2021 年 5 巻 2 号 p. 51-57
本研究は,消費者行動におけるモノの処分(Disposition)が自己構築に果たす役割を検討する上でのアプローチと課題を検討する。モノの処分は,消費者行動研究において消費者行動の一部と位置づけられながら,その数は長年限定的なものに留まってきた。しかし近年,所有者の自己構築との関連のもとモノの処分の役割を問う研究の蓄積が進みつつある。本研究は,所有者の自己構築とモノの処分の関係を明らかにしてきた既存研究を整理し,今後の研究の方向性を示す。取得や所有の局面で付与された過去の意味の清算という役割に加え,処分の意思決定過程を儀礼と捉えてその過程の中での新たな自己構築の様相に照射する研究や,その作用を長期的に考察する研究の重要性を示す。
我々は,購買と同様に様々なモノの処分(Disposition)1)を行う。モノの処分には様々な方法があるだけでなく,様々な意味が付随する。例えば,思い切って断捨離をしたら自分自身も新しくなれた気がした経験,自分の子供が成長したある時に子供の乳児期の衣服を後ろ髪ひかれる思いで捨てる決断をした経験,親が亡くなり遺品整理をしながら自分や親の人生を振り返りつつ今の自分を支えているものを再認識した経験など,モノの処分と共に気持ちが揺れ動いた経験を持つ人も多いのではないだろうか。モノの処分は,機能的便益の放棄以上に,所有者の自己(Belk, 1988;Sirgy, 1982)と密接に関わり(Lastovicka & Fernandez, 2005;Schouten, 1991;玉置,2011),人生の節目での心理的変化とも強く関わる(Andreasen, 1984;Belk, Sherry, & Wallendorf, 1988;Young & Wallendorf, 1989)。
モノの処分は消費者行動の一部とみなされ,消費者行動研究の範疇とされてきたが,その数は他の局面と比べ僅かなものに留まってきた(Parsons & Maclaren, 2009)。しかし,近年所有者の自己構築との関連のもとモノの処分の方法や意味を問う研究が進みつつある(Phillips & Sego, 2011)。では,モノの処分の研究は,これまでにどのような知見を蓄積し,どのような研究課題を有しているのか。本研究は,これらの点を検討し,モノの処分が自己構築に果たす役割を検討する上でのアプローチと課題を示す。
消費者行動研究の対象は,今日では消費に関わる幅広い局面を含むものと理解され,モノの処分もその範疇に位置づけられる。例えば,Solomon(2013)は,消費者行動を「選択,購入,使用,処分するプロセス」(松井監訳2015,p. 5)と定義し,モノの処分も消費者行動の一局面と捉える2)。しかし,周知のように,消費者行動研究において伝統的に研究の主流を形成してきたのは購買意思決定研究である(青木・新倉・佐々木・松下,2012;田中,2015)。一方のモノの処分研究は,長年少数に留まってきた(Parsons & Maclaren, 2009)。初期の消費者行動研究において,モノの処分を消費者行動の一部として取り込み,処分の定義を示したのはJacoby, Berning, and Dietvorst(1977)である。初期には,一部の研究者が処分の意思決定プロセスやその規定要因の検討を進めた(e.g., Jacoby et al., 1977;Hanson, 1980)ものの,処分の意思決定プロセスに対する研究上の関心は広がりを見せなかった(Harrell & McConocha, 1992)。
モノの処分への関心が徐々に寄せられる契機は,定性的手法を活用し,文化人類学や解釈学などの枠組みを援用して購買意思決定以外の局面にも焦点を当ててその意味を考察する研究(e.g., Belk, 1988;Hirschman & Holbrook, 1982;Holbrook & Hirschman, 1982;Sherry, 1983)の登場である。今日,Consumer Culture Theory(以下CCT)とも呼ばれるこれらの研究の登場により,モノの所有や処分の局面にも関心が寄せられ,特に所有者の自己との関連に注目した考察が進み始める(松井,2010;田中,2015)。
CCTは「取得・消費および所有,廃棄の局面を含む全ての消費局面で見られる文脈的・象徴的・経験的側面の解明」(Arnould & Thompson, 2005, p. 871)を志向する研究群である。具体的には4つの研究群を含み,その1つが「アイデンティティ・プロジェクト」である3)。この研究群では,消費者の自己を所与のものと理解せず,消費者を自己の探索者・構築者と捉え,消費を通じた自己構築の様相を考察する(Arnold & Thompson, 2005)。
