日本土木史研究発表会論文集
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7 巻
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  • 高野 浩二
    1987 年7 巻 p. 1-7
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 新谷 洋二
    1987 年7 巻 p. 9-16
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    近世初頭に建設された城下町の多くは現在も都市として生き続けているため、その成立の経緯・時期は都市計画史などの上で重要である。前回の論文で、中部、大類・鳥羽、玉置による城と城下町の建設史年表を基礎にして作成された小川の一覧表について、作成に当たっての問題点を提起するとともに、8ケース・スタディを行い、正しい表現のあり方について検討した結果、さらに数多くのケース・スタディを積み重ねることが必要とされた。このため今回の論文においては、以上の課題を明確にするため、前回に引き続き、年表作成上、問題点の見出だせる幾つかの城と城下町のうち、岩出山・丸亀・宇和島・高崎・仙台・福岡・松山・秋田・大垣・彦根・萩・浜田の各城についてケース・スタディを行い、それぞれ個別に検討することにより、個別に存在する問題点を摘出した。こういった検討を積み重ねることにより、全体の内容について、正しい表現のあり方を考究するとともに、城郭史年表に関して試論的な検討を行うことによって、土木史年表の作成に当たって検討すべき課題を考究することを目指した。(城、城下町、年表)
  • 上間 清
    1987 年7 巻 p. 17-21
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    往時の琉球王朝によって16~17世紀の間に領域内の各所から収集された古謡集である「おもろさうし」(全22巻、1554首) は、ときに「沖縄の聖典」、「沖縄の万葉集」などと称され、沖縄研究における第一級の文献と考えられている。「おもろさうし」は、古来伝わる沖縄各地 (奄美諸島含む) の古謡を、原語に従いつつも「特殊な操作」を施し、一部の単純な漢字のほかは平仮名で表現された、極めて難解な文献であった。明治以来の長期にわたる「おもろ」研究の蓄積により、今日その内容が明らかになりつつあり、わかりやすい漢字への解釈も加えられた評釈書も出るに及んでいる。
    「おもろさうし」の含む多様な内容は、歴史学、民俗学、文学、芸能など広範に及び、これらの体系的な解明は、不透明な部分の多い沖縄古代研究に役立つものと、多くの学問的関心が寄せられている。
    筆者は過去沖縄地域の土木史の研究をすすめてきているが、この観点から「おもろさうし」の調査。考察の必要性を痛感していた。本稿は近時、より接近しやすいかたちの「おもろ」文献の出現を得て、「おもろさうし」に含まれる土木的事象につき、その出現状況、叙述の状況を調査するとともに、併せて土木史料としての活用の可能性と限界につき考察するものである。
  • 鉄道省土質調査委員会前史
    小野田 滋
    1987 年7 巻 p. 23-33
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    After Meiji Restoration, geological survey in Japan was practiced as a means for exploration of mineral resources, and it was seldom employed for civil engineering purposes in those days. The same was true about railway construction which was the major engineering project. But some engineers were felt the necessity of geological survey, and their academic concern appeared in various papers they wrote. For instance, Ichitaro Ban pointed out the importance of geological survey to civil engineering in connection with route selection of Nakasendo Line. Later on the occation of boring Tanna and Kanmon tunnels, railroad engineers came to better understand the utility of geological survey. Then the Japanese Government Railways organized a Geotechnical Committee in 1930, and pioneered in the application of this technology. This paper traces the histrical development of engineering geology from Meiji era to establishment of the Geotechnical Committee in the national railways of Japan.
