2021 年 16 巻 2 号 p. 133-138
【緒言】糖尿病を合併した終末期悪性リンパ腫患者の経口投与が困難な難治性悪心に対して,アセナピン舌下錠を使用し,悪心の改善ができたので報告する.【症例】78歳男性,糖尿病を併発するびまん性大細胞型B細胞リンパ腫の患者で右前頭葉,小脳に腫瘤や結節,周囲脳実質に浮腫が認められた.中枢浸潤が原因と考えられる悪心・嘔吐を繰り返し,経口投与はできなかったためメトクロプラミド,ハロペリドール,ヒドロキシジン注を併用したが,悪心のコントロールは困難であった.アセナピンは糖尿病患者にも使用可能で,制吐作用があるオランザピンと同じ多元受容体作用抗精神病薬に分類される.その作用機序から制吐作用が得られることを期待し,アセナピン舌下錠5 mg,1日1回就寝前の投与を開始した.アセナピン舌下錠の開始後,難治性悪心は著明に改善した.【考察】アセナピンは,難治性悪心に対する治療の有効な選択肢となる可能性がある.
悪心・嘔吐はがん患者の40~70%に生じ1,2),難治性であることも多い.悪心・嘔吐に対しては,オランザピンの有効性が示唆されているが3〜11),糖尿病患者への投与は禁忌である12).一方,オランザピンと同じ多元受容体作用抗精神病薬(multi-acting-receptor-targeted-antipsychotics: MARTA)のアセナピンは糖尿病患者に対しても使用可能であるが13),悪心・嘔吐に関する報告はない.
今回,2型糖尿病を合併した終末期悪性リンパ腫患者の経口投与が困難な難治性悪心に対して,アセナピン舌下錠の投与が有効であった症例を経験したので報告する.
【患 者】78歳,男性,165 cm,38.5 kg
【診 断】免疫抑制剤関連びまん性大細胞型B細胞リンパ腫,多発中枢浸潤
【既往歴】2型糖尿病,全身性エリテマトーデス,血管炎,関節リウマチ,原発性胆汁性肝硬変,胃がん術後,大腸がん術後
【現病歴】2018年8月,胸腰椎MRIにて血液疾患または転移性腫瘍の疑いを指摘されたため同年9月に血液・腫瘍内科で精査し,免疫抑制剤関連びまん性大細胞型B細胞リンパ腫(Stage IV)と診断された.化学療法を希望され2018年9月~2019年3月,R-CHP療法(リツキシマブ+シクロホスファミド+ドキソルビシン+プレドニゾロン併用療法)が8コース施行された.2019年4月22日,めまいと嘔気で救急外来を受診,MRIにて右前頭葉,両側小脳に腫瘤や結節,周囲脳実質に浮腫が認められた(図1).全脳照射の導入が予定されたが,その待機中に悪心・嘔吐を繰り返し,5月1日に入院となった(入院日を第1病日とする).
【入院時血液検査】表1に示す.
【入院後経過】入院時に12種類の持参薬があったが,入院前から悪心・嘔吐のため薬剤の内服はできておらず,入院後も経口投与が困難であった.入院時の血液検査で低ナトリウム血症が認められたため(表1),血清ナトリウム値の補正を目的に生理食塩水の補液と中枢浸潤(図1)が原因と考えられる悪心・嘔吐に対して濃グリセリン液200 ml/日,メトクロプラミド注30 mg/日を開始した.しかし,悪心の改善はなく,体動により悪心が増強するため体位変換することもできなかった.体動時の悪心に対する効果を期待し,第10病日からクロルフェニラミン注5 mg/日の定期投与へ変更した.しかし,悪心が憎悪したため第13病日にメトクロプラミド注20 mg/日の定期投与を再開した.第14病日に錐体外路症状に配慮しながらハロペリドール注2.5 mg/日を定期投与に加えたが,悪心の改善は得られなかった.第24病日よりヒドロキシジン注25 mg/日を定期投薬に加えたが,悪心のコントロールは十分ではなく,薬剤の定期内服も困難な状態であった.なお,レスキュー薬としてプロクロルペラジン筋注5 mg/回やクロルプロマジン筋注25 mg/回を多いときで1日3回投与し一時的な悪心の改善を得ることができた.これらドパミンD2受容体拮抗作用を有する薬剤を併用したが錐体外路症状は発現しなかった.また,全脳照射は患者状態を踏まえ,行われなかった.