消費の中のモノの所有は,単に機能的便益を享受するのみならず,様々な意味を生み出す(Belk, 1988;Sirgy, 1982)。消費者は,モノに付与される意味を文化的・象徴的に利用して自らの自己構築・維持に利用する(Belk, 1988;Douglas & Isherwood, 1979;McCracken, 1988;Solomon, 1983)。これらの研究は,消費を「自己創造という継続事業」(McCracken, 1988;小池訳,p. 153)とみなし,自己構築過程において消費が果たしている象徴的な役割や生み出している意味を明らかにしてきた。例えば,Belk(1988)は,消費者が自分の所有物を自分自身の一部とみなすことがあることを指摘し,これを「拡張自己」と呼ぶ。高度にモノが溢れるポストモダンと呼ばれる現代社会では,消費者は消費を通じて自己を構築していくと示唆された(e.g., Firat & Venkatesh, 1995)ことも,消費を通じた自己構築過程への注目を後押しした。当然,消費の一局面であるモノの処分も,消費者の自己構築・喪失と密接に関わると理解できる(Belk et al., 1988)。
CCTに加え,トランジション下での消費者行動や自己の変容への注目も,モノの処分に関する研究を後押しした。トランジションは「人生の転機」と訳され,「人生の変化に対処するために必要な,内面の方向付けや自分自身の再定義をする」(Bridges, 2008;倉光・小林訳,p. 5)過程を指し,その対象は,結婚や離婚(McAlexander, 1991),死別(Bonsu & Belk, 2003),子供の生誕(菅野・水越,2016),移住(Mehta & Belk, 1991),退職(Schau, Gilly, & Wolfinbarger, 2009),被災(Belk, 1988)といったライフコース上の変化が挙げられる。これらライフコース上の変化の中で,選好の変化(Andreasen, 1984)や自己の著しい混乱(Belk et al., 1988)が生じることから,トランジションと消費の変化・消費者の自己構築との関係が考察されてきた。
例えば,Mehta and Belk(1991)は,米国に移住した印僑の移住後の消費の変化を考察し,彼(女)らが,インドの伝統工芸品やサリーなどを,インド在住のインド人より大切に扱う傾向を発見し,自分らしさが揺さぶられる環境下で自己を確認・維持するための象徴としてこれらのモノが機能していることを示している。また,Schau et al.(2009)は,退職というトランジションが,自分の人生の振り返りを促し,また,単なる振り返りに留まらず,その過程を通じて自己が構築されていることを明らかにする。トランジション下でのモノの処分も,自己構築と強く関わるであろうことが含意される。
こうして,モノの処分の研究は,所有局面に比べれば数は少ない(Arnould & Thompson, 2005)ものの,象徴的な役割やその過程に含まれる意味について消費者の自己の構築過程と関連させて明らかにする研究が進められていく。
2.2 取得・所有局面で付与された意味の清算手段としての処分取得・所有局面が自己構築の一翼を担うように,モノの処分も様々な役割を果たし,また自己のあり方が処分に影響を与える。
McAlexander(1991)は,離婚というトランジション下でのモノの処分の役割を考察し,単なる不用品の処理という以上に,望まない自己と決別する「過去からの解放」という役割があることを発見する。同様に,Young(1991)は,乳児から小児への役割の移行を容易にするために,子供自らこれまで愛用していたブランケットを捨てる決断をすることで成長を果たすといったように,モノの処分の意思決定が自身の社会的役割を切り替えるスイッチとなることを発見している。Lastovicka and Fernandez(2005)では,フリーマーケットやネットオークションで見知らぬ他者に所有物を売買する際,中古品取引の成立を強く促す要因として,売り手と買い手の間での自己の共有があること4)や,売り手が望ましくない自己を断ち切るために見知らぬ他者への譲渡を積極的に活用していることが明らかにされる。いずれの研究も,モノの処分が所有者の自己形成と密接に関連していることを示している。