  • 東京・日本橋区を例として
    住江 昌子
    1987 年7 巻 p. 35-40
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    都市における水辺の再生がいわれて久しい。都市の中の河川が利水や舟運機能を担っている時は、川と人の交流の中で水辺空間はおおむね良好な環境を保つが、排水機能のみに単一化されると、人と川の交流はなくなり、水辺の環境は注視されなくなる。東京においては、川や堀の湊としての機能を重視していた江戸幕府から、陸運重視の明治政府に移行すると、例えば東京市の基本財産として河岸地を下付し、東京市区改正事業の財源にあてるなど、水辺の空間は単なる資産として評価されるだけとなり、舟運の衰退とともに水辺の環境はかなりみられなくなったといわれる。
    本稿は、こうした過渡期における水辺空間の利用の、実態と問題点と探ろうとするものである。今回はまず明治14~15年を中心に、河岸地の制度と利用状況について考察した。これにより、当初明治政府は、河岸地を防火対策上道路とする方針であったが、これを果たせなかったこと、河岸地は共同物揚場や土蔵地として利用する例が多いが、中には借用目的に反して居住したり、商売をしたりする場合も多いこと、少数ではあるが、河岸地を住民が植栽地として借用する例があること等がわかった。
  • 鈴木 恒夫
    1987 年7 巻 p. 41-47
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 加賀谷 長之, 清水 浩志郎, 木村 一裕
    1987 年7 巻 p. 49-56
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本報告は、一昨年、昨年と2年間にわたって報告した「切手でみる土木史」日本編および世界編の続編といえるもので、これまでに紹介した切手の国際比較を行い、今後日本で発行される土木の切手のあり方について提言を行うことを目的としている。そのために、土木の切手を対象に意識調査を実施することにより、土木事業が切手を通して国民にどのように理解されているかを分析したものである。
  • 中岡 良司, 森 弘, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1987 年7 巻 p. 57-68
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究は、第1回から第6回までの日本土木史研究発表会論文を対象に土木史研究データベースを構築し、これまでの土木史研究の傾向と特徴を分析したものである。データベースの構築にあたっては、表題・発表者・キーワード・発表年次など一般的事項に加えて各論文の概要全文を収録している。さらに研究分野、対象となった時代、地域、登場人物も加え土木史研究の総合的なデータベースとした。これによって我々は、これまでの土木史研究を時間・空間・人間の視点から眺めることが可能となった。
    土木史研究データベースにおいて採用したリレーショナルデータベースは、その強力なデータベース処理機能にも関わらずパーソナルコンピュータで稼働し、個人レベルで本格的なデータベースを構築することを可能としている, 本研究においては、まったく任意の用語から必要な論文を検索できることを示したばかりでなく、これまで発表された論文の分野別論文数、研究対象年代、さらに研究で取り上げられた人物の分析に関してその機能を十全に発揮した。
    本研究発表会の歴史は浅く、現時点では十分に発表論文の傾向と特徴を見いだすことはできないが、データベースの蓄積によって、今後はより総合的な視野から一層の土木史研究の体系化を推し進めることが可能となる。本文では今後の土木史研究発表会のあり方についても言及した。
  • イギリス工兵学の影響
    多田 博一
    1987 年7 巻 p. 69-78
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1757年, ブラッシーの戦いで勝利をおさめ, インド征服の足掛かりをつかんだイギリス東インド会社は, インド諸候の分裂に乗じて, 次第に領土を拡大していった。この過程で攻城戦はもとより, 平和時における道路, 兵舎, 庁舎の建設において, 工兵将校の役割が大きくなった。このため, 東インド会社は1809年に, ウーリッチの王立軍事アカデミーとは別に, 独自の軍事セミナリーを開設した。年間約60-80人の将校が養成され, そのうち特に優秀な者10人弱が工兵将校としての特別訓練を受けた。彼らは, イギリス領土の拡大にともなって生じた種々の公共事業, 例えは道路, 舟運, 灌概, 鉄道, 公共建築物の設計・施工・監督に当たらねはならなかった。現地の事情に通じた土木技師の必要が痛感ざれるようになり, 1847年アジア最初の工科大学が北インドのルールキーに設立されることになった。インド近代土木工学の夜明けである。
    この大学にはインド駐在のイギリス軍・官・民間人の子弟だけでなく, インド人の青少年も入学をみとめられていた。19世紀後半にはいると, そこを卒業したインド人技術者が, 1855年に設置された公共事業局の技官として採用されるようになった。インド統治のインド人化の始まりである。この大学では研究成果発表の機関誌として “Professional Papers on Indlan Engneering”が刊行された。また, 土木工学に関する教科書も編纂され, 次第にインド独自の土木工学が形成されていった。
  • R. H. ブラントンの業績を通じた一考察
    五十畑 弘
    1987 年7 巻 p. 79-87
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    R.H.ブラントン (Rlchard Henry Brunton, 1841-1901) は明治初期から中期にかけて明治新政府に雇用された多くのお雇い外国人の第一世代に属する。正確に言えば、江戸幕府の意向により英国外務省、商務省を通じて打診を受け、これを引き継いだ明治政府と雇用契約を結んだのである。1868 (明治元) 年8月の着任から1876 (明治9) 年3月の解任までのブラントンの主要任務は通商条約で決められた開港、開市を物理的に可能ならしめるための灯台の建設であった。また、彼は明治初年ではまだ数少ない土木技術を専問とする技術者の1人であったため灯台建設以外にも広い分野にわたり関与し、明治初期から中期にかけての英国からの技術移植の端緒を開いている。ブラントンの業績のうち灯台建設を除くと彼が調査計画に関与したものは必ずしも全てが実施に移された訳ではないがこれらは港湾、河川、電信、測量地図、道路、鉄道、水道、および橋梁と極めて広い範囲をカバーしている。
    ブラントンはこれらの各分野での活動を通じこれらの背後にあるエンジニアリングの思想を導入し、後につづく英国から日本への技術移植の先鞭をつけた。
  • 太陽神のシンボル七芒星
    木村 俊晃
    1987 年7 巻 p. 89-99
