福島第一原子力発電所事故は,広範な被害をもたらし,それは原発周辺地域にとどまらず,モノの流通や消費と関連しながら他地域へと広がっている。本稿では,原発事故による被害の全体像の把握に向けて,地域を越えて派生する被害の一事例として,滋賀県高島市の山村で営まれているトチ餅生産に生じた被害を取り上げ,その実態と被害が生じた機序を明らかにし,その被害過程にどのような特色があるのかを検討することによって,この事例を原発事故の被害の1つとして可視化したい。
調査をおこなった高島市の朽木地域では,加灰によりトチノミのアクを抜き,モチ米と混ぜてトチ餅をつくっている。アク抜きに不可欠な木灰の大部分は,今日では地域の外部から調達されており,地域を越えた資源利用によってトチ餅づくりが維持されてきた。木灰は一般取引市場で販売されるものではなく,朽木のトチ餅生産者らは独自に見つけた取引先と個別にやりとりをしてきた。しかし2012年,原発事故に由来する草木灰の汚染が明らかになり,林野庁がその利用自粛を要請して以来,東・北日本からの草木灰の供給が停止した。その結果,原発から離れた朽木においても木灰という大事な原料が手に入らなくなったことにより,トチ餅の生産が危ぶまれ,トチ餅をつくってきた人たちの楽しみが失われるという「ふるさと喪失」の被害が生じた。本稿では,この被害は木灰という原料の特性と,木灰の入手経路の特性ゆえに発生したものであることと,プライベートな関係に基づく原料取引ゆえの緩やかなつながりが「被害」を不可視化させてきたことを考察した。