抄録
ギリシア語に由来する社会学上の概念のなかでも、エートス (ethos) という言葉ほど多義的で、共通の理解をえにくい概念はないようにおもわれる。本稿では主要な社会学者たちによってエートスという言葉が用いられた文脈に注目し、エートスの多様な意味を析出し、整理するとともに、社会学者たちがエートスの担い手をどこに求めたかにかんする比較分析をとおして、エートス概念の社会学的考察をこころみる。
エートスの担い手を民族や社会に求める立場はW・G・サムナーやH・ボンナーにみられるが、そのばあいにはエートスが広範な担い手のなかに拡散的に浸透したものとなる。逆に、担い手を個人に求める見解がM・シェーラーやH・フライヤーにみられる。しかし、このばあいにはエートスがシェーラーのように個人の内面世界に系譜的に深化したものとみなされたり、主観的に解されたりする危険が生ずる。個人の所属集団の限定が軽視されると、フライヤーのようにナチズムとの一体化に陥ったりする。本稿ではこうした問題を克服しうる集団としてウェーバーやマートンの労作から担い手としての社会階層が抽出され、担い手をここに設定してはじめて、エートスの拡散的な浸透と系譜的な深化、そして後者にまつわる主観的な理解などが回避され、エートスの社会学的な把握が可能になることを示した。