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    昨年まで5回にわたって古代日本における高度測量の存在とそのエジプトからの伝播を指摘してきたが、基礎資料として直感的に形状を把握しにくい遺跡などの位置関係を取り扱ったため、一般の理解を得にくいきらいがあった。
    今回は、土木史はもちろん日本古代史においても決定的に重要な基礎資料であり、幾何学的形状も明瞭な前方後円墳の平面形をとりあげ、とくに七角形を平面設計の基礎としていると考えられる古墳群について、その幾何学を解明するとともに、近江と紀州に画かれた大規模な地上設計図を提示し、それらが古代エジプトの幾何学に起源をもつことを述べ
  • 黒田長政の城下町建設から現代まで
    秀島 隆史
    1987 年7 巻 p. 101-111
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    そもそも都市の発生とその発展は、その都市の立地条件と自然環境条件を基盤としているものではあるが、一面では人為的施策に強く影響されるものでもある。換言すれば、「都市は巨大な土木構築物」と言うことができよう。
    福岡市の発生とその発展過程において、平清盛の「袖の湊」の築造による発生と豊臣秀吉の「博多町割り」[戦災復興都市計画] の実施によって中世末期の新しい町人町として再発足した博多は、その後黒田藩による近世初期の福岡城下町の建設によって新しい局面を迎えることとなる。そして、この両者の双子町的存在と発展は全国でも稀な特異な都市としての性格を持つこととなるのである。
    この福岡市も明治以降の近代化の歩みを辿るが、第二次世界大戦末期の米軍大空襲によってその中心部の大半を焼亡する。そして、その戦災復興とその後の近代的都市化の波の下に今日の福岡市がある。
    この福岡という都市の物理的発展過程を明らかにすることによって、「都市」のもつ独特の形態とその性格に関して、「土木」の関与するものを考察してみたいと思うものであるが、今回は前回 (その1) に続いて城下町建設以後現代までについて述べる。
  • 新谷 洋二, 堤 佳代
    1987 年7 巻 p. 113-119
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    封建都市城下町が近代都市へと再編し発展する際、近代の代表的交通機関である鉄道が及ぼした影響は大きい。交通は都市そのものの構造を大きく規定するものであり、この構造如何によって、都市の発展は大きく左右されるものである。
    本研究では、鉄道がどのようにして城下町の近代都市化を促進していったかを、地図上に見られる形態的変化を追うことにより明らかにしようとした。その結果、次の事が明らかになった。
    鉄道は確かに都市の発達を助長した。それは、どの都市でも鉄道駅に向かって市街地が伸びていることからも明らかである。
    しかし、その市街地の伸展の度合や時期は、各都市で大きく異なる。
    それには、鉄道建設当時に都市のもつポテンシャルが各都市ごとに異なり、鉄道を利用して発達できる力をもっていたか否かによって、差が生じたものと考えられる。
    さらに、市街化の進む過程において、鉄道路線が壁となり、そこで市街化の進度が鈍くなる都市と、それを一早く乗り越えていく都市とがみられる。これにも同様の理由が挙げられる。付け加えて、そのポテンシャルが近世以来のものだけでなく、近代以降形成されたものをも含む。つまり路線を越える力は、近世の石高とか産業に左右されるものではなく、駅方面へ市街化が進む過程で形成された工場及びその関連施設の立地に大きく影響されている。そして、駅の表と裏を結ぶ地下道等の建設がこれを促進している。
    また、その際、市民性、風土といった目に見えないものも無視できない。
  • 日本統治期台湾の都市計画
    越沢 明
    1987 年7 巻 p. 121-132
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本稿は1895~1945年に目本の統治下にあつた台湾の都市計画の特徴について最大の都市である台北を例にとって取りまとめたものである。
    台北の市区改正の実施の契機は、不衛生な都市環境の改善であり、そのために下水道の敷設と道路の改良が実行された。それを推進したのは、後に日本内地の都市計画の発展に大きな功績を残す後藤新平であり、下水道敷設のプランをつくったのは日本の近代上下水道の基礎をつくったパルトンであった。
    1932年に郊外地の開発を目的とする近代的な都市計画が策定された。そのプランは公園道 (ブールバール) を重視し、新市街地の軸線として用いている。1937年の都市計画法制度の整備以降、土地区画整理により、新市街の開発が着手されている。
    戦後、中華民国になってからの台北都市計画の街路、公園は戦前のプランがほぼそのまま継承されている。また法令もそのまま採用され、用途地域、土地区画整理など、制度而でも今日の台湾の都市計画に影響を与えている。
  • 現代および明治期の神戸西部市街地を対象にした史的考察
    盛岡 通
    1987 年7 巻 p. 133-140
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    A qestionnaire survey indicates that citizens favour and often visit to various types of visible or perceptible scale of well-managed urban environmental spots and civic service facili ties mobilized by civil engineering projects in Hyogo, Nagata, Suma and Tarumi districts of Kohe City. The original characteri st ics and concerns of better human-environment system in representative water-related projects and park costruction projects are discussed in detai l: Hyogo canal excavation,
    Karasuhara reservoir construction, diversion of Minato-gawa stream and construction of Minatogawa park have not only produced convenient and healthy human-settlement, but also prepared the potentiality of adding amenity services to basic functional services derived from engineering project implementation.