退院は困難と考えていたが,第33病日に患者家族が在宅での看取りを希望された.この時点で使用していた薬剤のうち,ヒドロキシジン注,ハロペリドール注,クロルプロマジン筋注は処方せん交付ができない薬剤であり14),患者希望時にプロクロルペラジン筋注の投与も行っていたため,在宅療養は実現困難であった.在宅看取りの希望を叶えるため,在宅で使用可能かつ経口投与を必要としない薬剤への切り替えを検討した.
【アセナピンの導入】難治性悪心・嘔吐に対してはオランザピンの有効性が示唆されている.本症例では入院時に糖尿病薬の処方がない状態でA1cと血糖(Glu)が基準値の範囲内に収まっていたが2型糖尿病の既往があり,オランザピンは禁忌であった.オランザピンと同じMARTAに分類されるアセナピンは糖尿病を有する患者にも使用が可能であるが,制吐薬としての報告はない.アセナピンの作用機序からオランザピンやプロクロルペラジン,クロルプロマジンと類似した制吐作用が得られることを期待し,患者・家族の同意を得て第34病日にアセナピン舌下錠5 mg/日の投与を開始した.アセナピン舌下錠5 mg,1日1回就寝前投与開始後,悪心は著明に改善し,体動時の悪心は消失,飲料水の摂取も可能となった.アセナピン開始3日目に1度だけ制吐薬の追加投与を必要としたが,それ以外に制吐薬を使用することはなかった.また,アセナピン導入後にその有害事象である傾眠や意識レベルの低下はなく,アセナピン舌下錠の単独使用で悪心のコントロールは良好であった.退院の準備も進められたが,アセナピン開始9日目に全身状態の悪化により永眠された.
悪心に対する制吐薬とアセナピン舌下錠の効果についての臨床経過を図2に示す.
なお,悪心に関する評価は次のように行った.悪心の評価に定量的な評価方法を用いていなかったため,悪心の変化を捉えるにあたり,後ろ向きの観察項目として,1日のカルテ記録のなかで悪心の記載があったものは「悪心あり」,悪心の記載がなかったものは「悪心なし」と評価した.
本症例は糖尿病を合併した終末期悪性リンパ腫患者の難治性悪心に対してアセナピンの舌下投与が有効であった初めての報告である.
悪心・嘔吐の発生メカニズムにはドパミンD2受容体,セロトニン5-HT2,3受容体,ムスカリン受容体,ヒスタミンH1受容体,ニューロキニンNK1受容体に対する刺激作用が関与することが報告されている1,15,16).本症例は消化管運動改善薬としてメトクロプラミド注,悪心・嘔吐の発生メカニズムに関わる受容体をブロックするために,ドパミンD2受容体拮抗薬,ハロペリドール注とヒスタミンH1受容体拮抗薬,ヒドロキシジン注を併用してもコントロールが困難な難治性悪心であった.
難治性の悪心・嘔吐やさまざまな要因の悪心・嘔吐に対してオランザピンの有効性が示唆されている3〜11).オランザピンはドパミンD2受容体,セロトニン5-HT2,3受容体,ムスカリン受容体,ヒスタミンH1受容体に対する拮抗作用を介して制吐作用を示すと考えられており1,3,11),舌下投与も可能との報告がある17).しかし,投与中に重篤な高血糖を発現した症例が認められているため,糖尿病の患者には禁忌である12).
抗精神病薬による耐糖能異常に関しては,膵臓のβ細胞におけるインスリン分泌の調整にムスカリンM3受容体が主要な役割を果たしていることから,M3受容体拮抗作用がリスク因子とされている18).また,糖尿病悪化のリスク因子である体重増加はヒスタミンH1受容体拮抗作用でも惹起され,その体重増加はヒスタミンH2受容体拮抗薬により抑制されることが報告されている19,20).
