抄録
デ=レーケは、来日後3年に満たない1876(明治9)年7月に「宇治川修繕目論見」とする巨椋池を含む宇治川水域の改修計画を立案した。その文面は『淀川百年史』にも翻刻され既知であったが、そこに言及されるもののこれまで不詳であった付図を、淀川資料館が所蔵する河川図のうちに見出した。このことにより、当該目論見の提案がより具体的に判明する。デ=レーケの改修計画は、当時実施していた測量と水文観測に基づき宇治川水域における巨椋池の構造と機能を認識した上で、それを治水に充当しようとするものであった。すなわち、「ノードペール(最極水量)」と呼ぶ河水位を定め、これを超えない出水は宇治川河道で全量流下させ、それ以上であれば超過分だけを新たに設ける「ヲ丶フルラート(越流堤)」を通し巨椋池に一時貯留させる計画である。しかし、この目論見は実現されることなく、逆に、1896(明治29)年からの淀川改良工事においては巨椋池の遊水機能の排除を目的とする河道改変が施工された。