日本土木史研究発表会論文集
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明治期における主要な橋の配置計画とデザイン思想
伊東 孝
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1987 年 7 巻 p. 155-162

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抄録
関東大震災後、東京の下町に架設された復興橋梁は、425橋もの多くに達した。これらの橋は、地域ごと・河川ごとにタイプやデザインを類型化でき、しかも皇居を頂点としたデザイン・ヒエラルキーのあることなども判明した (拙著「東京の橋」鹿島出版会、1986年9月)。
明治期に架設された橋は、どうなのだろうか? 結論をいえば、明治期の橋もまた、タイプやデザインは、十分、地域性を考えて決められていた。
本稿では、明治期を、文明開化期と市区改正期との二つにわけ、東京市内に架設された、石や鉄でできた「永久橋梁」が、どのような地域に、いかなるタイプやデザインで架設されたのか、を考察した。橋の重要度を判定する資料として、東京市区改正計画の道路網計画と道路の等級分けを利用した。その結果、次のような考察を得ることができた。
i) 文明開化期には、江戸からの幹線道路、および文明開化の“表玄関”と“顔” の地域に、永久橋梁が架設されていた。
ii) 市区改正期になると、永久橋梁は、日本橋・京橋地区に面的に架設されるようになり、さらに、周辺地域にも架設されるようになった。
とくに大正期に入ると、隅田川をこえて本所・深川に、また月島や芝浦の埋立地にも、永久橋梁が架設されるようになった。
iii) 明治期の隅田川橋梁を架設順に整理すると、直線から曲線へ、単径間の曲弦トラス橋から全径間をひとつにした曲弦トラス橋へと、橋形が変化している。また「さまざまな橋形が展覧された」という意味では、明治期から「隅田川、橋のギャラリー」の思想のあったことをうかがわせる。
最後に、新しい知見として、明治末期の永久橋梁の各諸元を明らかにし、“看板橋梁”とでもよぶべき、木鉄・石鉄などの“混用橋”の紹介と、その意味について考察を加えた。
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