抄録
1937年の芦溝橋事件から1945年の敗戦までの間、中国大陸の一部は日本軍の占領下にあった。この時期、華北の現地政府 (曰本のカイライ政権) には、日本の内務省・地方庁より大量の土木技術者が派遣され、占領地の土木事業に従事した。なかでも北京では増加する日本人を収容し、また都市住民のための軽工業を立地させるため、都市計画が立案され、西郊と東郊にそれぞれ新市街が建設された。
この日本が立案、実施した北京都市計画は、近代都市計画理論 (住区構成、市街化禁止区域の設定等) を導入しながら、かつ北京という都城としての構成原理を尊重し、明解な軸線を有していた (東西軸は長安街の延伸、南北軸は万寿山を起点とする)。この日本による都市計画は、現在の北京の都市形態に大きな影響を与えている。