映画研究
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最新号
選択された号の論文の4件中1~4を表示しています
  • 新派映画と病の政治学
    今井 瞳良
    2024 年19 巻 p. 4-24
    発行日: 2024/12/14
    公開日: 2025/03/31
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は、『狂った一頁』(衣笠貞之助監督、1926 年)の精神病表象を分析するものである。これまで本作については前衛性に関心が集まり、西洋の前衛映画との影響関係や、近代批判が読み解かれてきた。対して、 医療制度の西洋化と病の文学が興隆した時代の新派映画として、本作の精神病表象を分析することで、その両義的な政治性を明らかにすることが本稿の目的である。精神病患者の知覚を前衛的に見せる本作の手法には、これまで近代批判が読み込まれてきたが、精神病患者の身体と精神病院の空間に着目した分析によって、映像技術と病をめぐる近代的な文脈において成立したものであったことを明らかにした。また、新派映画として女性の身体を中心としたジェンダー秩序によって精神病表象が構成されており、そこには病と映画をめぐる政治が刻印されていることを指摘した。
  • 國永 孟
    2024 年19 巻 p. 26-45
    発行日: 2024/12/14
    公開日: 2025/03/31
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿では、『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind, 1939 年)におけるス カーレット・オハラ/ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)の演技の特徴について分析する。まず、映画における役柄と、俳優のパフォーマンスの関係の議論に先んじて、小説『風と共に去りぬ』(1936 年)に目を向け、ヒロインのスカーレット・オハラを演技者として再定位する。次に、映像におけるリーのパフォーマンスに焦点を当て、スカーレットが他の登場人物に対して演技をしていることが、映画における自然主義的演技との差異や、型の演技によって提示されていることを明らかにする。最後に、リーのパフォーマンスを同時代のハリウッド映画スターと比較することで、リーは、既にスター・ペルソナを確立しているハリウッド・スターの演技スタイルと異なり、彼女自身の存在を役の背後に隠し、小説版の身振りを模倣することや、観客にスカーレットの心理を容易に想像させるようなコード化された身振り表現を通してスカーレット・オハラを演じたのであると結論づける。
  • ヒッチコックのアイロニーと「純粋映画」
    木原 圭翔
    2024 年19 巻 p. 46-66
    発行日: 2024/12/14
    公開日: 2025/03/31
    ジャーナル オープンアクセス
    『裏窓』(Rear Window, 1954)の主人公ジェフは、しばしば「映画観客」のアレゴリーだとみなされるが、これに対して彼を「テレビ視聴者」だとみなす解釈がある。本稿は後者の解釈の意義をより詳細に検討するために、当時のテレビが「洗脳装置」として警戒されていた点に着目する。1950 年代にアメリカを席捲した「洗脳」は、その起源の一つとして『脳の仕組み』(1926)というプドフキンの記録映画が重要な役割を果たしたことが知られている。その一方で、彼のモンタージュ理論こそヒッチコックが『裏窓』を「純粋映画」とみなす際の最大の根拠でもあった。このように、洗脳装置としてのテレビと、純粋映画という二つのメディアの究極形態のキーパーソンとしてプドフキンを想定する時、『裏窓』の「テレビ視聴者」はいかなる意味を持ち得るのか。本稿はこれをテレビに対する「アイロニー」として捉え、その意義を考察する。その結果、『裏窓』 は自らがテレビ以上に優れた洗脳装置であることを示すことで、ヒッチコックの理想を体現しているという点を明らかにした。
  • アニメーションの「新しい」リアリズム
    劉 雅欣
    2024 年19 巻 p. 68-89
    発行日: 2024/12/14
    公開日: 2025/03/31
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は高畑勲とネオレアリズモの関係性を探求するものである。高畑が愛読していたアンドレ・バザンのネオレアリズモに関する論考にもとづきつつ、高畑作品における「生の瞬間の連続」の描出と「リアリティ」のための配役について分析を行う。まず、高畑作品がいかに「生の瞬間 の連続」を描出したかを「物語構成」の視点から考察する。また、『ホ ーホケキョとなりの山田くん』(高畑勲、1999 年)と『戦火のかなた』 (ロベルト・ロッセリーニ、1946 年)におけるカメラの使用を対照し、「生の瞬間の連続」の表現における両者の「演出」の類似性を浮上させる。さらに、ネオレアリズモ作品における素人俳優の起用という特徴を手がかりに、高畑作品における非専業声優の起用という配役方法について論じる。こうして、高畑作品とネオレアリズモ作品の類似性を分析しながら、空想やファンタジー的な表現に適するとされるアニメーションに、高畑がいかに繊細な日常や客観的な姿勢という「新しい」リアリズムを持ち込んだのかを浮き彫りにする。
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