  • 笹谷 康之, 遠藤 毅, 小柳 武和
    1987 年7 巻 p. 141-146
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    古代には、神奈備山と呼ばれ神が宿るとされた信仰対象の山が存在した。全山が樹林におおわれ、笠型の端正な山容を持った山で、集落近くに位置する。その山体や、山を望む場所には、祭祀場、神社が設けられていた。本研究では、この神奈備山の分布、スケール、地形形態を明らかにするとともに、山を祀っていた祭祀遺跡・神社の地形占地・景観的特徴を考察した。その結果、次のようなことがわかった。
    (1)、神奈備山は、東北から九州北部まで広く全国に分布する。
    (2)、神奈備山を祀る神社・祭紀遣跡は、山頂、山腹、山麓と、山を望み山から引きをとった平地の4カ所に立地している。
    (3)、神奈備山は、おおむね比高400m以下の小さな山である。
    (4)、神奈備山を祀る神社・祭遺跡は、山を眺望しやすい仰角14°以下の平地と、山との一体感の得やすい仰角10°~30°の山麓に多く立地する。
    (5)、神奈備山の景観は平地からは端正な山に見えるが、その地形は、孤立丘、山地端部の端山、山地端部の尾根、等高線が比較的入りくんだ小山塊の4タイブに分類できる。
    以上の性質を持つ神奈備山は、日本人の原風景の一つでありまだまだ全国に埋もれていると考えられる。しかし、大都市近郊の神奈備山の中には、開発によって破壊された例もある。古代人が育んできた精神性の強い文化遺産として、神社、祭紀遺跡ともども、神奈備山の景観保全を進めていく必要がある。
  • 橋梁景観の主題性に閲する考察
    窪田 陽一
    1987 年7 巻 p. 147-153
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    西欧の風景画を歴史的に通観し、橋梁が描かれた代表的絵画における橋梁景観の構図的特徴並びに主題としての取り上げ方について考察した。
    西欧においては、人間中心的な世界観の歴史が長く、風景画の成立そのものが東洋よりも遅かったため、橋梁を描いた絵画は15世紀までほとんど見ることができない。また、この頃は宗教的な主題の背景としてしか風景が描かれておらず、橋梁が描かれても背景の構図を象徴的に統合する機能を持たせることに重点がある。バロック期の絵画においては、風景の中で行われる人間活動に重点が置かれたが、橋梁が副主題化した絵画が出現し始めた。そして、宮廷美術を舞台にヴェドウーティスタが登場し、都市景観そのものが主題として取り上げられるようになり、やがてロマン派の風景画を生み出し、橋梁のある風景そのものが主題化するに至る。この傾向は印象派にも受け継がれた。
  • 伊東 孝
    1987 年7 巻 p. 155-162
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    関東大震災後、東京の下町に架設された復興橋梁は、425橋もの多くに達した。これらの橋は、地域ごと・河川ごとにタイプやデザインを類型化でき、しかも皇居を頂点としたデザイン・ヒエラルキーのあることなども判明した (拙著「東京の橋」鹿島出版会、1986年9月)。
    明治期に架設された橋は、どうなのだろうか? 結論をいえば、明治期の橋もまた、タイプやデザインは、十分、地域性を考えて決められていた。
    本稿では、明治期を、文明開化期と市区改正期との二つにわけ、東京市内に架設された、石や鉄でできた「永久橋梁」が、どのような地域に、いかなるタイプやデザインで架設されたのか、を考察した。橋の重要度を判定する資料として、東京市区改正計画の道路網計画と道路の等級分けを利用した。その結果、次のような考察を得ることができた。
    i) 文明開化期には、江戸からの幹線道路、および文明開化の“表玄関”と“顔” の地域に、永久橋梁が架設されていた。
    ii) 市区改正期になると、永久橋梁は、日本橋・京橋地区に面的に架設されるようになり、さらに、周辺地域にも架設されるようになった。
    とくに大正期に入ると、隅田川をこえて本所・深川に、また月島や芝浦の埋立地にも、永久橋梁が架設されるようになった。
    iii) 明治期の隅田川橋梁を架設順に整理すると、直線から曲線へ、単径間の曲弦トラス橋から全径間をひとつにした曲弦トラス橋へと、橋形が変化している。また「さまざまな橋形が展覧された」という意味では、明治期から「隅田川、橋のギャラリー」の思想のあったことをうかがわせる。
    最後に、新しい知見として、明治末期の永久橋梁の各諸元を明らかにし、“看板橋梁”とでもよぶべき、木鉄・石鉄などの“混用橋”の紹介と、その意味について考察を加えた。
  • 高浦 秀明
    1987 年7 巻 p. 163-170
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    本研究では、戦前に東京でつくられた橋梁を実例として、その形態の変遷を時代的背景や他のインダス卜リアルデザインどの関連で考察する。ほぼ年代順に、東京の変革, 過渡期の構造、シンポル化、デザインの洗練と大きく4つのテーマに整理し、流れを把握する。
