日本土木史研究発表会論文集
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近代日本都市計画における広幅員道路の系譜100m道路の起源
越沢 明
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1988 年 8 巻 p. 54-65

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抄録

札幌、仙台、名古屋、広島の都心部に存在する幅員50m以上の大通は、広い植樹帯やオープンスペースを有し、都市のシンボルとして祭典やバレードの会場となるなど多目的に使用されている。本稿は広幅員道路が近代日本都市計画においてどのような目的と思想によって計画され、実施されたのか、その系譜を明らかにすることを目的としている。
幕末から明治にかけて居留地、開拓地では防火帯として広幅員道路が設けられている。しかし、既存の大都市の市区改正道路は最大36mであり、大正末期から昭和初期にかけての都市計面事業によって東京、大阪でそれぞれ幅員44mの道路が出現した。当時は、都市計画事業は災害復興の機会しか実施できず、函館、静岡では大火後、防火区画を形成するよう植樹帯を広く採つた道路がつくられている。欧米の地方計画論、緑地思潮の影響を受けて、公園道路の考え方が日本に導入され、湘南海岸では遊歩道、乗馬道を合わせもった公園道路が整備され、東京では保健道路という名称の河川沿い緑道が都市計画決定されている。
公園系統、公園道路を本格的に取り入れた都市計画は1930年代になり満州、台湾、中国本土の植民地・占領地で大々的に試みられ、実現したものも少なくない。一方、日本国内では戦争末期、防空のため建物疎開を実施するにあたり、各地で50~100mの空地帯がつくられた。戦後、京都、名古屋、広島では疎開跡地を広幅員道路として整備したのに対して、東京ではほとんど有効活用されなかった。

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