日本重症心身障害学会誌
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Print ISSN : 1343-1439
教育講演2
重い障害のある子どもたちの支援を再考する 本人さんはどう思ってはるんやろ…。
高塩 純一
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2020 年 45 巻 1 号 p. 25-31

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抄録

Ⅰ.はじめに このたびは、このような機会をいただきましたこと心から感謝しております。私が、重症心身障害児に対する理学療法を教えていただいたのは旭川児童院元副院長の今川忠男先生です。 先生からはハンドリングを含め、多くのことを教わりました。写真1は2007年のヨーロッパのグローニンゲンであったEuropean Academy of Childhood Disability(以下、EACD)の学会でご一緒に行ったときのものです。グローニンゲンまでの列車の中で、なぜ日本の小児リハビリテーションはパラダイムシフトが起こらないのかを熱く語ったことを今でも覚えています。もう一人の恩師は、9月5日に他界された赤ちゃん学会理事長であった小西行郎先生です。小西先生からはGeneral Movements(GMs)の話をはじめ、分野を超えて学ぶことの大切さを教えていただきました。 私はただの臨床家でありエビデンスに基づくような話はできませんのでご了承ください。 では、私がどのような立ち位置でセラピーを行っているのか知っていただくため、私が小学5年生のときに入院していた経験をお話しさせていただきます。 当時、私は右大腿部に痛みがあり3か月間検査入院をしました。入院中はベッドから体を起こすこともできなかったため、私の目の前には天井のパンチングボードの穴。窓からは、いつも東京タワーが見えていました。このとき、私が思っていたことは、このライトアップされた東京タワーは、きっと朝になってもそこにあるのだろうというものでした。入院していた3か月は、まるで時間が止まり、色のない世界であったと記憶しています。これは、第一びわこ学園前園長の高谷清が書かれていた「時刻と時間」を思い出すものでありました。これは、重症心身障害により寝たきりの生活を余儀なくされている子どもにとって時を刻む時計があっても、動かないことによって時間の流れを感じることができないということであります。また、差し込み便器の冷たさ、足を牽引しており、身体を起こすことができないため、絶対にたどり着くことができない廊下。 目を閉じるとぐるぐる回るベッド。鳴り止まない秒針の音。 そこで感じていた世界の空虚感。 小学生のときの自分は、どこか他の人と違うんだな、という異質な感じを持っていました。 私が重症心身障害児(者)のことを知ったのは、東京衛生学園に入学してからでした。当時、東京医科歯科大学の理学療法診療科に丁稚奉公で働かせていただいていたとき、本棚にあった一冊の本が目に止まりました。それが糸賀一雄先生「福祉の思想」であったことは何か運命的なものを感じています。 Ⅱ.人生の岐路で励ましてくれた二人の少女 私が、今の職場に勤め続けられたのも二人の少女との出会いがあったからです。 一人は学生時代に出会った、当時中学2年生の幸子さんです。彼女は白血病に罹っており余命半年といわれていました。彼女が初めて言ったことは、「私はあと半年の命なのに、何をするの?」という言葉でありました。そのような言葉を言われて何も言えなかった当時の自分、毎日消灯まで一緒に遊んだ小児科病棟…。彼女から言われた言葉の一言一言が今でも耳の奥に残っております。今の私にできることがあるとすれば、彼女のことを決して忘れないこと…。 もう一人のお子さんが京大時代に受け持っていた洋香ちゃんです。彼女がいなければ重心の世界に行かなかったと思います。彼女は小さいときから何度も脳腫瘍により手術を受けていました。そのような境遇にもかかわらず他の人たちを気遣う心優しい子でした。彼女が手術後髄膜炎の後遺症により植物状態になったとき、止まらなかった涙とともに、私は何のためにこの仕事をしようと思ったのか、学生時代からどんなセラピストになりたかったのか。 今の私は当時描いていたセラピストになれているのかな…。 Ⅲ.びわこ学園/糸賀一雄/「福祉の思想」 NHKスペシャルのラストメッセージの動画の中で、びわこ学園の創設者である糸賀一雄先生の肉声を聞くことができます。 ビデオの冒頭で糸賀は「本当はこの子も立派に自前で生きているんですよということ。