抄録
1938 (昭和13) 年7月3日から5日にかけての豪雨による土砂崩れと河川の氾濫は、神戸市に大きな被害をもたらした。こうした被害のでた背景として、3日間で491.2ミリに達する雨量もさることながら、背後の山地の開発や市内河川の暗渠化などに問題があるとの指摘がなされた。大正末期から昭和の初期にかけて、神戸市は人口の増加とともに経済活動が活発化し、市街地の拡大と都市基盤整備に追われていた。あわせて失業救済事業が要請されて、市内河川の暗渠化や背山関発のための道路建設が進められていた。こうした矢先に起きた水害は、それまでの都市整備のあり方を見直すきっかけとなり、後興の計画は河川の改修や砂防施設の整備のみならず、都市計画の中に水害予防を盛り込むこととなった。
すなわち、河川は原則として開渠にし非常時の防火・避難等のための沿川道路を設ける、河川の合流点、道路・河川の交会点等には公園を設けるなどの諸点である。復興計画は一部縮小を余儀なくされ、また戦時下ということから事業の実施も困難であったが、水害予防に取り組んだ数少ない都市計画が、この時期とにかく実現に移されたことは評価できる。