抄録
本稿は高畑勲とネオレアリズモの関係性を探求するものである。高畑が愛読していたアンドレ・バザンのネオレアリズモに関する論考にもとづきつつ、高畑作品における「生の瞬間の連続」の描出と「リアリティ」のための配役について分析を行う。まず、高畑作品がいかに「生の瞬間 の連続」を描出したかを「物語構成」の視点から考察する。また、『ホ ーホケキョとなりの山田くん』(高畑勲、1999 年)と『戦火のかなた』 (ロベルト・ロッセリーニ、1946 年)におけるカメラの使用を対照し、「生の瞬間の連続」の表現における両者の「演出」の類似性を浮上させる。さらに、ネオレアリズモ作品における素人俳優の起用という特徴を手がかりに、高畑作品における非専業声優の起用という配役方法について論じる。こうして、高畑作品とネオレアリズモ作品の類似性を分析しながら、空想やファンタジー的な表現に適するとされるアニメーションに、高畑がいかに繊細な日常や客観的な姿勢という「新しい」リアリズムを持ち込んだのかを浮き彫りにする。