  • 神吉 和夫
    1987 年7 巻 p. 171-178
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    中国西安に河川から導水、暗渠で配水し井戸 (溜桝) から水を汲み利用する施設が明代1465年に建設されたことが、1494年刊の「菽園雑記」に記されている。この施設は (1) 竣工年が先行する、(2) わが国の神田上水、赤穂水道等と構造が類似している、(3) 「菽園雑記」に西安に水道が無いため先の施設を造ったとあり、わが国の給水施設に慣用される水道という言葉が見えることから、西安の給水施設がわが国の類似施設の起源である可能性がある。しかし、直接西安の給水施設、「寂園雑記」に触れた水道史料は見あたらない。水戸笠原水道を顕彰した浴徳泉碑の文中に「菽園雑記」の表現を意識したと思われる記述がある。「日本水道史」ほか各地の水道史誌からわが国の水道施設の配水域の構造を分類すると、開渠、開渠が暗渠化、当初から暗渠の施設に分けられる。平城京、平安京などでは道路の両側に溝があり給水施設としても利用されていた。また、中・近世城郭建設において給水施設、水の手、は重視され、「太平記」にある赤坂城の施設に代表される暗渠の樋による給水施設がある。わが国の暗渠水道は、溝の暗渠化、懸樋の暗渠化、水の手建設技術の発展により可能と思われる。しかし、水道という用語から「菽園雑記」にある西安の暗渠施設をわが国の水道建設者が知っていたと思われ、暗渠給水施設の一つのモデルなっ可能性を検討すべきであろう。
  • 小野 芳朗
    1987 年7 巻 p. 179-181
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    近代下水道が建設される以前の京都市中は、各家庭からの排水は下水溝を通じて市内の河川に排出されていた。このことが京都府に提出された溝渠修繕願より明らかになった。水源である井戸と同様、排水の管理も各家庭でなされていた。
  • 汚物掃除法成立後の塵芥処理について
    山崎 達雄
    1987 年7 巻 p. 183-192
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    日本で最初の廃棄物に関する法令である汚物掃除法は、大日本私立衛生会雑誌での法制度の必要性の議論等を経て、明治29年 (1896) に、中央衛生会に対して「塵芥汚物掃除法案」として諮問されている。
    中央衛生会では、同時期に諮問があった「下水法案」との整合を図るために、大幅に修正が行われ、「汚物掃除法案」として内務大臣へ答申されている。その後、汚物掃除法案は、再度修正の後、明治32年 (1899) 11月に帝国議会に提出され、字句修正の上可決され、明治33年 (1900) 4月に施行されている。
    汚物掃除法については、「都市からの汚物の排除」のみならず、欧州における焼却施設の建設の影響を受けてか、塵芥についてはなるべく焼却することとされ、同法の成立を契機に大都市においては塵芥の焼却処理が進められている。
    京都市においても、汚物掃除法の施行に伴い塵芥収集体制等の整備が進んだため、塵芥量も飛躍的に増加し、京都周辺の塵芥捨場で塵芥の堆積が目立つようになった。このため、明治34年 (1901) 12月には、民間人の手により塵芥焼却施設が建設され、その焼却灰については肥料として販売されている。
    その後、塵芥の全量焼却を目指して、京都周辺数箇所に焼却施設の建設が進み、明治後期には、そのほぼ80%以上が焼却処理されている。
  • 70ftポニーワーレントラス
    西野 保行, 小西 純一
    1987 年7 巻 p. 193-198
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国最初の鉄道用鉄桁である70ft3主構ポニーワーレントラスが, 道路橋に転用されて今なお現存しているのが発見された.3主構が揃った姿ではないが, 1873年製の桁を含んでいるのは確実と思われ, これまで最古の鉄道用鉄楠として保存されている1875年製の100ft複線ポニーワーレントラス以前の, 文字通り「わが国最初で最占」の鉄道用鉄桁である, 発見の経緯, 転用状況, 現存の浜中津橋の調査結果などを述べる.
  • ドイツ系トラス桁
    小西 純一, 西野 保行, 淵上 龍雄
    1987 年7 巻 p. 199-206
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    わが国におけるドイツ系鉄道トラス桁は二つのグループに分けられる, ウニオン社製の平行弦プラットトラスとハーコート社製のボーストリングトラスであって, 大部分が九州鉄道と豊州鉄道によって輸入・架設されたものである, 全部で70連余が架設され, 平均約25年で第一線を退き, 大多数の桁は下級線区や道路橋などに転用された.これらのうち現存が確認されているのは12連となっている, 本報告ではこれらの桁の技術的特徴について述べ, 使用・転用・現存の状況を紹介する.
