Japan, before river improvement works began from the age of civil strife wars in the 16th century, people had been allowing free floods on alluvial plains. It was construction of embankments in the river improvement projects that had gradually thrusted floods in river ways. In modern ages, embankments had become higher and stronger. Therefore, general people at present have naturally thought that rivers don't overflow their banks. Nowadays, if once we allow floods from rivers, it may cause heavy damages.
    In Japan, it is said that the river improvement works by using high embankments to protect cultivated lands against overflow have begun since the Kyouhou period (1716-1736) in the Tokugawa era.
    Nowadays, we can understand Water use and Control technologies at that time from literatures of the Tokugawa era. In order to know the change of river improvement methods of those days, we have tried to find out development of embankments in the Tokugawa era by using these existing literatures.
  • 山田 啓一
    1989 年 9 巻 p. 131-134
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    Historical data were analiesed for evaluation of the 1742 flood at the Chikuma River in Japan. From the corps damage ratio data at 18 villages along the Chikuma River, the maximum flood heights were estimated at each villages. These maximum flood heighs were plotted and maximum flood stage profile was g i ven. Th i s estimation was verified by flooding marks.
    Nax i mu m flood discharge total flooding a rea and volume were calculated from this profile. Then, it i, vas clearfied that the 1742 flood at Chikuma River was the higgest one in 300 years and had heavy rainfall area at right tributaries of the upper Chikuma River.
  • 中川 武夫
    1989 年 9 巻 p. 135-140
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The Tatsumi-canal is a remarkable monumental work in the history of Japanese water supply canals, and was constructed by Hyoshiro Itaya, the conductor in 1632. This paper is primarily concerned with the technological aspects of the Tatsumi-canal. The hydraulic technologies, channel excavation technologies, water conveyance pipe system and pipe manufacturing techniques adoped for the Tatsumi-canal have been reviewed and discussed. The Tatsumi-canal is relatively well preserved, and thus most of the parts are still operational in the original manner. It is, however, suggested that details of the technologies adopted for the Tatsumi-canal are not sufficiently known. Thus, the further study, especially for the parts extended in 1837 and 1855, respectively, is recommended.
  • 青木 治夫
    1989 年 9 巻 p. 141-146
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/09/28
    ジャーナル フリー