本症例で使用したアセナピンは統合失調症に対して適応を持つ抗精神病薬で舌下投与が可能である5).アセナピンは,ドパミンD1,D2,D3,セロトニン5-HT1A,5-HT1B,5-HT2A,5-HT2B,5-HT2C,5-HT6,5-HT7,アドレナリンα1A,α2A,α2B,α2C,ヒスタミンH1およびH2受容体に対して強力な拮抗作用を持つが,ムスカリン受容体に対する親和性は低いことが確認されている13,21,22).つまり,アセナピンは耐糖能異常のリスク因子であるムスカリン受容体に対する拮抗作用が弱く,ヒスタミンH1受容体拮抗作用による体重増加を抑制するヒスタミンH2受容体拮抗作用を有しているためオランザピンと比較して糖尿病悪化のリスクが低いと考えられる.
本症例は難治性悪心のため,薬剤の内服が困難であった.さらに,糖尿病の既往があったためオランザピンを選択することができなかった.そこで,舌下投与が可能で,耐糖能異常のリスクがオランザピンより低く,ドパミンやセロトニン,ヒスタミン等多くの受容体拮抗作用を有するアセナピンの使用により制吐作用が得られることを期待し,アセナピン舌下錠を選択した.アセナピンの鎮静作用を避けるために23),就寝前に1日1回5 mgの低用量から開始した.その結果,アセナピンにより著明な悪心の改善ができた.
これは,アセナピンが悪心・嘔吐の発生メカニズムであるドパミンD2,セロトニン5-HT2,ヒスタミンH1受容体に対して強力な拮抗作用を有するためと考えられる.この仮説は類似する受容体に対して拮抗作用を有するプロクロルペラジンやクロルプロマジンで一時的な悪心の改善が得られていた結果とも一致する.さらに,アセナピン5 mgを1日1回投与することによって十分な悪心のコントロールが得られた.これは,アセナピン5 mgを1日2回連日投与した試験では,半減期が35.5±20.2時間と報告されており13),プロクロルペラジンやクロルプロマジンと比べて長いためだと考えられる.
一方,アセナピンの投与量に関しては重度の肝機能障害を有する患者以外には調節不要との報告があり24,25),抗精神病作用を期待する場合は1回5 mg,1日2回が一般的な投与量である13,26).本症例では1日1回5 mgで制吐作用が得られたが,患者の症状により増減は可能である.今後,症例の集積を行い,効果と有害事象の評価が必要であると考える.
アセナピンの有害事象として頻度が高いものに傾眠(12.9%),口の感覚鈍麻(10.1%),アカシジア(8.4%),錐体外路障害(6.3%),浮動性めまい(5.2%)があるが13),本症例では就寝前にアセナピンを投与したところ,起床後に鎮静等の有害事象は確認されなかった.
村崎らは非定型抗精神病薬による代謝性有害事象のリスク管理として糖尿病患者に抗精神病薬を投与する場合は1カ月ごとの体重や血糖値,HbA1c等のモニタリングを推奨している27).本症例ではアセナピンを9日間しか投与しておらず,体重変化や血糖値等のデータの確認を含めた長期的な評価ができていない.長期的にアセナピンを使用する際には体重変化や血糖値等の定期的な確認と忍容性の評価が必要と考える.また,アセナピンを使用する際には誤って内服すると生体内利用率が極端に低いため効果が得られない点や25),CYP2D6阻害作用を有しているためオキシコドンの作用増強やコデイン,トラマドールの鎮痛作用減弱といった薬物間相互作用に関して注意が必要である13,28).
本症例は,過去に高用量のステロイド投与により高血糖を認めたため,腫瘍による炎症や脳浮腫による悪心・嘔吐に対して推奨されているコルチコステロイドを使用しなかった.しかしながら,入院前まで膠原病に対してプレドニゾロン1日4 mgを使用しており,入院直前の血糖コントロールは許容されていた.本症例の悪心を管理するにあたり,有益性を考慮して悪心に対するコルチコステロイドの反応性を確認しなかった事は反省すべき点であった.
経口投与が困難な難治性悪心に対してアセナピン舌下錠が有効であった1症例を経験した.アセナピンは,難治性悪心に対する有効な治療の選択肢となる可能性がある.
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