  • 出戸 秀明, 宮本 裕, 岩崎 正二, 堀江 皓
    1987 年7 巻 p. 207-213
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    二重橋は構造本体を横河橋梁が、高欄部の鋳物は久保田鉄工が製作したが、有名なわりには土木技術上の資料が少ない。高欄のデザインは盛岡市出身の当時芸大教授の内藤春治が担当した。それ以前の橋はドイツの設計になっていたが、内藤春治は日本を代表する橋になると考えて、日本的なデザインを工夫したた, その際鋳物の芸術性を尊重して材質も高品質のものを生み出した。彼が芸大の鋳金科に進んだきっかけは南部鉄器の技術を保存するために設立された南部鋳金研究所で技術を学んだことによるところが大きい。盛岡の鉄瓶産業の伝統保存と技術発展のために、南部利淳 (としあつ) 公が、盛岡の鋳金の改良を目的として大正3年 (1914) 6月1日に南部家に開設したのが南部鋳金研究所である。そして、東京から盛岡に帰り、初代所長を務めたのが松橋宗明である。松橋宗明と内藤春治は、盛岡ばかりでなく現代の日本の鋳物にとって忘れることのできない重要な人物達である。このように古来からの伝統である南部鉄器の影響が日本を代表する橋の高欄におよんでいる。
    この機会に我々は、伝統的な技術の上に新しい技術をふまえた、現代にも通用する高欄の技術史 (まだ発展中の) を報告したい。さらに鋳物の町盛岡に少しづつ作られている鋳物の高欄の実態を紹介したい。
  • 平川 脩士
    1987 年7 巻 p. 215-220
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/09/28
    ジャーナル フリー
    過去において、わが国のニューマチックケーソン工法の歴史について言及されている著書や報文などには、その年代や表現方法をとりちがえて記述されているものが多く見かけられる。とりわけ、圧気工法がわが国にもたらされた時期のものに、これらが顕著のようである。
    エアロックを用いた圧気工法の導入時期は1899年 (明治32年) で、以来今日まで88年もの歳月が経過している。単独の工法としてこのように長年月にわたり定着している工法は数多くみられないと考える。これらの要因を考えてみるに、初期の時代に輪入された施工機械をわが国独自で改良し、活発に現場に活用してきたこと、設計方法の確立、さらに高度な工事管理方法が導入されてきたからではなかろうか。
    本文は、わが国におけるニューマチックケーソン工法の歴史を3編にわけ、第1編は工法導入とその揺籃期のもの、第2編ではエアロック、シャフトなどの改良過程について、さらに第3編では設計法ならびに工事管理法などについてとりまとめたものである。
  • 天野 光三, 前田 泰敬, 二十軒 起夫
    1987 年7 巻 p. 221-226
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    東大阪地域における交通発達史について、日本土木史研究発表会において第1.2回目は鉄道発達の過程、第3回目 (前回) は舟運発達の過程を報告した。今回は、前回に引続き、中世から明治初期における大和川水系の舟運の発達と、その変遷について、述べるものである。
    この地域は、古くより大和川と淀川の氾濫原として、水の恵みを享受してきた。そして、交通手段としての舟運は、常にその中心的な役割を果してきた。
    特に、江戸時代においては、その活躍には目覚ましいものがあり、その代表的なものとして魚梁船と、劔先船をとりあげてみた。
    鉄道や肉動車に譲り渡したが、今、その土本史的意これらの舟運は、近代に至り、その座を鉄道や肉動車に譲り渡したが、今、その土本史的意義についてふりかえってみたい。
  • 青木 治夫
    1987 年7 巻 p. 227-230
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    最近まで、我が国の近世初期の測術術は中国系であり、ヨーロッパ系のものは寛永期末にカスパルが伝えたと信じられて来ていた。しかし、南蛮学統の研究の成果から、「元和航海記」の航海術が南蛮測量術として存在していたと考えられるようになった。一方、伝承の中国系のものは、我が国の鉱山で独自に考案したものを加えて、新しい鉱山測り量術として技術革新をになっていたという。これらの測量術の測角には磁方位を用いている。
    寛永9年 (1632) に完成した辰巳用水の寛永期の長い隧道は、当然これらの測量術のうち、どちらかの方法を用いたであろうと考え、昭和56年に行った実測方向角から、寛永期隧道中心線の磁方位を算出した。それによると、隧道の設定に当たっては鉱山と同様、方位によっていたらしいことが確かめられた。しかも、その計算の過程において、横穴の実測値から金沢での寛永期における地磁気の偏角値が算出された。この手法によると、辰巳用水で隧道に多くの改築を加えた藩政末の年代は、既知の地磁気の偏角値を用いれば、年代検証が町能であることもわかった。
  • 山田 啓一, 片桐 剛
    1987 年7 巻 p. 231-233