    辰巳用水は360年前の1632 (寛永9) 年に造られ、先ず逆サイフォンによって城内三の丸の濠に注がれ、次いで二の丸に導水された。この木管による導水工法は、我国では神田上水で初めて本格的に採用された。その後、辰巳用に受け継がれるまでの間、近江八幡 (1607)、赤穂 (1614)、福山 (1619)、中津 (1620)、桑名 (1626) の水道がこの技術を用いて造られた。辰巳用水に続いて、高松 (1644)、尾久島 (1646)、宇土轟 (1652) で用いられている。
    神田上水で実現した木管工法は、我国で開発したものか、南蛮技術によるものかは明らかにされていない。そこで、神田上水の初期のものと同一木管工法を用いた辰巳用水の1981 (昭和56) 年の発掘調査から、当時の木管埋設工法を調べてみた。
  • 大名屋敷における給水形態
    神吉 和夫
    1989 年 9 巻 p. 147-153
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本稿は、大名屋敷内における江戸水道の給水形態を水道配管の記された大名屋敷絵図等から考察したものである。彦根藩上屋敷、岡山藩本屋敷・向屋敷・築地屋敷および長州藩上屋敷を取り上げた。彦根藩上屋敷では裏門から入った樋管が、諸殿舎、御奥御殿泉水、添地泉水、屋敷周りの家臣の長屋に配水されている。合計40ヶ所ほどの上水溜桝があり、家臣の長屋では屋外の共同井戸として、殿舎では台所関係・女性の居室に設けられている。また、内玉門繋樋筋絵図には樋管・桝等の寸法が記されている。場所により寸法を変え、水工条件を考慮した配管がなされている。岡山藩江戸屋敷の水道配管を彦根藩上屋敷と較ベると、岡山藩の方が単純で溜桝数も少ない。長州藩上屋敷では上水導水以前は掘井戸が使用されていた。また、水道と屋敷内の掘抜井戸を水源とする呼井戸給水系が併設されていた時期があった。
  • 東北開発の先駆けとなった明治プロジェクト
    須田 熈, 小林 眞勝
    1989 年 9 巻 p. 155-163
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治政府は全国統治と富国強兵の一環として東北開発の方針を採りあげ、その結果、東北地方において7大プロジェクトが計画された。その内宮城県の野蒜築港、福島県の安積疏水、山形県の道路建設が先行された。これらのプロジェクトは、東北地方の河川を利用した内陸水運網をつくり、その結接点に国際貿易港として野蒜港を位置づける壮大なものであった。野蒜築港と安積疏水の二大プロジェクトは東北開発の先駆けとしてその重要性が認識されていたが、野蒜築港は大自然の猛威の前に僅か2~3年の短命で水泡と化し、幻の港となったのである。その後、野蒜村も再起することなく寒村に戻った。安積疏水は荒蕪だった原野に通水され郡山村を核にして点在していた開拓村の発展に寄与し、この疏水なくしては現在の郡山地域の発展を語れないものになった。しかし、この野蒜築港と安積疏水は時代的にも又、ファン・ドールンといった登場人物も共通しているが、そのプロジェクトに対する地域住民の考え方には異なるものが見られる。このような大プロジェクトの成否は土木技術だけでなく、住民のプロジェクトに対する熱意も必要であることが、この2つのプロジェクトの明暗を分けたといっても過言ではないと思われる。
  • 昌子 住江
    1989 年 9 巻 p. 165-172
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    東京横浜における震災復興事業の主体としては、周知のとおり国の機関である帝都復興院 (のちに内務省復興局となる) のほか東京市、横浜市 (一部の事業については東京府、神奈川県) があった。復興計画はほぼ復興院の案にそって行なわれたが、独自の再建案を検討していた東京市側には不満もあった。大体のところは、双方の協議により合意が得られたものの、最後まで折り合わなかったのが河川・運河計画である。当時の東京では、貨物輸送に占める水運の割合が大きかった。しかし河川の管理改良にかける金額が少ないため、年々河川は埋まって船の通行に支障を来すところも出ていた。震災前東京市では河川の改良計画を持っていたが、震災復興事業に際し、さらに多数の河川改修を期待していた。しかし復興予算の削減のなかで、河川・運河計画も縮小されたのである。例えば、神田川と日本橋川を結ぶ西堀留川の延長工事は、秋葉原駅に着く貨物を、隅田川を経由せず日本橋以南に送ることと、行止りになっていて衛生上問題のある同川を、神田川につないで通水させることを目指したものであった。地元は、若しこの希望が達っせられない場合には、むしろ埋めてもらいたいとの意向を持っていた。結果は後者になった。
    また東京市からは、隅田川の沿岸にそって道を付け逍遥公園にしたいとの要望が出されていたが、経費のうえから不可能とされた。震災復興事業では、むしろ河川沿いの道路を廃止し、直接工場・倉庫地帯を設ける方針が打ち出されている。運搬距離が遠くなる、荷役作業が通行人に妨げられる、これらにより荷役費が割高になるなどの理由による (横浜では運河沿いの道路が維持された)。震災復興事業では、限られた予算配分のなかで、河川・運河よりも道路を優先するとの方針が示されたと同時に、隅田公園という河岸公園は生んだものの、設計思想としては、基本的に河川沿いの道路を廃することで、一般の人が河川に近づく機会を減少させたといえよう。しかしながら、逍遥道路を設けなかったことには、当時も環境や景観の側面から批判が寄せられており、さらには貨物輸送における利便性を優先したはずの設計にたいし、水上小運送業者の組合から、潮の満ち引きによって地面までの高さが異なるので、護岸荷揚げの設傭は、横浜のように階段式ないし傾斜式にしてほしいとの要望が出されているのが注目される。
  • 堀野 一男
    1989 年 9 巻 p. 173-180
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    能代港は米代川の河口港として、古来から海上交通の重要な港としての位置をしめていた。とくに、足利中期から江戸時代にかけては、米、木材などの移出港として、また、松前および北陸地方からの塩、毘布等の物品受け入れ港として栄えた。しかし、米代川から運び込まれる多量の流砂と河口をとりまく砂丘からの飛砂、それに漂砂などの影響によって河口が狭められ、とくに冬季間は河口閉塞に近い状態になった。そのため長い間にわたって凌せつ普請、砂防林の植栽などの努力が続けられてきた。
