抄録
重い障害のある子どもを持つ母親として、私はずっと自分こそ娘の最良のアドボケイトだと自認してきました。が、2007年のアシュリー事件以来、子どもと親の間には利益の相克があるということを考え続けています。重症心身障害のある6歳の女児アシュリーから健康な子宮と乳房を摘出し、エストロゲンの大量投与によって身長の伸びを抑制した、米国の事件です。本人のQOL維持などの理由で親が考案、要望し、病院の倫理委員会の検討を経て、実施されました。
この事件から私が学んだことの一つが、親だから子どもの最善の利益をわかっていると思い込むことの恐ろしさでした。それから意思決定能力が十分でない人の医療をめぐる意思決定プロセスに関する、英語圏の生命倫理学の議論です。例えば、知的障害者への非任意の不妊手術を検討する際の、意思決定の手続きや、本人の最善の利益を見出すために必要な手順とスタンダードが一定のところまで確立され、議論されていました。また英国では当時、成年後見法Mental Capacity Act 2005が施行されたばかりでした。それらについて知るにつれて、日本ではどうなのだろう、私たち親が死んだ後で娘の医療は誰がどのように決めるのだろう、ということが、気がかりになってきました。
一方、アシュリー事件を機に7年あまりブログを通じて覗き見てきた世界の医療では、「死ぬ権利」議論や「無益な治療」論を通じて、重い障害のある人々の命の切捨てがすさまじい勢いで進んでいます。どんどん功利主義に傾斜する世の中にあって、はたして英米と同じような法律やガイドラインさえあればいいのか。親として最低限の基準はほしいと望みつつも、それが単に手続きの問題とされてしまう危うさも大きな懸念です。高く評価されてきた英国のMCAにすら、一部の医療や福祉の現場で劣悪なケアの正当化ツールと化している一面が指摘されています。「最善の利益」論にも「ポルノと同じ(どうにでも定義可能)」との批判もあり、アシュリー事件そのものが、病院内倫理委がしかるべく機能しなかった事例とも見えます。単なる手続き論が進められてしまう時、どのような法律やガイドラインにも、チェックリスト化し思考停止を招くリスクがあるのではないか、そうなった時、一人ひとりのいのちの重みは見失われてしまうのではないか、とも恐れます。
娘の医療を通じての様々な体験を振り返ると、多くの場面で娘の最善の利益を最も損なったと私が感じるのは、医療機関間の、診療科間の、医療職間の、医療職とその他職種間の、そして医療職と本人や家族とのディスコミュニケーションでした。私は、私たち夫婦亡き後の娘の医療については、娘のことをよく分かり、大事に思ってくれる人みんなで、児玉海という一人のいのちの重みを生々しく受け止めて、難しいことは難しいままに悩み抜いて決めてほしい。そのために、娘がどういう人として生きてきたかを一番よく知っている人がアドボケイトとして最も尊重される柔軟なシステムというものがありうるだろうか……と、ずっと考えてきました。もしありうるとしたら、それは日ごろから医療だけではなくその人に関わるあらゆる職種がフラットに参加し、本人と家族も含めたチームが、本当の意味でチームとしてきちんと機能してきた場合だけではないか、という気がします。
医療をめぐる大きな意思決定が必要となった「(時)点」での問題として議論されがちですが、本当はそれ以前の医療のあり方を含めた「線」の問題ではないかと思うのです。日常的な医療において、みんなできちんと情報を共有し、簡単に白黒つかない悩ましさの中で小さな意思決定を共有する体験を積み重ねておくことが、保護者にとってもチームの専門職にとっても、大きな意思決定を迫られた時に不可欠な信頼関係を築いてくれる、一番たしかな方法ではないでしょうか。
略歴 児玉真美 京都大学卒業。米国カンザス大学にてマスター取得。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事。長女に重症心身障害がある(現在27歳)。著書『私は私らしい障害児の親でいい』(ぶどう社)、『アシュリー事件-メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)、『海のいる風景-重症心身障害のある子どもの親であるということ』(生活書院)、『死の自己決定権のゆくえ-尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店)。安藤泰至との共訳書『生命倫理学と障害学の対話』(A・ウーレット著。生活書院)を10月に刊行予定。『介護保険情報』(社会保険研究所)に連載「世界の介護と医療の情報を読む」を執筆中。