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    歴史的洪水の復元は, 古地震, 高潮災害, 火山噴火などの長期周期再現性を重視する災害現象と同様に極めて大きな課題である。しかし, 歴史的洪水の復元は・他の災害現象の復元に比べて著しく遅れている。
    その理由のひとつは, 個別の被害記録が直接加害要因である洪水流量や降水量の評価につながらないという点にある。統一的, 系統的な被害記録は必ずしも多く存在しない。個別のデータを相互に検証し合うことが必要である。本研究は, 著者らが洪水痕跡の標定を実施した千曲川における寛保2年洪水について, 旧村別被害記録から浸水位を推定し, 最高水位縦断図を作成した。その結果, 洪水痕跡ともほぼ一致し対象地域における氾濫量は億3200万m3と推定された。
  • 根橋 直人
    1987 年7 巻 p. 235-242
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    今年 (1987年) は、蘭人工師ヨハニス・デ・レイケの指導により木曽川下流改修工事が明治20年 (1887年) に起工されてより丁度100周年に当り、今年秋をピークに国営木曽三川公園において多彩な行事が催される。その三川工事の創始とも云うべき「宝暦治水工事」が今から234年前に行われた。薩摩義士と謳われたこの事蹟は赤穂義士の快挙と並び称されるが、史実そのものについては周知されていない感がある。この好機に、工事の概要、武士道の精華に感服させられた点について更めて紹介したい。
  • 古絵図によって組立てられた吉野川像
    澤田 健吉
    1987 年7 巻 p. 243-251
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    吉野川の姿を, 農民の治水建白書や明治時代の新聞など, 資料の種類と手法を変えつつ纒めているが, 本論では藩政末期から第1期の治水工事の修了までの間, いろいろな目的で画かれた絵図・地図を見て得たものを纒めた。絵図・地図という視覚的な資料によっているため, 以前の文書資料による場合と異なった考察が出来たと思う。
    絵図・地図を纏めて論文として報告する場合, 作者・製作年代・縮尺精度などを検討するようなアプローチが多いが, 本論では江川の締切り・第十堰・西覚円堤・善入寺島など治水工事上重要な地点や有名な地点を取り上げ, その地点において得られる所見を集めた。この方法により, 吉野川の特色・吉野川と人とのかかわり合・今の吉野川との相異点などを纒めることが出来た。
    最後に絵図・地図による認識がどの辺りまで及び得るか, 今まで吉野川以外の川で記憶に残っている, 青梅市の成木川と黒沢川・大井川・庄川と小矢部川・筑後川の床島堰の図を紹介した。各河川の一面ではあるが, その点に関しては非常に細かい描写があり, 一つの技術のレベルを知ることが繊来, また指針として別の図を求める助けにもなる。
  • 石崎 正和
    1987 年7 巻 p. 253-258
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    蛇籠はわが国において古くより護岸・水制に利用されてきた代表的な資材である。これまで蛇籠が初めて使用されたのは, おそらく「漢書・溝洫誌」をもとにしたと考えられる「倭訓栞」により河平元年 (紀元前28年) とするのが一般的であったが, 「長江水利史略」などの中国の水利文献によると, すでにそれ以前に都江堰の築造 (紀元前360~250年) に際して用いられたとしている。また, 蛇籠がわが国に伝来したのは, 「古事記」の記述をもとに330~640年頃といわれているが, 時代を特定することは困難である。いずれにしても蛇籠は, 農書, 地方書などでも必ず取り上げられ, 近世には相当普及していた。蛇籠の詰石そのもは今日も変りはないが, 籠の部分は竹や柳などの植物から, 明治中頃には竹籠を鉄線で補強したものが現われ, その後機械編の亜鉛メッキ鉄線が普及した。戦後に至り, 蛇籠の構造についての規格化が図られ, 永久化工法の研究などを含め, 種々改良が試みられてきた。しかし, コンクリートブロックの普及などに伴って, 蛇籠の利用も次第にその利用範囲が縮小し, 応急的かつ暫定的な側面が強くなっている。近年, わが国古来の伝統的な河川工法についての見直しがなされる傾向にある。本稿では, 蛇籠の歴史的な側面について報告するとともに, 今日なお竹蛇籠を使用している中国の概況について報告したが, 屈撓性, 透過性, 経済性などの特性を有する蛇籠について, 歴史的な資材として見捨てること無く, その特性を生かした現代的な利用法が積極的に検討されることを期待する。
  • 大熊 孝
    1987 年7 巻 p. 259-266