このような自己に密接に絡んだモノの処分の場合,その意思決定はしばしば葛藤や心理的苦痛,アンビバレンス(Belk, 1988;Belk et al., 1988)を伴う。Trudel, Argo, and Meng(2016)は,自己と密接に絡んだモノの処分が,アイデンティティロスを回避したいという心理的葛藤から,廃棄ではなくリサイクルという手段を選ぶ傾向にあることを発見している。Suarez, Campos, Casotti, and Velloso(2016)は,モノの廃棄行動を起こすまでの間の,自己とモノとの関係を寝かせる冷却期間(purgatory)の存在を明らかにする。消費者は,取得や所有を通じてモノに様々な意味を付与するが,それを突然切り離すことには心理的抵抗があるために寝かせた上で処分するという5)。いずれも,取得や所有局面で付与した意味の性急な清算を回避したい気持ちが処分のあり様を決めていることを示唆している。
これらの研究は,モノの所有が様々な意味を付与して自己を構築する過程である(Belk, 1988;McCracken, 1988)のとは逆に,モノの処分局面を過去に付与された意味を清算する「モノと自己との関係の分離過程」(Lastovicka & Fernandez, 2005;McCracken, 1986;Roster, 2001)と捉えている点に特徴がある。ライフコース上の変化やトランジションに伴い自己は変化し,望ましい自己獲得に資するモノも継続的に変わり,モノの処分は生じる。意味は取得や所有の過程を通じてモノに付与され,処分の過程を通じて所有者から分離される(Roster, 2001)。これらの研究は,取得や所有局面で付与された意味の清算(Detachment: McCracken, 1986)という,モノの処分が自己構築に果たしている象徴的な一面を明らかにした点で評価できる。
2.3 モノの処分過程を通じた自己構築一方,モノの処分が,過去に付与された意味の清算だけでなく,自己構築に積極的に関与することを示唆する研究も見られる。これらの研究は,モノの処分過程を通じて付与された既存の意味の再編成(incorporate)や既存の自己との折衝(negotiation)が生じることを指摘しながら,モノの処分局面が自己構築に対して創造的な役割を担うことを強調する。
例えば,Price, Arnould, and Curasi(2000)は,87人の高齢者を対象とした終活の意思決定に関する研究である。自らの死期を悟り,自分の所有物のうちどれを親族に譲渡し,廃棄するのかを検討し始める。終活の目標として重視されているのは,次世代の家族に自分が伝承したい家族観や自己観の物語を構成する上で大切な意味を提供できること,自分が死後も家族の中で思い出してもらい象徴的な不死を実現できることといった,死後の家族観や自己観に関わる項目だという。本研究は,高齢者たちが,遺品とするモノから供出される意味の束を眺めつつ,自身が次世代に伝えたい家族観や自己観の物語に沿うように意味の再構成を行いながら,家族観や自己観をかたち作っていることを明らかにしている。すなわち,終活は,過去の取得や所有過程で付与された意味を確認する過程というよりも,遺品を用いて自分の死後の家族に伝達される意味を制御する方法を考える過程であり,モノに付与された意味をキュレーションしながら新たに家族観や自己観の物語を創り出す過程になっている。モノの処分が,過去に構築した自己の単なる清算ではなく,自己を新たに創造する行為であることを本研究は示している。
モノの処分を通じた自己の再構築は,Shelton and Peters(2006)でも示される。この研究は,タトゥーの除去を経験した22名を対象とした考察である。タトゥーの除去という処分の意思決定が,過去の自己との決別という役割だけでなく,その過程で自己を見つめ直し,新たな自己を構築する土台作りの役割を果たしていることを示す。それまでの消費活動を通じて付与してきた意味の消去という消極的な役割だけを担うのでなく,新たな自己構築の基盤を用意する過程であることを示唆する。
このように考えると,取得・所有・処分という全局面で,モノへの意味の付与や再編成による自己との折衝が絶えず行われることになる。Türe(2014)は,モノの処分局面は他局面で付与された意味の清算にすぎず新たな意味の付与は行われないと想定する既存研究(e.g., Roster, 2001)を批判的に眺めつつ,消費を通じた自己構築は処分が起点となることもあり6),取得・所有・処分の順に生じるというよりも各局面で循環的に生じていると理解すべきという視点を示している7)。
これらの研究は,前節の研究が自己を支える意味の付与はあくまで取得や所有の局面で生じると想定しているのに対し,意味の創造・再構成は処分局面も含めた各局面で循環的に行われるものと捉え,自己との折衝は継続的に進むと理解する点で大きく異なる。これらの研究は,モノの処分が,清算に留まらない意味の創造と自己の構築に積極的に関与しているという側面を示した点で評価できる。
