抄録
本小稿は、日本の近代化と宗教の関連性を究明しようとする先学の諸説のなかから、日本の近代化 (=資本主義化) と浄土真宗の内面的な関連性を検討しようとする先学の諸説のみを取り上げている。そしてまず、日本の近代化と浄土真宗の関連性を積極的に評価しようとする内藤莞爾氏やR・N・ベラーの所説を検討し、M・ヴェーバーの所説と比較した場合の問題点として、西欧歴史と日本歴史との発展形態の相違について必ずしも十分な配慮がなされていない点と、ヴェーバーは新教と産業資本の関係を論究しているのに対して彼らは浄土真宗と商業資本の関係を考察している点、の二点を指摘している。次いで、日本の近代化と浄土真宗の関連性を消極的に評価しようとするヴェーバー自身や小口偉一氏らの所論を吟味し、特にヴェーバ-の所論を発展させる方途として、日本では何故西洋の如く個人の内面的規範としての禁欲的精神が出て来なかったかという点と、そういう精神が出て来なかったにも拘らず何故目本ではベトリープが形成され資本主義化が大きく押し進められてきたかという点に、答える必要のあることを指摘している。続いて、本稿はそれらの点に解答を記述する過程で、日本の近代化の主体的条件を浄土真宗を含めた日本の諸宗教に求める見解には消極的な評価を与え、逆にそれを「国」・「家」の「共同体成員」としての外面的規範に求める立場には積極的な評価を下すべきことを強調している。