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    霞堤の機能は、従来の河川工学関係書では、堤防の重複部分における遊水による下流に対する洪水調節効果が、第一番に挙げられてきた。しかし、霞堤は一般的には河床勾配が600ないし500分の1より急な河川において造られており、その場合、遊水面積が限定されており遊水効果はほとんど無く、むしろ、万一破堤した場合の “氾濫水のすみやかなる河道還元” に主限があった。本論文は、まず、このことを明らかにする。しかし、愛知県の豊川と三重県の雲出川では、河床勾配が数千分の1から千分の1. という緩いところに、霞堤と呼ばれる不連続堤がある。この場合の霞堤は、洪水遊水効果に第一の目的があると言わねばならない。ところで、急流河川における霞堤は現在でも各所で見かけることができるが、緩流河川における霞堤は管見にして豊川と雲出川だけである。豊川や雲出川の洪水遊水方式は、江戸時代では一般的に採用されていた治水方式でもある。しかし、これらは江戸時代に霞堤とは呼ばれていない。一方、急流河川の霞堤も、江戸時代には「雁行二差次シテ重複セル堤」と表現されてはいるが、霞堤という呼称は与えられていない。急流河川の霞堤と緩流河川の霞堤とでは、形態上は似ていても機能上はまったく異なるわけであり、何故同じ名称で、何時からそう呼ばれるようになったかが問題である。そこで、本論文の第二の目的として、霞堤の語源について探索してみる。結論として、“霞堤” なる言葉は江戸時代の文献には現われず、明治時代以降に定着したものであり、その際、急流河川と緩流河川の不連続堤の機能上の違いを明確に認識しないまま、両者とも霞堤と呼ぶようになったことを明らかにする。そして、今後は少なくとも、“急流河川型霞堤” とか “緩流河川型霞堤” とか、区別して呼びならわす必要があることを提言する。
  • 各河川水力開発の変遷 (その6)
    稲松 敏夫
    1987 年7 巻 p. 267-274
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 松浦 茂樹
    1987 年7 巻 p. 275-285
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    近年水辺の復活、ウォーターフロントの開発等水辺が社会から注目されているが、戦前の河川改修でも河川環境は重視されていた。この状況を1935 (昭和10) 年の大水害後、翌1936年樹立された京都の鴨川改修計画に基づいて論ずる。
    鴨川の社会的特徴は、御所をはじめ千年の歴史をもつ社寺・史跡・風物のある古都・京都市街地を流れていることである。鴨川は「東山ノ山紫二対シ河流ノ水明ヲ唄ハレタル古都千年ノ名川」と認識されていた。また「鴨川は京都市の鴨川に非ず」と、我が国にとって重要な河川と主張された。京都の風致の重要性としては、文化面における国民の訓練、産業の発展、国際観光の三つがあげられた。
    このため鴨川改修計画では、治水上支障のない限りにおいて鴨川の風致を配慮した計画が樹立された。具体的にはコンクリートの露出をできるだけ避け、石垣、玉石張を中心にして行われたこと、曲線を用いた床止め工の形状等によく現われている。また高水敷にはみそそぎ川が残され、夏には納涼床が張り出されて京都の風物詩となっている。昔から鴨川での夕涼みは京都市民に親しまれていたが、1986年夏気象観測を行い、その状況を求めた。
    1936年の環境整備計画は、河川技術者集団の総意の下に行われたと推察される。河川技術者がそのような能力を機械施工化以前には常識としてもっていたものと判断される。なお1936年の改修計画は、鴨川に限られることなく京都市の大改造計画であり、京阪線の地下化、都市計画道路の築造等が一体として図られていた。これらの事業は近年の1979年より再開され、現在工事中である。
  • 茨城県十王川を事例に
    杉山 和穂, 笹谷 康之, 小柳 武和
    1987 年7 巻 p. 287-294
    発行日: 1987/06/20
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    茨城県にある十王川は、流路延長16.5km、上流の河床勾配1/37、下流の河床勾配1/106で、流量が比較的安定している二級河川である。本研究ではこの十王川を対象に、河川構造物・工作物の建設にともなう河川空間の変化と、河川空間を利用してきた流域住民の行動・意識の変化とが、近代にどの様な関連性を持って推移してきたかについて考察した。その結果、十王川の流域は、昔ながらの川と人との深いつながりがある上流と、石炭洗いの汚濁を契機に川と人とのつながりが薄くなった下流に分かれて、変遷していったことがわかった。また、下流を主とする十王川の近代史は、人々の生活の中に川が深くかかわっていた第一期、水力発電という目的からのみ河川開発が行われた第二期、川が汚水の排水路になりさがり人々の意識が遠ざかっていった第三期、川の再生活動が始まった第四期に時代区分できた。水がきれいだった第一期、第二期に下流の中川根周辺では、落差が大きい等男の子向きの遊びができる男堰、水深が浅く女の子向きの遊びができる女堰があったり、ほていぢくと呼ぶ竹の水防林で、子供が遊んだり、たけのこを採るといった活動が行われ、河川空間の複合利用と使い分けがあった。しかし第四期では、治水、利水、魚釣りといった個別目的に沿って河川改修、利用が行われているが、第一期にみられたような多様な人々の活動を許す河川整備はまだ考えられていない。延長が短い急流河川だから、水質はかなり改善されたが、下流では、人々の川に対する関心は薄らいだままであった。
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