モノの処分に関する研究は,CCTやトランジションの研究に後押しされて徐々に焦点があてられるようになったとはいえ,所有局面への注目と比べてもその照射は未だ限定的である(Arnould & Thompson, 2005;Türe, 2014)。これまで見てきたように,モノの処分に関する初期研究は,モノの処分を「望まなくなったモノ」を処分する過程として,その後自己構築との関連でその役割に注目した研究は,「望まなくなった自己」を処分する過程として,それぞれ理解している。しかし,近年いくつかの研究が「処分を通じた内省から新たな自己を構築する」過程であることを示唆し,モノの処分の自己構築に対する創造的な側面に注目しつつあることを確認してきた。
消費社会とも呼ばれる現代では,伝統的な属性が自己構築に果たす役割が相対的に薄れ,自己は消費を通じて構築される(Firat & Venkatesh, 1995;Giddens, 1991)。自己が構築される過程で生み出される様々な意味は,消費市場のあり方を規定する重要な要素になる。それゆえ,消費を「自己創造という継続事業」(McCracken, 1988)と捉え,その様相を理解する立場の重要性が示されてきた(Arnould & Thompson, 2005)。消費を「自己創造という継続事業」と捉えるのなら,処分を通じた内省から新たな自己を構築する過程に注目する研究の意義は強調されてよいだろう。モノの処分に関する研究の方向性の第一は,処分の意思決定過程を儀礼と捉え,その過程の中での自己構築の様相に照射し,モノの処分が消費者の自己構築に果たしている役割の理解をより進めることである。
Belk(1988)やMcCracken(1988)が示したように,モノは所有を通じて自己と密接に関連し,自己と一体化する。自己は,所有するモノに付与された意味の集積で構築される。モノの処分を行うことは,所有物とそこに付与された意味の処分の是非を巡る意思決定というだけでなく,そこに付与された意味が自己を構成した状態で癒着し一体化しているだけに,その意思決定の判断基準となる自己観の改訂を巡る意思決定になることを意味する。既存研究が示してきた,モノの処分に伴う葛藤やアンビバレンス(Belk, 1988;Belk et al., 1988;Phillips & Sego, 2011;Price et al., 2000)は,処分の意思決定過程の中で,自己を支える意味も処分の俎上に上がるために自己観の省察が伴い,自己観刷新の是非が先鋭的に問われるためだと理解できる。モノの処分は,単に過去に付与された意味の清算過程というより,その過程を通じて自己が再構築される過程と理解した方が良い。
トランジションと自己構築の関係,あるいは処分に限らず所有を含めた消費が自己構築に果たしている役割を明らかにする際に既存研究が依拠したのは,文化人類学の「通過儀礼」(Gennep, 1909;Turner, 1969)の枠組みである(e.g., Bonsu & Belk, 2003;Bridges, 2008;McCracken, 1986;Mehta & Belk, 1991;Lastovicka & Fernandez, 2005;Schouten, 1991)。Gennep(1909)は,様々な通過儀礼を観察し,その過程が分離・境界・再統合という三段階に区分できることを示した。Turner(1969)は,Gennep(1909)が示した通過儀礼の三段階のうち特に境界状況に注目し,その過程の中で生じる様々な混沌や葛藤を観察してその様相を「人生の危機」と捉えた。境界状況にある人は,古い自己と新しい自己の間のいずれにも属さない状況にあり,不安定で両義的な性格を持つ。不安定で両義的ゆえに,古い自己を支えていた意味の徹底的な解体と,新たな自己に関する,社会的に共有されている何らかの価値観による意味の再構成が生じ,新しい自己への移行が進むことを示している。既存研究は,この枠組みを援用しながらトランジション下での自己構築の様相や消費が自己構築に果たしている象徴的な役割を明らかにしてきた8)。モノが自己と密接に関連し,その処分の際に自己観の顕著な揺れ動きを伴うのなら,モノの処分もまたTurner(1969)が示した人生の危機と捉えうる。
Mehta and Belk(1991)は,「正式な通過儀礼の乏しい現代社会では,儀礼的な行為を消費者自らが設定して執り行い,境界状況を経て新たな自己を構築している可能性がある」(p. 400)と指摘する(同様の指摘にBridges, 2008;Schouten, 1991)。このように考えると,モノの処分過程自体が,単なる過去の清算に留まらない,新たな自己構築に向けた自己観の折衝を伴う儀礼,あるいは境界状況になっている可能性が指摘できる。これまで,モノの処分の研究は少数だったことに加え,自己観の再構築に資するとする創造的側面に照射した研究はその中でも限定的である(Shelton & Peters, 2006;Türe, 2014)。モノの処分過程を自己省察を伴う儀礼と捉え,自己構築に果たしている役割をより詳細に明らかにしていくことは,消費を通じて自己が構築される現代社会だからこそ重要であるように思われる。