    このような河口港の宿命から抜け出すために昭和39年(1964)には河港分離の方向が打ち出され外港工事にとりかかった。日本海沿岸の港の多くは歴史も古くいずれも河口港で始まっているが、それまでの、河口港を振り切って行われた新潟東港築港、それ以前の苫小牧築港、田子の浦港などの掘り込み港の技術的な成功を足がかりとして港湾の建設は大きく進んだ。つまり、能代港築港は戦後の港湾築港技術の進展とも関連していた。本研究はこのような河口港としての発展、停滞、そしてそれからの脱皮としての新港建設、という歴史を辿った能代港の変遷から港湾計画、地域経済上の現代的な教訓を引き出すことを目的としている
  • 越沢 明
    1989 年 9 巻 p. 181-192
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    戦前の昭和期 (1930年・40年代) は戦時色が強くなる時代の特徴から、都市計画はあたかも何の進歩もなく、暗い時代であったかの印象を持たれているが、これは事実に反する。むしろ日本初の本格的な都市計画事業である帝都復興事業の完成の後、その経験を生かし、また欧米都市計画の動向を踏まえて、日本の都市計画は新たな展開が図られている。
    函館は1934年の大火を契機として、全市街を広幅員の防火緑樹道路によって分断する構想が樹てられ、実現をみた。またこれは都市計画事業によってつくられた初の本格的なブールバールである。
    札幌はすでに既成市街地の街路が完成していたが、1936年、公園系統の考え方にもとづき、広幅員の放射環状道路を配置する雄大な街路網が計画された、また合わせて風致地区も計画されたが、これらの計画は戦後廃止されてしまった。
    帯広では1944年、街路網が決定された。これは斜路と広場を配置するなど従来の帯広の都市形態を発展させた都市デザインであったが、この計画も戦後、ほとんど継承されなかった。
    これらの市街地構成の原理と街路設計の思想は今日、なお学ぶ点が少なくない。
  • 世界にまたがる古代都市の幾何図形
    木村 俊晃
    1989 年 9 巻 p. 193-199
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    昨年は、「古代地域計画の原理その7都市構造論-東京の五芒星-」として、東京の都市構造の基本に古墳時代以前に設定されている直径15PB (PB: 大ピラミッドの底辺長230.94m) および39.27PBの五芒星を示したが、今回は更に資料を追加し、東京・札幌・パリおよびロサンゼルスと代表的な4つの大都市について解析図を示し、都市幾何図形の世界的な広範囲にわたる存在とそのエジプト起源を明らかにし、これらの各都市の規模決定の基準となっている「古代都市級数」を提示するとともに、日本国内のみをみてこれまで考えてきたように、それらの都市幾何図形は古墳の地上設計図ではなく、古代都市計画そのものであると考えられることを論ずる。
  • 明治時代から戦災復興期まで
    榛沢 芳雄, 為国 孝敏
    1989 年 9 巻 p. 201-208
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治21年に東京市区改正条例が発布され、わが国で初の近代的な都市計画法ができたが、その中心は道路事業であった。この当時鉄道駅周辺に見られた用地は、結果として駅前広場のような空間として確保されたに過ぎない。
    大正12年に起きた関東大震災後の帝都復興事業において、都市計画的観点を入れた東京で最初の駅前広場が出現してくるが、当時は街路事業の扱いで実施された。
    その後、郊外電車の発達によるターミナル駅での乗降客の増加と交通量の激増により、第2次大戦前に幾つかの駅前広場計画とそれに付属する街路計画が決定されたが、事業が着手されたのは新宿駅のみであった。
    戦後すぐに街路計画標準がたてられて土地区画整理事業が実施されたことにより、全国的な戦災復興事業の広まりを見た。東京の事業は、財政の悪化等により規模が縮小されたが、駅前広場計画だけは戦前の計画が継承され、その成果をみることができた。
    現在の東京の駅前広場は、多くがこの時の成果を継承したものであり、当時の計画思想が現在に生きている部分も多い。
  • 二宮 公紀, 馬場 俊介, 福田 光修
    1989 年 9 巻 p. 209-216
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    世界の著名な石造アーチ橋の歴史を、形状と強度という技術的な観点から概説する。1章では、石造アーチに対する土木史としての取組みの重要さについて、美術的観点から触れる。2章では、アーチの平坦率を用いてアーチ形状の変遷について分類を行なう。3章では、アーチ橋の崩壊に対する安全性を有限要素法を用いて解析し、解析結果を示す。4章では、結論として、平坦率と安全率を組合せた石造アーチ橋の分類へのアプローチについて述べる。
  • 武部 健一
    1989 年 9 巻 p. 217-226
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    中国におけるアーチ橋の技術について、「中国のアーチの技術はローマのアーチ橋の技術が東漸して来たものだ」という説が、日本で公開されている学術的展示物を通じて主張されている。これに対して中国では「それは中国独自に発達したもので、外国の影響を受けたものではない」とする説が一般的である。
    フールマヤーやジョセフ・ニーダム等、中国の古代橋梁について論じている諸文献と中国自身の関係文献、さらにその他日本の関連文献における論述とを比較し、この問題を検証した。その結果、中国のアーチ橋は、広く歴史的には中央アジアに古く起こったアーチ技術の影響を受けているが。直接的にはローマのアーチの影響を受けたとは認められず、「ローマーシルクロードー慮溝橋」という短絡した形で東漸したと見ることは適当でないことを明らかにした。
  • 米国系トラス桁その2
    小西 純一, 西野 保行, 淵上 龍雄
    1989 年 9 巻 p. 227-238
