抄録
吉野川の歴史というテーマでいろいろな視点から考察を重ねてきたが, 今回は労働量の面から吉野川を見ることにした。川を治めるのに厳しい労働があったのは, 抽象的な表現ではいろいろ言われているが, 定量的に表現されたものを見るのは容易ではない。
考察の基礎になるデータは明治の始めに実施された一種の国勢調査の結果と言える郡村誌で, これから堤防の断而形状が計算出来, これとその地点の自然条件の関係, また堤防築造土量の計算結果と社会的自然的条件の関係などを検討した。
次の資料は第一の支川鮎喰川の凌渫の記録で, これから普請に動員される労働力の配分における争点と慣例を知ることが出来る。第十堰は吉野川第一の河川施設だが, この場合は幕末期に藩から出た維持費の補助, 明治になってからの地元負担の高低の関係が検討出来るにとどまっている。その他近接する勝浦川の渫普請の人夫割り付け帳などがあり, 割り付けの慣例がわかる。
別の考察としては, やや強引だが今日のデータから推定した米作と土工の歩掛を尺度として, 農耕作業と川普請の負担の大小の比較を試み, 後者の影響の大きさをみた。