この点に関連して第二に,処分の意思決定の長期的な影響を考察することも重要だろう。自己に密接に関連したモノの処分がその後の自己に与える影響を検討する必要性は既存研究も示している(e.g., Kamptner, 1991;Lastovicka & Fernandez, 2005;Schau et al., 2009)。加えて,Bridges(2008)が過去の自己を構成していた古い意味をクレンジングすることで新たな意味の取り込みは可能になるとするように,既存研究の一部はモノの処分やトランジションが新たな自己構築の起点になることを示している(e.g., Bridges, 2008;Cherrier & Murray, 2007;Türe, 2014)。これらの見解に従えば,モノの処分が自己構築に資するとする創造的な役割は,継続的な自己構築過程の一環として理解する必要がある。局所的な処分過程だけでなく,その後の経過も含めた事後的な影響も考慮した理解が重要である。
例えば,モノの処分を契機にその後ボランタリー・シンプリファーとしての自己が構築されていく過程を捉える研究(e.g., Cherrier & Murray, 2007;大平,2019)や,被災のようなトランジション下での非自発的なモノの処分の意思決定がその後の自己再構築をどのように下支えするのか明らかにする研究(e.g., 池内・藤原,2000;加藤・日高,2021)などが考えられる。これらを進めていくことで,ライフコース全体における消費を通じた自己の新陳代謝の様相やその中でモノの処分が果たしている役割の理解(Schau, 2018)を進められるだろう。
消費者は市場から提供されるモノを様々な意味を付与しながら消費し,付与された意味が消費市場のあり方を規定する。新型コロナウイルスによる外出自粛期間にゴミが急増した理由の一つは,日常生活のあり方の問い直しを伴った断捨離だったとされる(共同通信,2020年9月3日)。本研究が考察したミクロの消費の実践を起点に,例えばモノを多く持たない消費スタイルが社会的に広く受容されたり,社会貢献にも資する消費を積極的に行おうとする消費市場が社会的に生成していく過程(Giesler & Veresiu, 2014;Giesler & Fischer, 2017;Sandıkcı & Kravets, 2019)を考察していくことも重要である。
最後に,デジタル化が進む今日,フリマアプリの登場など,モノの処分を取り巻く環境は様変わりしている。モノの処分に対する消費者の意識やモノの処分と自己構築の関わり方もまた変容している可能性がある。Belk(2013)が,デジタル社会の到来をふまえてモノの所有局面における拡張自己概念(Belk, 1988)をアップデートしたように,モノの処分と自己構築のあり方について,技術の発展の影響を考慮した考察もまた必要だろう。
本研究作成にあたり,編集長および2名のレビュアーの先生方から多くの有益なコメントを頂きました。深謝申し上げます。なお,本研究はJSPS科学研究費補助金(課題番号18K01878)の助成を受けて行った研究成果の一部です。
例えば,McCracken(1986)は,モノの処分を通過儀礼と見立て,その行動に付随して生じている過去にモノに付与された意味の分離という側面に注目し,「分離の儀礼」概念を導出する。先に示したLastovicka and Fernandez(2005)は,McCracken(1986)の分離の儀礼概念を敷衍しつつも拡張し,モノの処分を通じた意味の分離に,McCracken(1986)が注目した私的な意味の分離の他に他者への移転による分離も含まれることを指摘して中古品取引の成立を促す要因を明らかにしたものである。
また,トランジションを境界状況と見立てた考察では,例えばBonsu and Belk(2003)は,ガーナのアサンテ族の葬儀を考察し,故人の社会的地位が遺族が設定した葬儀の種類で決められたり,参列者が故人に抱く尊敬の程度で遺体の扱いを変えているといった行動が見られることを示す。これらの現象から,死別というトランジションが,西洋社会では自明視されているような故人の自己構築の終着地ではなく,死後も継続する自己の社会的身分を巡る交渉過程の一部になっていることを示す。この認識の差異が葬儀という儀礼的消費のかたちを巡る外国の文化資本と国内の伝統的な文化資本とのせめぎあいを生んでいることを示唆する。