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    官設鉄道が標準桁として採用したクーパー型トラス桁は10種類で、そのうち100ft上路を除く9種類263連が1899年から1915年にかけて架設された。耐用年数は線区によりかなり異なるが、東海道本線で47年程度、中央本線で66年程度であり、経年88年で今なお使用中のものもある。現在使用中の桁は、転用桁を含めて合計72連となっている。クーパー型の採用はそれまでの英国系からの全くの方向転換であり、連続性はない。クーパー型を少し設計変更した100fしと300ftの国産桁が存在した、輸入ピン結合トラスの最後を飾るのは、阿賀野川釜ノ脇橋梁ほかのカンチレバー式架設工法によるトラスである。わが国の橋梁技術者たちは、米国流の進んだプラクティスを体得すると同時に、アイパーを主体のピン結合トラスの欠点を見抜き、リベット結合に改め、輸入から国産へと転換し・技術的な自立を一段と進めることになる。【明治期、鉄道橋、トラス桁】
  • 石島 孝志, 篠田 哲昭, 大野 和彦, 早川 寛志
    1989 年 9 巻 p. 239-244
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    北海道千歳市郊外支笏湖で多くの観光客に親しまれている人道橋がある。湖畔橋、アイヌ語でPet-Paro橋と呼ばれている。
    この橋のルーツを調査した結果、今からおよそ100年前北海道開拓の時代に始まる。地域の発展。繁栄の要素で拓殖上・軍事上・交通運輪上、最も期待された北海道官設鉄道上川線 (琵琶湖疎水建設等で活躍した田辺朔郎氏の手によって建設) の第一石狩川橋梁であった。
    この橋は、英国製200ftタイプ・ピン構造のダブルワーレントラス橋である。北海道開拓当時の苦労をうかがい知りうる唯一の現存する橋である。
  • 旧・東都鉄道, 旧・阪鶴鉄道をめぐって
    小野田 滋, 司城 能治郎, 永井 彰, 菊池 保孝
    1989 年 9 巻 p. 245-254
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This paper describes the past and present state of railway tunnels, based on field surveys and historical records. In this second report the objects selected are the former Kyoto Ry. and Hankaku Ry., which were constructed to link Keihanshin district with Maizuru area in the 1890s, and the structural features of the tunnels on these railways are made clear here. These two companies were established with similar intentions, in similar periods, on a similar scale; later purchased by the National Railways of Japan, and now the greater parts of the lines have discontinued services upon completion of new lines. These tunnels are found very valuable as monuments to brick or masonry structures of the Meiji Era.
  • 平川 脩士
    1989 年 9 巻 p. 255-262
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    過去において、わが国のニューマチックケーソン工法の歴史について言及されている著書や報文などには、その年代や表現方法をとりちがえて記述されているものが多く見かけられる。とりわけ、圧気工法がわが国にもたらされた時期のものに、これらが顕著のようである。
    エアロックを用いた圧気工法の導入時期は1899年 (明治32年) で、以来今日まで90年もの歳月が経過している。単独の工法としてこのように長年月にわたり定着している工法は数多くみられないと考える。これらの要因を考えてみるに、初期の時代に輸入された施工機械をわが国独自で改良し、活発に現場に活用してきたこと、設計方法の確立、さらに高度な工事管理方法が導入されてきたからではなかろうか。
    本文は、わが国におけるニューマチックケーソン工法の歴史を3編にわけ、第1編は工法導入とその揺藍期のもの、第2編ではエアロック、シャフトなどの改良過程について、さらに本第3編では設計法ならびに工事管理法などについてとりまとめたものである。
  • 芝野 照夫, 土屋 義人, 須山 洋
    1989 年 9 巻 p. 263-270
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    富山県東部に位置する下新川海岸は、日本でも有数の海岸侵食の激しいところである。この海岸は黒部川の流送土砂によって形成された扇状地海岸であって、地質時代から現在までの海水準の変動と関連して形成されてきたものである。本論文では、海岸の変形について長期的および短期的な二つのタイムスケールの観点から明らかにする。前者において扇状地形成当時の海岸線の複原と侵食および歴史時代における耕地や住宅地の決壊について述べるが、扇状地形成当時には黒部川の主流路の河口は下新川海岸の東側にあり、扇状地は拡大・発達の時期であった。しかし、主流路が現在の位置に移動すると海岸への漂砂の供給が断たれるとともに扇状地の縮小期に入り、海岸侵食が生じるようになってきた。この結果、耕地や住宅地の決壊など大きな被害を受け、この事実は口碑伝説として沿岸部に数多く伝えられている。海岸侵食に伴って、その防止対策として各種の海岸構造物が築造されてきているが、その構造物の種類と築造の変遷および海岸線の変化について明らかにしたものである。
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