それを私たちは、実は認め合い、それを磨き合って、ということなんです。光ってますよ、この子は、もともと光そのものですよ。ということなんです」 昭和20年敗戦の混乱の中で家族を失い、生きる希望を亡くした子どもたちが街にあふれていました。終戦当時、滋賀県で食糧課長を務めていた糸賀一雄は、こうした子どもたちの状況を目の当たりにしていました。「浮浪児の問題なんていうのをね。国を挙げて『浮浪児狩り』という言葉を使っていましたね。『狩』というのは狩猟の『狩』という字を書くんですよ。これは大変な言葉ですね。考えてみますと大人の責任ですよね、これは。着の身着のままで放り出されたということはね。一つもこの子どもたちの責任じゃないんですよね」 こういう時代があったことを私たちは覚えておかなければいけないと思います。そして、重い障害のある子どもたちに関わる私たちはその根幹に哲学を持たなければならないと思います。 Ⅳ.糸賀思想における発達保障 びわこ学園の創設者の糸賀一雄は、重症児の発達保障のために、「縦軸の発達」に対して、「横への広がり」という考え方を療育の世界に持ち込んだ。 「縦軸の発達」というのは年齢に応じて能力がレベルアップしていく。それに対して「横への広がり」とはいまある能力のままでできることを増やしていく発達だ。 障害によって「縦軸の発達」が難しい子どもであっても「横への広がり」によって、世界は豊かに広がるという。 たとえば自閉症の子どもは同じような絵を描き続けたり、同じような曲を歌い続けたり、同じような文章を書き続けたり、でも、それはその子にとって決して同じことの繰り返しではない。私たち大人が進歩のない繰り返しだと勝手に思い込んでいるだけかもしれない。 それは、健常児の世界であっても、実は同じかもしれない。大人はより早く、より多く、より複雑にと、子どもたちに縦軸の発達を強いるが、本当はいまある能力のままでもっとゆっくりと横軸の広がりを楽しみたいと、子ども自身は思っているかもしれない。 糸賀は障害のある子どもたちと共に暮らす(ミットレーベン)の中でこのような考えにたどり着いたと晩年、鳥取県にある偕成学園での講演の中で述べていた。 よって「この子らを世の光に」というのは、障害のある子どもを救済するための言葉ではなく、糸賀が子どもたちから光をもらったと思えた実体験から生まれた言葉なのである。 這えば立て、立てば歩めではないけれども、正常運動発達をトレースしていくように伸びていくわけではない。縦軸への発達だけではなく、横への広がり、その豊かさも見ていくことが大事なのでは、ないだろうか。 Ⅴ.第一びわこ学園への想い 深夜に入る前に、「ちょっと寝かせて」と受け持っている担当の子の横で一緒に仮眠を取っていた細井ナース。 私は「聴診器より画板とクレヨンを持って仕事をしたい」と言っていた田中ナース。 石川信子先生は 「高塩さん、びわこ学園に何年勤めるの?」と尋ねてくれました。 「私はずっと勤めようと思うんです」と答えると、すると石川先生は笑って「3年務めないとわかんないわよ」と言われました。 夕暮れ時の縁側に腰掛けて園生と食べた柿。こうやって座位訓練をしていた時代があったんですよ。今だったら許されないと思いますが、そんなことをやっていました。 糸賀の言うミットレーベン「共に生きる、共に暮らす」を考えるためには利用者の生活世界をもう一度見てみる必要があるのではないかなと思います。 Ⅵ.“私たちの世界は豊かさに満ちている” 受動的綜合と能動的綜合 私の勤務している重症心身障害児(者)施設びわこ学園医療福祉センター草津の周囲には、もみじの樹がたくさん植えてあります。昨年、永源寺にもみじを見に行った際、初めてもみじの種を知りました。双葉のような葉の中心に種が2つあります。 5月中頃からもみじの葉の一部が赤くなっているのを見たことがある皆さんもいると思います。その赤くなったところにもみじの種があります。60年間、もみじの樹は見てきたはずなのに紅葉に種があることすら知りませんでした。この自我の関与しない無意識的局面をフッサール現象学では、受動的綜合と呼び、これはもみじの種は春から初夏にかけて毎年色づいていることを私は無意識的に見ていたことを意味します。しかし、もみじの種を知り、春なのになぜ、もみじが赤くなっているのだろうと疑問を持ったことで、紅葉を積極的に見ようとした結果、紅葉の種を見つけることができたという能動的綜合が生まれました。私たちが知覚する前には常に環境が発する情報を無意識的に受け止める受動的綜合があります1)。 (以降はPDFを参照ください)

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