主催: 一般社団法人日本周産期・新生児医学会
会議名: 周産期学シンポジウム:周産期における「遺伝」を考える
回次: 35
開催地: 大阪府
開催日: 2017/02/10 - 2017/02/11
p. 25-31
はじめに
近年,欧米では,チャイルド・マルトリートメント,日本語で「不適切な養育」という考え方が一般化してきた。身体的虐待,性的虐待だけではなく,ネグレクト,心理的虐待を包括した呼称であり,大人の子どもに対する不適切な関わりを意味したより広い観念である。この考え方では,加害の意図の有無は関係なく,子どもにとって有害かどうかだけで判断される。また,明らかに心身に問題が生じていなくても,つまり目立った外傷や精神疾患がなくても,行為自体が不適切であればマルトリートメントと考えられる。こうしたマルトリートメントにより命を落とす子どもがいるという痛ましい事実を,多くの人が知っているだろう。しかし何とか虐待環境を生き延びた子どもたちであっても,他者と愛着を形成するうえで大きな障害を負い,身体的および精神的発達にさまざまな問題を抱えている。そのうえ,児童虐待によって生じる社会的な経費や損失が,2012年度で少なくとも年間1兆6,000億円に上るという試算も発表されている1)。児童虐待が子どもの心に与える影響だけでも重大であることはもちろんだが,その負債は確実にわが国全体を覆いつつある。
マルトリートメントへの曝露と衝動抑制障害,薬物・アルコール乱用,非社会性パーソナリティ障害,全般性不安障害等を含む精神疾患との関連性は,すでに広く知られている。7万人以上を対象とした疫学調査で,精神疾患は児童虐待に起因することがわかり,児童虐待をなくすと,物質乱用の50%,うつ病の54%,アルコール依存症の65%,自殺企図の67%,静脈注射薬物乱用の78%を減らすことができるという結果が出た2)。これは,医療費の削減にもつながる。
また,虐待への曝露と薬理的な関係も明らかになっている。被虐待歴がある人は,被虐待歴がない人に比べ,抗不安薬を処方されるリスクが2.1倍,抗うつ薬では2.9倍,向精神薬では10.3倍,気分安定薬では17.3倍であるとされる。さらに,被虐待経験者は,老化のマーカーであるテロメアの侵食がみられ,寿命も平均に比べ20年も短いなど,生物学的な影響もみられている3)。
近年の研究では,前述のような精神疾患の原因の少なくとも一部は,脳の発達段階で負荷がかかることに起因するといわれている。また,その発症には遺伝的要因と,逆境的体験の種類やその被害を受けた時期に関係すると考えられている4, 5)。筆者は米国ハーバード大学との共同研究によって,小児期のマルトリートメント(虐待や厳格体罰)被害経験をもつヒトの脳をMRIを使って可視化し,脳の形態的・機能的な変化を調べた(図1)6─12)。